第1章

5/11
前へ
/11ページ
次へ
 室内は、待合室と治療室が一緒で、待っている全員が、先生と患 者が会話しているのを目と鼻の先で聞いている状態で、個人の秘密 とか、プライバシーの保護という言葉は完全に死滅している治療室 であった。  僕は順番待ちの小母さんから「こっちへ来なさいよ」と手招きさ れ、診察室のベッドの片隅に座らされた。  先生は椅子に座り、患者は正対して椅子に座って診療を受けるの だが、順番待ちの人には待合いの椅子などなく、診察室のベッドに 順番に座るのが習わしになっていた。  だから、患者がベッドに横になって治療を受ける時は、全員が立 ち上がって避けて、僕などの新人?などは、 「おい君、このご婦人の肩を押さえておいてくれ!」  などと、初対面で挨拶も済んでいないのに、酷使されてしまう有 様であった。  隣のご婦人が、 「今日は混んでいるでしょう。診察時間に先生が来なかったの。皆 さんが今日は来ないのかなと思っていたら、悪びれもせずやってき て、犬を散歩させていて遅くなったと言うの、ひどいでしょ」  先生に聞こえているのにかまわずに言う!それに・・・ひどいと 思うなら来るなよと言いたいところであるが、それでも皆さんが辛 抱強く待っているのは、名医の治療を受けたいがためである。  少し時間が経って、やっと僕の診察時間が来た。 「何の用だ」と言う。何の用だと言われも困ってしまうが、僕はも う蛇に睨まれた蛙同然で、嘘を言う気力もなく正直に、 「ハーフマラソンに出たいと思って練習中、股関節を痛めて一歩も 走れなくなりました」と言った。 「他は?」と言うので、「右足の甲も痛めています」と言った。  先生は、先が細いステンレス棒で、僕の右手、左手のツボと思わ れるところを押し、何度か繰り返した後、「立って見ろ」と言うの で立ち上がると、今度は「そこで足踏みして見ろ」と言う。  不思議なことにすっかり痛みが消えていたのである。僕が本当に 不思議だなという顔をしていると、先生は満足そうに、先ほどまで の厳めしい顔をニッコリさせて「良かったな」と言った。  先生は、もう一度同じ箇所を金属棒で押した後、押した痕跡が残 っているところに、ピップエレキバンのミニミニタイプの磁気バン を貼り付けていた。 「マラソンに出るって?それなら今度、履いているシューズ持って 又来い。それに今日から練習を再開していいぞ」 「先生、今日は雨ですよ」
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加