想い、呪い、ひとときのつながり──真辻春妃『天使のささやき』『ひそむ悪鬼』

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悪意はどこかに、どこからか  現代の(モダン)怪談(ホラー)『ひそむ悪鬼』では、神出鬼没で、正体不明の、不気味で邪悪な存在にある日とつじょとして、じわりじわりと日常が侵蝕され、平穏が脅かされ、やがて急襲されるさまが描かれる。  前述したように、この物語で描かれる挿話(エピソード)のいくつかはまったくの創作ではなく、作者の身に実際に起こった体験がもとになっているという。端的にいってしまえば、事実である。リアルから生まれたフィクション。フィクションのなかに潜在するリアル。虚に実をたくみに織りまぜて紡いだ悪夢。つまりは虚構の物語に現実の情報(エピソード)をアプリケーションした、虚実皮膜(メタフィクション)恐怖小説(ホラー)。  メタフィクション・ホラーとでも称すべき作品といえば、またしても都筑道夫の『怪奇小説という題名の怪奇小説』という先んじて存在する名作が脳裡に浮かびもするが、『ひそむ悪鬼』は混沌とした描き方や複雑な技法はもちいていない。ややこしくはせずスマートに、うまく自然に巧妙に、虚構の挿話として現実にあった出来事(エピソード)を変換し処理している。実から虚をつくり、虚のなかに実をひそませることによって、虚実を反転させ(メタ)(フィクション)化して作品空間にリアリティを獲得させているのだ。  時間軸上を移動し何度か前後を往還するといっても、単純に現在と過去の、交互に順に実況中継的描写をおこなう通常の構成はとられていない。現在のパートをリアルタイムで進行する不動の下地としておきながら、過去のパートはブログという形をとって、あくまでブログという記録をとおしてだけ、物語られる。  すでに二十二年前に世を去っている主人公の母親。恐怖体験の当事者であるその母親を視点人物とした過去の怪異はおもに、投稿されたブログとそれへのコメント欄によって読者の目には供される。ブログとコメントという伝聞形式であるのは、ストーリーの展開上ぎゅっと事の顛末を凝縮してスムーズに説明し、むだに冗長になるのをふせぐといった簡略化だけにとどまらない。受け手にとっては物語のなかで目にする伝聞情報も、実際にリアル世界で目にする伝聞情報も、区別なく大差ないのだ。おなじである。見かけ上にのみならず、作中作として呈示されるブログとコメントも、現実にインターネットを介して受容するそれらも、感覚的にも等価であることに注意しよう。  今作が読む者に絶妙なアクチュアリティをもたらすというのは、そういうことだ。そのために、物語の主人公と読者は立場が、立ち位置が、等号(イコール)で結ばれることになる。あらがいがたく、強制的に無意識に。体験をヴァーチャルに共有することで生じる感情移入だけではない、たしかな実感をともなう文字どおりリアルな(、、、、)追体験。  オンラインで、何らかの端末機で、モニター画面をとおして文字を追い情報を得、誰かの経験を体感するという、現代のありふれた行為それじたいに宿る呪縛にほかならないだろう、これはいわば。  われわれはいまやますますこの呪いからのがれられそうにない。おしなべて全員が情報の発信者となったがゆえに、誰しもが反対/反撃(カウンター)を受ける可能性にさらされることにもなった。いつ、どこで、何で、対話のできない相手から一方的に反感を、不評を、身に覚えのない怒りや殺意までも買うのかわからないのが、現代(いま)の社会なのだ。  炎上の火だるま、理不尽な被害に遭う可能性が高いのは何もSNSなどのヴァーチャル社会にかぎらない。覗き、ストーキング、のっとり、私刑(リンチ)といった無差別の暴力は、リアルでも充分ありうる。事実、起きている。どこでどう発生するかも、どこからどう襲ってくるかもまったくしれないのだ。  悪意は移動する。どこかに身をひそめ、どこからか姿をあらわす悪鬼とは、悪意の移動(、、、、、)を寓意しているともいえなくない。あるいは、悪鬼の存在感を、気まぐれな邪気を、匿名性や神出鬼没さを、現代の悪意を象徴するものとして意識的にテーマづけ体現させていたならば、より危険は身近に感じられ、臨場感とあわせてアクチュアルな恐怖感はさらに倍増したかもしれない。  とはいえ、悪意の移動をまるで隠喩する悪鬼の神出鬼没さは、その目的やら法則やらを作中でそれとなく暗示はしながらも意図して明確にあかさないところをみても、作者がその不気味な潜在力に自覚的なのはまちがいない。悪鬼がひそむ場所、ひそむ方法、ターゲットにする対象など、たとえ最後まで解明されなくとも、おそらく明示せずして感じさせようとする隠された条件がはっきりあるのだ。次のようなくだりは何やら意味深長で、考えさせるものがあるではないか。  悪鬼や母の死についての相談を終えたあと、昔母が持ち込んだ古銭同様に、“抜け殻”状態だった俺は、本堂でお祓いを受けてから寺を出た。  抜け殻状態──だからこそ「どこか生まれ変わったような、清々しい気持ち」とまで登場人物には実感されるのだ。が、額面どおり受けとって読者も安堵をおぼえるにちがいないであろう反面、冷静に少し慎重に顧みれば「抜け殻」とは、虚ろな器のような何もない何者でもない人物、であるがゆえに入れ物にも適しているとおもわせはしないだろうか。エピローグはホラーの常道とも定石の終幕とも評せなくはないが、悪意の発生、連鎖、増幅、拡散などを想起かつ予感させ、心胆を寒からしめるものがあり、考えれば考えるほど恐ろしい。
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