第一回 定義をめぐる混乱

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 大坪砂男は短編『天狗』で、高木彬光は長編『刺青殺人事件』で、ともに昭和二十三年にデビューし早くから文壇で注目されていた。  『天狗』は江戸川乱歩にも絶賛されたものだし、『刺青殺人事件』は乱歩の推薦を得て公表された作品である。大坪砂男も高木彬光もともに、日本の本格探偵小説を担っていく才覚ある逸材として、戦後すぐ江戸川乱歩に評価されていた作家だった。  そればかりではない。長く時代を経た現在でも、『天狗』、『刺青殺人事件』の両作品ともが、日本ミステリー史に残る傑作として依然として高く評価されつづけている。乱歩の見識眼も、作品の真価も、正しく歴史的に証明されたものであることはまちがいない。  そのたしかな実力をもつ鋭敏な作家ふたりが、「推理小説」という名称とその概念をめぐって、認識と意見を(たが)い戸惑っているのだ。  ミステリー小説や推理小説といった呼称が対立せず、疑問を感じないままに同じ意味の用語としてすっかり共存し定着している現在の状況下のわれわれからすると、このことはどうも理解しがたい一見奇妙な議論に思われる。なぜ「推理」小説では駄目なのだろうか。むしろ「探偵」小説よりは「推理」小説というジャンル名のほうが、われわれ現代人には自然でしっくりくるとも。  しかし当時の彼らの問題意識には、無意味、無関係なものとしてしりぞけることのできない、創作者の危機意識から発せられた真剣な想いが強くぶつかり響き合っているように感じられる。その問いにはけっして一時代の当事者たちの間だけの、一過性の出来事だとは片付けられない、何か重大な意味合いがおそらく潜在している。  文脈からして当時の、大勢の正直な感慨や意見を代弁しているらしいことはそのやりとりからうかがえるし、それどころか問題はどこか、現在の本格ミステリー/推理小説の本質をめぐる曖昧性と混乱に、肝腎の部分で地続きにつながっているのではないだろうか。  では、探偵小説と推理小説のそのちがい(、、、)とはいったい何なのか。本格ミステリー/推理小説の核心を問うために、まずその微妙な相違と変遷により生じた偏差を頼りにじっくり考えてみたい。
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