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俺にとって彼女は、
そこらにたくさん転がっている、お気に入りのひとつで。
たくさんある、楽しいこと、嬉しいこと、気持ちいいことの、
そのひとつにしか過ぎなくて。
都合のいい時に、自分の家みたいに彼女の部屋に上がり込んで、
好き放題にウダウダして、
気分が乗ってくれば抱いて。
なのに今、雑踏に紛れて彼女が見えなくなる瞬間、
心が、頼りなく傾いだ。
昨夜の熱も、吐息も、この手にまだ生々しく残っているのに、
なぜかあのまま――、
人混みの中に見えなくなったまま、
すべての彼女に連なる糸が切れていくような気がして。
俺は、雑踏を見つめたまま、窓際で動けなくなっていた。
幼い頃の動物園での出来事を思い出していた。
ゾウ、キリン、ライオン、カバ、サル……
たくさんの、初めて見る動物達にはしゃぎ、
園内でもらった水色の風船に大喜びし。
何もかもが珍しくて、楽しくて。
ソフトクリームの露店の前で食べたいと駄々をこね、
その拍子に、握っていた風船の糸を、手放した。
指先から離れた風船が、ふわふわと空に上っていく。
慌ててぶら下がる糸を捕まえようと手を伸ばしても、
二度とは届かない。
水色の風船が、ゆっくりと遠く小さく空に吸い込まれて行くのを、
ただずっと、目で追いかけるしかできないもどかしさに、
盛大に泣いた、幼いあの日の俺。
夏の火照りを少しずつ鎮めるかのような、涼やかな落ち着きを見せる雨上がり。
いつもと変わらずざわめく朝の雑踏には、もう彼女の姿は見えない。
見えないけれど、今までで一番近くに、彼女を感じていた。
怒った顔も、泣いた顔も、
ようやく最近見せてくれるようになった、拗ねたような幼い顔も。
失くしたくない。
ずっと、見ていたい。
彼女のどんな顔も、俺が一番に見ていたい。
楽しいことも、つらいことも、
何もかもを彼女のそばで迎えたい。
そして俺は、
ただたくさんの楽しいことを追い求め、
『自由』だけが大切だったあやふやな熱い夏の終わりを、
静かに、でも確かに、
感じていた。
Fin.
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