第1章

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「野獣先生と菜箸お玉さん」         月  光(つきひかる) 一 野獣先生 京急大津駅から歩いて五分くらいのところに、看板も掲げていな ければ表札もない、いつも閉まっていて、誰かに聞かなければ営業 日もよく分からない「整骨院」がある。  ただ、近隣周辺の人々には名医の誉れ高い「整骨院」であるが、 この先生は、柔道整復師であって医者ではない。それなのに名医と 言われている。  先生の名前は猪熊虎次郎と言う。通称「野獣先生」である。  先生は、柔道整復師で骨接ぎとか、整骨とか言われる仕事が本業 なのであるが、先生曰く、ある日突然、神が光臨したように、これ までの整骨院になかった画期的な治療方法を発見したというのであ る。  それは、人間の両手には身体全体を司る神経が集中しており、そ こをピンポイントに刺激し、決められた位置にテーピングをしてお けば必ず治るという嘘のような治療方法だった。  僕がこの先生を知ったのは、僕が足を痛めて困っている時に、僕 の母が先生の風評を聞いてきて、治療を受けたことがきっかけであ った。  僕は、その頃、学生時代から十年以上の長きにわたって交際して いた彼女と、ようやく結婚式を迎えようとしていた。式場はかねて から憧れていた観音崎京急ホテルである。  僕は結婚式進行の打ち合わせをしている時に、担当者の人から司 会の方からの紹介でもいいし、オリジナルのプロフィールムービー でもいいので、お二人のプロフールを紹介するコーナーがあります ので、作成をお願いしますと言われたのである。  婚約者である彼女には弓道で国体準優勝とか、高校総体で三位と か、華々しい戦歴があるうえに獣医師という有資格者だから、割り 当ての時間に入り切らないほどの話題があるからいいものの、僕は これまで平々凡々とした生活をしてきて、何となく大学を出て何と なく就職をしたようなものだったことから、大学生の頃に早食い競 争で優勝した以外は、世間的に誇れる華やかな経歴は何もないこと に気が付いたのである。  僕の素性を熟知している家族や友人が多数いる中で、見え透いた 嘘を言うわけにもいかないことから、僕は彼女に、ムービーの九割 の時間を君にあげるから、僕の段になったらサラッとやっつけよう
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