新潮流の児童文学×ミステリー/時代小説×ミステリー──ファランクス『「国語の教科書」殺人事件』/春野わか『山隠し』

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真の過激派メロス  ファランクス『「国語の教科書」殺人事件』の第一話は、いまや誰ひとりとして知らない人はいないといっても過言ではない名作中の名作、太宰治の短篇『走れメロス』のパロディである。  そういえば以前、創作論で飽きもせず判で押したように太宰治をもちあげる評者をわりと辛辣に批判した際「太宰じゃダメなんですね」と疑義を呈されたというか、疑問におもわれたような率直なコメントを寄せられたことがある。少し長いしくどい(、、、)がそのときの持論をまずはじめに復習がてら転載しておこう。  先頃ある公募の選評を目にして愕然とし半ばあきれたのが、いまだに小説を書くのにお手本にして例示されていた作家が太宰治だったことだ。たしかに読みやすい、内容もわかりやすい、なんだったらエモい(、、、)、がゆえ若い世代にもいまだ受容されている、がだからといってはたして何なのだろう、そんな有名どころの誰しも声を大にして評価するいまや権威的文豪の名を挙げたとて、いまから誰も書いたことも読んだこともないようなまったく新しい小説を、未知の世界を開拓しようと混乱(カオス)の状態からはじめ、自分の力でみずから物語の世界へと進もうと創作に挑戦する者に対して、いったい何のどんなポジティヴな意味があるのだろう。押しつけて型にはめ、多様性を排除して、べつの異なる可能性の新しい芽を摘む行為ではないか。成長も発展もない。旧態依然とした固定観念の強い抑圧的な文学観をいち読者と称する人間がいつまでも自信満々に主張するような現状には、いいかげんうんざりする。  物語は、物語のおもしろさは、ようするに物語の構造や機能は、創作メソッドの知識と技術を学び/まねし、ちゃんと要点をおさえ成功の法則に従って制作すれば、ある程度は誰でも実用化可能だというのにもたしかに一理ある。その際とくに注意すべきは、決まった定型からできるかぎり外れないように、あまりよけいにはみ出さないように、まかりまちがっても破壊などしないようにすること。さすれば、ある程度は(、、、、、)読者も人気も得られ、たぶん入選も書籍化も夢ではないだろう、きっと。  ならば、オリジナルと称され、独創的と評されるような作品の、ひいては作家の独創性(オリジナリティ)とはどこに宿るのか、あるいはそんなものなどはなからどこにもないのだろうか。  ちょうどいいのでこの機会に、筆者がなぜ太宰治に問題があると考えているのか、ある程度あきらかにしておいてもいい。本論と無関係というわけではないし、さほどむだにもならないはずだ。  今回『走るメロスのアリバイ』を論じるにあたって、元ネタである太宰の『走れメロス』を小学生のとき以来ぶりに全文を読み、おもわず愕然とした。正確にいうと爆笑したのだが、事情の仔細はすぐあとに述べる。  かんたんにいえば、あまりに雑な(、、)話だったからだ。雑なつくり、雑なストーリー展開にかなり唖然とさせられた。あきれた、といっても作者の太宰にというより、こんな雑すぎる作品を教科書に採用するのを許可した当時の、そして見直しもせずいつまで経っても載せつづける現在の文部科学省および教育委員会に。  テーマもべつにそれじたいとくだん変でも悪くもない。文体はリズミカルでやはり読みやすく、うまい。なかでも、いよいよ処刑間近、メロスが必死で街なかを駆け急ぐシーンは読ませる抜群の緊迫(スリル)感があり、さすがというべき筆力。とはいえ、国語の授業で文章を学ぶのに使用されるというなら賛成できるとしても、文学の読解力を鍛えるにはいかがなものか。端的にいって、適していない。  メロスは激怒した、という書き出しの一文はじつにみごとというほかない。がしかし、その理由説明といったらどうだろう、お粗末このうえない。たったひとりの肉親である大事な妹の、一生に一度の大事な大事な結婚式の準備のためシラクスの町を訪れたにもかかわらず、暴君ディオニスの噂を耳にしただけでたいした確証も得ずして、邪智暴虐だから「生かして置けぬ」とテロをすぐさま決意し、そのまま計画性も皆無のまま短剣ひとつ身ひとつで決行する主人公のしごく短絡的な思考と行動には恐るべきものがある。あっさりと当然とらえられるのもまた。  はなから覚悟は決まっていると嘯きながら処刑される段になって、妹の披露宴のため三日間だけ猶予をくれと哀願する不徹底な意志薄弱さ。おまけに、取引のため身代わりとして親友をさしだす身勝手きわまりない非道ぶり、非人道的な所業ではないか。王が提案を受け入れ認めるのは裏切りを期待しての許可なので理解できないことはないにしても、「竹馬の友」セリヌンティウスが微塵も躊躇なくオーケーするのはいただけない。心底から信頼してはいても久しぶりに会った親友なのだからこそ、遠慮のない本音の言葉や不安がるようすが多少あってもよさそうなものだが「無言で首肯(うなず)き」「ひしと抱きしめた」だけで諒承してしまうという、主人公よりすでに英雄(ヒーロー)然とした超人ぶり、非現実的な聖人君子キャラクター。  村に帰ると、事の詳細をあかさず強引に式を早めようと説得するも妹婿(王が手始めに殺害した人物が妹婿だったという共通項を想起するのもむだではないかもしれない)になる青年は容易に承諾せず夜通しかかるはめになってしまったのはまだいい、いざ祝いの宴もたけなわになると「しばらくは、王とのあの約束さえ忘れ」るとはどういう神経をしているのかと疑う。ときおり思い出し、やっぱり城へ戻ろうか戻るまいか逡巡するのも、人間味があるですまされるものではとうていない。軽すぎる。夏目漱石なら長篇で時間をかけ丹念にじっくり描いた人間心理の赤裸々な内奥の苦悩を、太宰はいとも簡単にラノベふうなタッチですましてしまう。すましてオーケーにする。いくら形式のちがう筆致のちがう文芸作品だといっても、とても文学とはいいがたいレヴェルである。
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