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執筆の際いつもかならず大量の関連資料にあたり、場合によっては現地取材までして念入りに前もって下調べをおこない、可能なかぎり正確性を期すという点では、『火の路』もやはり事前のリサーチには余念も隙もなく、これ以上ないくらい清張らしい、虚構でも最大限にリアリティを重んじた作品であることに変わりはない。謎の核心であるゾロアスター教にかんしても、「ゾロアスターの教説は、宇宙における二個の対立する本体である。光明と暗黒、善と悪との上に立ったものである。この二元的な本体は、互いに勝敗を決すべき戦いをしている。光明にして善の神であるアフラ・マズダは一切の善なるものを創造し、暗黒にして悪の神であるアンラ・マイニュは多くの悪なるものを創造して、相互に闘争している。この世の昼夜の交替、生死の現象も、この善と悪の両霊の所作にすぎない」といったような具合に、文献を参照にした最低限の簡要な説明がなされてもいる。
がしかし、信仰や価値観などといった肝心の、思想そのものに対する理解としてはどうだろう、どうしても不充分な印象がぬぐえない。端的にいってゾロアスター教についての認識、把握の仕方があまりにも唯物論的にすぎ、とうてい納得できるものとはいえないのだ。
ほかの清張作品にもこういった類いの欠陥はしばしば観察される。古来のであれ新興のであれ宗教や共産主義のようなイデオロギーなどを作中であつかう際、詳細かつ具体的ではあるものの表面的な説明のみに終始し、本質的な、説得力のある分析にはどうしてか着手することがないのだ。特定の対象に深入りや肩入れしてしまうのを警戒し、いたずらに他者の思想信条を侵さないよう意図してのことだとおそらくおもわれるが、にしても人間を、人間ドラマを駆動するのはいつの時代もどんな社会でも、習慣や規則などのルールのみならず、欲や感情といった生理的=物質的なメカニズムにもとづいたものだけでもなく、信念や理念といった抽象的でありながらも頑強で執拗で独特の、容易には目に見えないものではないだろうか。松本清張がここの部分に焦点をあてることはまったくといっていいほどない。あれだけ人間の心理、事件の動機を一貫して重視していた作家ですら、思想の重要性にはついにいたらないのだ。
エンタメに徹した都筑道夫にも似たようなところがある。都筑作品には意図的に思想というものが排されている。エンタメ性を優先し貫徹させるがゆえに、不純物として歴史や政治に関係する思想的なものは、徹底して注意深く物語にはもちこまれない。少しの要素も入れず作中からは締め出しているといった印象なのである。
清張の場合、歴史や政治の問題には積極的に踏みこみ、また仔細を精緻に解析しさえもするものの、その根底にある人間の言動、社会の原理の基準として説明につかわれるのが多いのは、欲や感情といった単純で短絡的、つまるところ本能的な面でしかない。その点は歴史や政治にいっさいタッチしないポリシーの都筑も等しく同様で、都筑作品の登場人物はおしなべて複雑な関係、複雑な言動でありはしても毎回どんなときも動機の根底には、リアリティを感じさせる切迫した、しかしそれでいて日常的にありがちな欲や感情をかならず絡めている。
ふたりとも世代も境遇もちがえど、さきの太平洋戦争とその敗戦をはっきりと経験している。はっきりと、とわざわざ強調して断ったのは、自覚的に鮮明に記憶できたほど確固たる現実として体験しているということだからである。にもかかわらず、松本清張の場合はリアリズムを基調とした作風で歴史や政治を写実的に文学化することにほとんど終始し、都筑道夫の場合ファンタジーをいかにリアルに物語るかという問題に取り組みはしても歴史や政治はけっして描かずエンタメに徹した。ふたりの作家がそれぞれに選択し、そして異なる方向性ながら相似した空白領域が存在する遠因は、戦争体験にこそ求められるというのがようするに筆者の考えなのだが、本論とはちょくせつは無関係なため詳論は別稿にゆずる。直截にいえば、日本の戦後において歴史や政治とは天皇制にほかならないとだけ示唆するにいまはとどめておく。
トールキンのホビットシリーズを嚆矢とする世界的ブームやRPGゲームなどの影響が大きいこともむろん当然の前提として、日本に固有の特殊な「剣と魔法とネヴァー・ネヴァー・ランド」のファンタジーの広汎な流行と永続的となった定着化は、都筑道夫や松本清張が無意識に嵌まりこんだ陥穽とおそらく無関係ではない。結論を先取りしていえば、日本におけるファンタジーの物語とは架空の世界とストーリーという幻想をあらわすのみならず、偽史としての妄想としても機能しているのだ。
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