新潮流の児童文学×ミステリー/時代小説×ミステリー──ファランクス『「国語の教科書」殺人事件』/春野わか『山隠し』

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 ものすごい豪雨に外がなったのを察してはいても、列席した村の人々が少し不吉に感じただけでメロス自身は無頓着にも、まだぜんぜん間に合うと余裕綽々で深い眠りを貪る。「南無三、寝過したか」と夜明けすぎに飛び起きたかとおもいきや、やっぱり、いやいやまだぜんぜん間に合うとゆっくり用意してのんびり出発する始末。走りながら再度あれこれ内心みずからを叱咤激励(自己陶酔ともいう)しつつノスタルジックな気分になって逡巡するのは、もはやご愛嬌か。「身代わりの友を救う為に走るのだ」って、そりゃあんたが自分から勝手に王に仕向けたこと、そもそも無計画にタイミングも深慮せず暗殺を試みて案の定みごと失敗した愚考の愚行が招いたことだろうが、というような自省(ツッコミ)には当然ながらいたらない。  このような自業自得のマッチポンプ的な思考停止っぷりもふくめ、おもわず足を止めそうになったりだとか、「えい、えい」とひとり叫ぶさまだとか、そういうメロスの言動を描くことにより、正義感にあふれた人物でも人間的な弱さや迷いがあるのだと、作者の太宰治はそうしたものを戯画的に寓話として描きたかったのだと評する向きもあるかもしれない。何しろベースにしたのは近代以前の、ようするに近代的自我を獲得する以前の内面なきキャラクターが登場する神話や叙事詩なのだし、芥川のように中世までのダイナミックな人間観や神話的な世界観に託してアクチュアルな本質を問うということをやりたかったともおもわれる。しかし結局それが芥川作品の真似事レヴェルにすぎないのは、このように表現力が中途半端であるところからしても、わざわざ比較するまでもない。  まだ道半ばなのに「ここまで来れば大丈夫」と安堵してスピードをゆるめ小唄まで歌い歩きだすにいたっては、これはもういまでいうサイコパスキャラにしかなってない。語らずして主人公の内面、主人公の内奥の迷い、戸惑い、後悔、意識されない深い苦悩をあらわしているといえるだろうか、いやどう贔屓目に見ても内省の欠如としかいいようがない描写である。  途中の河川が氾濫し渡れなくなっていたという想定外の、前夜からの大雨を考えると常識的には充分に予想できたケースであるとしかいえないが、緊急事態が起こっていたことでメロスは焦り慌てる。さて、どうしたものか。あなたは読者としてどういう困難の乗り越えを期待するだろうか、あるいは作者だったとしたらどういう物語のダイナミズム、登場人物の活躍を描くだろうか。主題にちなんだ必然性から導かれる人知を越えた奇蹟的な現象によってか、通過儀礼(イニシエーション)ないしは成長物語(ビルドゥングスロマン)的なプロセスを意味する個人の、人間の、あくまで努力や機知や助け合いによってか。  残念ながら結果はそのどちらでもない。ただ主人公のど根性によってむりやり泳ぎ渡るという、運とか、せいぜい精神論めいた発想の解決がおこなわれるだけ。これでは「泳げメロス」であろう。  ところが、メロスの困難はこれで終わらない。立て続けに災難にみまわれる。次は大勢の山賊に囲まれ襲われたのだ。さて、どうしたものか。再度あらためて読者には予測していただきたい。いかにして主人公はこのピンチを切り抜けるか。  答えはまたもご都合主義的クリア。おそらく王から依頼されただろうほどのいっぱしの賊のはずが、圧倒的な数と地の利にまさっているにもかかわらず、メロスは武器を力ずくで奪いとり三人をあっという間に打ち倒すと脱兎のごとく一目散に逃げだし全員を撒くことに成功するという、まさに奇蹟。否、ご都合主義。  ところが、「真の勇者」と誰が称しているのか知れないが「真の勇者」メロスは、ここにきてついに疲労困憊のため道端に倒れこむ。さらには、ここにきてモノローグ的につらつらと自己正当化の弁を饒舌に語りだす。あれやこれやと自問自答ふうに内面を吐露するのだが、なんてことはない、たんに雄弁に言い訳を述べたてているにすぎない。驚くべきことに、直前まで神話的英雄のキャラクターだった人物が、突然ここにきて近代的自我の人間にキャラ変したのだ。  しかし、やはりメロスはサイコパスキャラだった。「やんぬる(かな)」とまで、ようは勝手にしやがれ(ネヴァーマインド)と吐き捨てふて寝をきめこんだうえに、一寝入りし目が覚めてみると気分一新、よほどリフレッシュしたらしく体力が回復もしたのか、それまでの懊悩はころっと忘れ──この忘却っぷり反省のなさ懲りなさがまさにサイコパスをおもわせ楽観的ですまない怖さも感じさせるのだが、とりあえず切り替えの早いポジティヴシンキングの持ち主だとしよう──、ふたたび立ち上がり軽快に歩を進めだした。  先ほどまでの気の迷いは「悪い夢」だった、「悪魔の囁き」だったと自分にいい聞かせるところなど、いかにも他人のせいにばかりする自己弁護や責任転嫁が癖のタイプといった人間の典型だ。サイコパスのサイコパスたるゆえんである。  セリヌンティウスの弟子と名のるフィロストラトスが道中に合流し(疾駆するメロスに伴走しながら話しかけつづけるこの男の姿も想像するだに滑稽としかいいようがないが)、繰り広げられる場違いな(そんなことを悠長にしている場合ではないだろう)問答のなかで「間に合う、間に合わぬは問題でない」であるとか「人の命も問題でない」といいきる「真の勇者」で「正義の士」メロスの発言というか暴言も、開き直るにもほどがある。度がすぎる。ただしメロスのここでいう死へと向かう目的、自分を駆動させる「もっと恐ろしく大きいもの」が何かということには注意しておいたほうがいい。  そうしてあのあまりにも有名なラストシーンになるわけだ。約束の厳守と再会を果たした「真の勇者」メロスとその「竹馬の友」セリヌンティウスがたがいに順番に、相手に対する裏切りの心を一度でも懐いたことを告白し、一発ずつ殴りあい抱きしめあうという名シーンに。この期におよんでまだ「悪い夢を見た」と言い訳することを忘れないメロスの告白にもさすがは聖人君子セリヌンティウス、ただ「首肯き」要望どおり「刑場一ぱい鳴り響くほど音高く」殴りつける。ここまではまだいい。なんせ、セリヌンティウスはメロスの完全なるわがままに、しかも自分の命を危うくするいわば身が保障される確約などない危険な賭けにつきあったのだから、一発くらい親友の頬をおもいっきり殴ったとて倫理的に責められる筋合いはないだろう。もしも彼とおなじ立場おなじ状況におかれたら、誰しもいささかの躊躇もなくおなじ行為が自然とでるはず、すなわち一時的な暴力もいとわないはずである。  おかしいのはそのあとだ。なぜセリヌンティウスのほうまで、たった一度メロスを疑ったとカミングアウトして殴られなければ、ストーリー的に殴られることを望まなければならないのだろうか。三日間あの状況下にあったら誰でも、たったの一度くらい友人を疑うことはやむをえないではないか。むしろ「たった一度だけ」というのが事実なら人が良すぎるし、とりようによっては不自然とも胡散臭いともいえる。なのにメロスは断りもせず、全力疾走した直後とはおもえないほど全身全霊の力で「腕に唸りをつけて」、おとなしくいうことを聞いて待っていただけの親友を殴るのである。正気とはおもえない。信じられない。  死刑執行直前あわやというタイミングで磔の現場に到着したメロスは、声高に叫んだつもりでも「喉がつぶれて(しわが)れた声が(かす)かに出」るだけだったはずなのになぜかそのあと、どよめく群衆に囲まれていても朗々とはっきり友と語りあうのも素直に信じることはできないのだが、信じられないよう(アンビリーバボー)な奇蹟もといご都合主義はまだまだ立て続けに起こる。あれだけ妹婿をはじめ妻子から何から殺害にいたった暴君ディオニスが、とかく抱擁したがりのふたりが殴りあう姿を間近に目にしたとたん、自分も仲間に入れてくれといってあっさり改心するのは、にわかに信じがたい。驚くべきものがあるし恐るべきものがある。しかもそれを聞いてメロスたちも民衆も、これまたあっさりゆるすのだ。残虐非道のかぎりをつくした狂王を。  これはもう茶番というほかない。全体的に省略すべきところと詳細に描写すべきところをまちがえている。不足と迷走のメロスである。最後に主人公が真っ裸に近い格好であったことを恥じるのも、比喩になっているのはもちろん理解できないこともないが、これなどまさしく蛇足といわざるをえない。こういった調子で全体的に、風刺をきかした説話としては冗長すぎるし、リアリティをもたした小説にしてはこまやかさに欠けて大雑把すぎる。雑すぎるのだ。  批判的検証がいささかすぎたようだ。かようにツッコミどころ満載なのが、太宰治の代表作のひとつ『走れメロス』にほかならない。とても笑いなしでは読み通せない。奇蹟のドラマではけっしてない、これは純然たる喜劇の寓話だろう。笑劇(コント)としてたのしむよう書かれたとしか考えられない。もし太宰が真剣に文学として意識し執筆していたのだとしたら、それこそほんとうに信じられない(アンビリーバボー)。それとも、真剣に受容する可能性のある子どもに向けて、児童文学として書かれた作品なのだろうか。だとしても、それにしてはやはり繊細さがたらないし飛躍している自覚もない。人物造形にかんしてもストーリー展開にかんしても。
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