光と闇に揺蕩う免罪符のファンタジー──春野わか『黒い砂漠と勇者の種─ 千夜一 夜物語』

4/5
前へ
/541ページ
次へ
 いくつか目につく点だけでも指摘してみよう。  しばしば主人公のモルテザが日中に(、、、)沙漠を旅しているというような記述が散見される。これはぜったいないとはむろんいえないにしろ、土地柄的な慣習、風土上の知恵にしたがえば、あまり考えられない行動である。ごく短距離、短期間の移動ならばありえなくもないが、通例は海洋でない大陸での長距離長時間の長旅になればなるほど当然、できるだけ体力の消耗などを抑え、進行ペースを速め移動距離を稼ぐため効率的に、熱射を避け日が沈んでからの、つまり夜間の移動が基本となる。真夏の酷暑であるならなおさら、日中はテントや宿で眠り躰を休め、日が沈む頃にまたスタートするというのが、自動車や飛行機が登場する前までの古来、中世以前の沙漠に住む民の常識だったと聞く。もちろん特別な理由、急用などがあればこのかぎりではない。しかし作中、灼熱であることは強調されても主人公にそのような事情があった形跡も説明もなかった。  戦闘シーンにも気になる点が存する。とくに刀剣の扱い方に不充分や物足りなさを感じることが多々あった。約半日ほどという短時間に何度も連続して集中的に、おなじ、ひとつの武器を使用したならば、たとえば柄が弛んでくる、刀身が歪んでくる、刃が微細に部分部分欠けはじめるなど、切れ味の鈍る事態が発生しはしないだろうか。刃を合わせる、ぶつける、盾がわりに受ける、防具を斬る、肉と骨を断つ、血と脂が付着する等々による不具合。刃物をつかった実際の殺傷行為ではうまく想像どおりにいかないというのが、現代の殺人者たちが語るところでもある。  リアリティをもたすなら少なくとも、武器を長持ちさせるよう意識し工夫して戦っているだとか、武具のメンテナンスか交換する場面だとか、そういった描写は最低限必要ではないか。疲労が蓄積するのは金属類にのみならない。肉体的にも疲弊していくのは当然だろう、対戦を重ねるにつれ。ボクシングやレスリングなどスポーツの試合での()められたルール内の、短いラウンドですら消耗が極端に激しいのは目に見えてあきらかなのだ。文字どおり真剣勝負、命の懸かった本気の殺し合いなのだから、なおさらのこと。この話のコンセプトやタッチに添うなら、小説だからといって食事やトイレのように省略していいというものではない。  また、重み(、、)がたりないという印象も強い。命の重みなどはべつだんいらないが、武器にせめて重量感はあってほしい。いくら軽量化されてはいてもそれだと強度は低くなるし、殺傷能力が高いのであれば重量を増しそれなりの、鞭などはともかく刀剣はそれぞれに重みが発生するものではないか。それじたいの重みもそうだが、振りかぶるときの重み、振りおろすとき、振り回すときの重み、外れたとき、弾かれたとき、手ごたえのあったときの、負荷、遠心力、反動、反撥といったもろもろこみの、重み。  仮に特殊な材質で出来ていて、ほとんど重量を感じさせないうえにかなり頑丈だというなら、それはそれで作中アナウンスは必要だろう。物理的なリアリティだけでなく、三人称とはいえ主人公がおもな視点人物なのだから、もっと生々しい感触が適宜こまかく描かれていたほうがさらに迫真の場面になったようにおもわれる。それでいうと、痛みにかんしても実感をともなうような描写が稀薄といわざるをえない。なかなかに主人公は重傷を負うものの、痛がるのは最初ばかりですぐ忘れ去られてしまう。快楽のこまやかな活写に反比例して、苦痛の体感は全体的にとぼしい。コントラストがあればなお物語のオーガズムは高まったのではないだろうか。  感触といえば、それこそ食事のシーンにも見た目がほとんどで、味覚的な表現は皆無に等しかった。食レポまがいの台詞は不必要だとしても、料理の名称とか内容などが詳細なものだったがゆえに、説明文のディテールに比すと反面その食べ物がどういった味か、匂いか、噛んだ感触、舐めた感触、呑みこんだ感触などなど、体感的な描写がなかったことは不充分というよりもはや不自然でしかない。まったくの想像でも嘘でもよいから具体的な描写が多少なりともあれば、よりリアルな印象にも、よって読者が感情移入しやすくもなったはずだ。  このあたりの描写不足は、視覚的な表現に力点をおきがちなこの作者らしいといえばらしい。諸事情から考慮して、わざと計算でそうした面も多分にあるにちがいない。としても、無自覚であることもまたいなめないだろう。というのも、同作者の他作品でも視覚表現の偏重傾向は同様にあるし、問題の根は情報の量や質にあるのではない。情報の分析いかんによるからだ。  雰囲気づくりに関連する固有名詞を作品内で列挙する手法は、ほかでも再三くりかえし論じたように、創作上さしあたり有効ではある。しかし、それのみでは場合によっては空々しくもなってしまうのは避けられない。たとえば、上記で批判的に指摘したような表現のリアリティにかんする不備、書きミス、抜けなどは、もっと多くの参考文献にあたるなり、現地取材をおこない自分で実際に体験するなりすれば、ふせげもし細部まで隙のない内容とすることも可能だったろう。とはいえ、いくら情報量を増やしても的確に分析しなければ、物語とはならない。なりえない。  小説とはひとつの思想でもある。  思想への熟考がいまひとつ不足しているという点では本作の場合、信仰についての理解把握によくあらわれている。  ことあるごとに「ビスミラ」と主人公のつぶやく祈りの言葉じたいは、意味合い的にイスラームほか中東のどの宗教であってもおかしくはない。物語はそもそも架空の世界を舞台にした、虚構のストーリーなのである。だが作中、「パルシー教」のことが言及され、「アフラ」「アンラ」という神々の名が頻出し、「沈黙の塔(ダフマ)」という建築物に「アジ・ダハーカ」という伝説上の怪物まで登場するところからして、ゾロアスター教が信仰されている地域と判断してまちがいない。であるなら、ゾロアスター教の宗旨と信仰心についての、とおりいっぺん程度の浅いものでない、深い理解把握が求められる。本作はその点をあきらかに失敗している。  物語のなかでも正確に説明されているとおり、「沈黙の塔(ダフマ)」と呼ばれる石造りの特異な施設は、鳥葬を目的に用意されたゾロアスター教徒の葬儀所であり墓場でもある。厳密に教義に則って建造されているため、外観の威容も見るからに特殊ながら内部の構造に特殊性はより見いだされる。塔の中央部に巨石でつくられた窪みが存在するのも作中のとおり知られていることなのだが、確認すべきはその理由である。  ゾロアスター教では、神聖とされる火や大地が汚穢されるのをとにかく忌み嫌う。がゆえに当然、火葬も土葬も避けなければならない。風葬および鳥葬はその教説から自然に生じたと考えられる。またさらには、死者の魂を肉体ごと無事に昇天させるための葬礼だとも。  考慮しなければならないのはそれだけではない。よって、不浄とされる遺体から流れ出てしまう血液、体液、排泄物なども、ちょくせつ大地と触れるのは忌むべきことなのだ。窪みから塔内部に設けられた濾過装置はそのため大地との接触を完璧に防ぐものにほかならない。  とすると、大多数が広汎にゾロアスター教を信仰するはずの王国の領土内で、血を流す殺し合いがいたずらに、定期的に、平然とおこなわれているというのは、ちょっとおかしいとおもわなければならない。侵略や弾圧から我が身や国を守るためのやむをえぬ戦争などではない、たんなるイヴェント、王や民衆をたのしませる娯楽として開催される流血ごとでしかないのだ。  しかも問題なのはその闘技場の構造である。戦士たちがたがいに血を流すまさに試合会場の肝心要のその場がどうやら、あろうことか土が剥き出しの地面そのままのようなのだ。これでは教義に反してしまう。というより平然と反していることよりも、登場人物の誰ひとりとして疑義を呈しもしないことのほうに問題がある。主宰者の王が不信心のあるいは邪神に魅入られた人物なのだと解釈してみても、世界観からも設定上むりがある。矛盾している。なんせ主人公をはじめ、ほかの主要キャラにしろ多数の観衆にしろ、そのなかのたったひとりでも批判の声を上げるどころか疑問にも感じてすらいないわけだから、作者自身も気づいていないのだと断じざるをえない。  せめて闘技場の地面を石材で埋めて覆うなり、全面的に混凝土(コンクリート)づめにしてしまうなりしたほうがいい。「沈黙の塔(ダフマ)」と似た構造に。死者を葬る施設の反対物として、生者を屠る「喧騒の場」とでも名づけて。
/541ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加