光と闇に揺蕩う免罪符のファンタジー──春野わか『黒い砂漠と勇者の種─ 千夜一 夜物語』

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 致命的な、というよりかは基本的なミスといったほうがいい物語の根幹にかかわる重大な齟齬や錯誤は、宗教の思想性にかんして熟慮がたりないゆえにまだある。  ゾロアスター教において、アジ・ダハーカという怪物は悪、闇、死の、ようするに暗黒神のアンラ側である。対して最高神であるアフラが司る善、光、生などを象徴するものとして、火は特別視される。別名「拝火教」と称されるほどゾロアスター教は火を神聖なものと崇めているという特徴があることを念頭におけば、その姿がどう描かれるのであれ、敵対するアンラ勢のアジ・ダハーカが炎を口から吐くわけはない。吐いてはいけないのだが、想像をぞんぶんに膨らました結果だろう、キャラクターの肉づけや盛り上げるための演出が裏目に出てしまったようにおもえる。  アフラとアンラを単純な二元論でとらえてしまっていることにそもそも大きな難がある。ゾロアスター教=二元論的宗教というのでは、あまりに表層的、教科書的な理解どまりすぎない。では、どう考えられるか。要約して二点だけ簡単に述べる。  アフラとアンラは対立こそすれ、対等ではない。アフラはいわゆる創造主に相当する神である。これは、ゾロアスター教が流入しとりこまれることで天使と悪魔という(つい)概念が発生したともいわれる、キリスト教での一般的見解に置き換えてみればわかりやすい。キリスト教の神と悪魔──その親玉であるサタンでもかまわないが──は、はたしておなじレヴェルの存在と想定されているだろうか。悪魔とは、いや悪魔ですら天使と同様、もともと神が創造したものにすぎない、というのが大雑把にいって現代のキリスト教的認識である。  アフラもアンラに先行する。いわば、対立的であったとしても水平的なそれではなく、あくまで垂直的な対立、水平的二元論は現代的な解釈にすぎず垂直的二元論が本来の教義に近いのではないか。これがまず一点。  光と闇は対立的なだけではない、たがいに相反するものでありながら同時に補完的でもある。さながら朝と夜のように。生と死のように、くりかえしめぐる。循環する時間、世界観。これが古来、中世までの人々の認識である。  近代以降は発想や価値観が変わる。前進すること進歩することが是とされ称揚される歴史観や理想像、結果にはかならず原因があるとする科学的思考、過去から未来へと変化しつづけるという客観的認識などなど、時間も世界観も不可逆的に進む。直進する時間意識、このきわめて近代的な感覚で古代、中世のゾロアスター教をとらえてしまっては、善と悪が絶えず終わりなき闘争をくりひろげる、光と闇が、生と死がくりかえされるダイナミズムがうしなわれてしまう。  夜明けはくる、かならず。だが同等に、ふたたびまた日はくれるのである。この循環を近代以前の人間はどう認識していたのか、そして循環する時間意識や世界観がどのように信仰に反映されていたのか、そのように考えてみることがさしずめゾロアスター教にかぎらず古来の宗教を解するキーとなりえるのだが、作者は架空の世界と虚構のストーリーに実在する宗教と歴史をもちこみながら現実性(リアリティ)を歪めてしまっている。曲解している。  創作だから、小説だから、フィクションだから、ファンタジーだからといって許容されるわけではない。具体性のある名や物質をならべたて、性と暴力をあらわにすれば、即リアルであると、内容が残虐であれば、より陰惨であれば、自動的にダークファンタジーになると、判断してしまっている先入観と固定観念、ゆるい不徹底な認識がそこにはある。深みを欠き、表層をなぞるだけのリアリズムではとうてい人間の実存には到達できない。生きるとは、死ぬとは、はたして何なのかという人間の、現実の、存在じたいに深く根ざした切実な永遠の問いに。  いかにおもしろい物語をつくるか、いかに読者をたのしませるか、娯楽(エンターテインメント)を純粋にめざしたにすぎないというのなら、むしろ徹底してリアリティからは遠く距離をおき現実のあれこれからは潔く縁を切るべきだろう。別世界を描くことの意味はそれ以外ない。しかし断言してもいいが、たとえ異世界もの転生もののどんなファンタジー作品に仕上げようとも、人はなにがしかの現実性(リアリティ)からは逃れられないものだ。(セックス)暴力(ヴァイオレンス)のシーンを導入するだけではポルノと目的は変わらないし、時代を変え外国を舞台にしたとてそれだけではオリエンタリズムの域を出ない。  都筑道夫の感慨をもらした言葉はそういった問題意識をはるかに先取りして察し発せられたものだと、いまなら解読できないこともない。リアルタイムで現実に戦争を体験した都筑にとって、物語は、フィクションは、娯楽に徹するのが望ましかった。であるがゆえに、ややこしい歴史とか政治などの現実的なしがらみはいっさい排斥しなければならなかったのだ。厭戦感が都筑をして、歴史を断絶させ政治の空白地帯を作品世界に生じせしめたといえる。戦争それじたいをだから、真正面から作品で問うことはついぞなかった。  他方おなじ戦中派世代ながら年長である松本清張の場合、戦争の是非や原因究明は生涯にわたって主要なテーマではあった。ただし結論は感覚的に、人間の醜い争いは個人の欲望とか社会的な関係性から端を発するものだと、最初から決まっていたようにおもわれる。それがマクロな戦争にせよミクロ規模の事件にせよ。動機にかんして結論じたいは都筑道夫にも時代的に共有されていた。  そのため清張作品では、ノンフィクションものにおいても、逼迫した人間の欲や社会的な状況により犯罪が起こる、おこなわれるというのが物語のつねに基調となる。ゆえに、どれほど精緻にこまかく的確に人間の心理や関係性、すなわち歴史や政治といったものが現実的(リアル)に描かれようとも、信仰とか信念とかいった複雑に構築され絡みあった思想というものについては、ついに最後まで問題化され分析がつくされるようなことはない。  戦争と貧困をじかに経験し心底まいったであろうからある程度はしょうがないとしても、都筑道夫や松本清張が作品内で不問に付した思想性の根本的問題はその子、孫、ひ孫の世代へと、時代を経て社会環境が激変するにつれ、さらに稀薄化することになる。物語はファンタジー要素を増加させ、非‐歴史化、非‐政治化の様相をどんどん拡張させていく。仮想現実化していく。妄想(フィクション)と化した現実認識がふたたび現実社会に還流(フィードバック)されながら。  本作における英雄(ヒーロー)像がもっともそれを体現してしまっているといえるかもしれない。闘争本能を強くもちながらも、恋慕う者のために身を焦がし懊悩することはあっても、狂王への叛逆心に葛藤し煩悶することは微塵も見せるようすは、主人公格の人物にはない。それどころか、確信も実感もなく唯々諾々と命令に従う始末。意志も勇気もない、だらしなく不甲斐ない体たらく。挙げ句、王を裏切り国を救う手段といったら、真の主人公たるヒロインの計略によって操られ、流されるまま密通したすえゆえの(、、、)ひそかに将来に権力奪取という、小狡い卑劣な騙し討ち。かといって人間的な弱さが主題とされているわけでもない。男性主人公のマッチョな肉体美は再三強調され、容姿と腕力にすぐれた人物として外見中心に描写されるのがもっぱらなのだから。  歴史や政治や信仰や信念とかいった人間にとってかけがえのない、けっしてなくすことのできない切実な思想性への問いを回避し、排除しようとするかぎり、リアリズムは逆説的にしか作用しない。リアルな設定、リアルな人物、リアルな情報、リアルな描写等々と、いくら現実性を高め虚構性を糊塗しても、核心において人間を人間たらしめる実存の問題を、完全にカットしてしまうか短絡的に矮小化してしまうことをそれは意味する。ファンタジーの物語をリアルに脚色しようとして、歴史や宗教などをむしろ脱色する結果となってしまう。  虚構(フィクション)現実(リアル)を模倣しようとすればするほど、実社会は物語化の一途をますますたどるほかない。妄想(ファンタジー)偽史(フェイクヒステリー)として免罪符の効果をもたらす。想像上の、それでいて巧妙に現実を擬態した虚構によって、断絶した思想の空白は埋められ、戦争責任など実際の歴史や政治にかんするもろもろを問われなくともすむ。ファンタジー設定ということで、史実が改変されたり、事実と多少ちがっていてもかまわないとする創作上の、ご都合主義的な辻褄合わせもまったく同様である。作者側はリアリティという枷を外すか弛められ、あらかじめ読者からの非難をまぬがれるよう前もって計算に入れることもまた可能となる。  それでも長篇『黒い砂漠と勇者の種─ 千夜一 夜物語』は、このような批判的評者であってもおもわず息を呑み夢中になるほど没入せずにはいられない、非常に美しく恐ろしく幻惑的な光景にあふれている。結末にいたってヒロインの真意があきらかにされ、語られざる物語がみごとにエピローグを迎え戦慄をもって完結し、アラビアンナイトの世界が無限に広がりつつ綴じられるのも、美しく恐ろしく凄まじい。圧巻である。さすがというほかない。  なかでも「砂漠の森」の章で矢継ぎ早に展開される通過儀礼(イニシエーション)を模した死と再生の遍歴の、奇想天外さ奇妙奇天烈さは特筆にあたいする。畏怖しつつも魅了される。  生首との問答はとりわけすばらしい。作者の意図以上に絵面が異様な魅力を放っている。ただし、2024年7月に公開された最新作の短篇『生理中でもイイですか?』https://estar.jp/novels/26036717でも人間を本能と理性のように二分してまたしても説明してしまうのにも顕著なように、たんなる物質的現象のみを真理として小説内で比喩的に描いてしまうのはいただけない。ようするに性交から受精するまでの経緯を寓話化したのが全編とおしての眼目ということなのだろうが、二元論にもとづいた現実認識や世界説明では限界がやはりある。獣性といっても、自然界の他の動物が背徳の快楽にいそしむこともなければ、無意味な殺し合いに興じることもない。人間にはたしかに獣と共通するところがあるとしても似て非なるもの、単純にすべて割り切れるものなどではないことを熟考しなければ。  朝と夜のあいだには黄昏や黎明があるように、生と死、善と悪、精神と肉体といった対立的二項にはグラデーションあるいはグレイゾーンのように、(あわい)の領域が存在する。そのあいだを、そういった存在を表現するのがアートや文学では、ひいては物語というものではないだろうか。本作『黒い砂漠と勇者の種─ 千夜一 夜物語』はその不可視の領域を、人()という存在を描きだそうと試み、失敗し後退してしまった部分もある反面、新たなフェーズへの、物語の深みへの達成を高いレヴェルでなしとげた。さながら作中たびたびフラッシュバックする恐ろしくも美しい、真珠を求めて海の底へと潜りつづける憐れな勇者の姿のように、限界へ挑んで。
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