第1章

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ャーで四番という、野球ではよくあるスーパースター的な存在であ った。 お玉さんが中学の県大会で優勝という実績を掲げて、進学を希望し たのは、ソフトボールの名門校である横須賀市の女子高校であった。  しかし高校時代は、高校総体やインターハイなど、ベスト四まで は必ず進出するが、その先には進めない厚い壁に阻まれて三年を費 やしてしまったのである。  お玉さんにしてみれば、朝から晩までソフトボールをやっている か、母親が用意してくれたドカベンを食べているか、どっちかだっ たような気がするが、これだけ集中していても結果は残念ながらつ いてきてくれなかったことに、もっと、もっと努力していた人に負 けたことだろうと悔しさを堪えた。  ソフトボールが初のオリンピック種目になり、初めて開かれたア トランタオリンピックがあったのは高校三年生の時であった。その 時に、全日本の選手選考会を兼ねた練習試合に招かれたものの、日 本代表のピッチャーで、同じ高校出身のエースの実力の前には屈す る以外になかったのである。足下にも及ばなかったということだっ た。結果は控えの全日本の正ピッチャーにも、サブにも入れなかっ たのである。お玉さんの「努力をすれば願いは叶う」という信念が 完璧にうち砕かれた瞬間だった。  このオリンピックでは、日本は奮闘空しく、アメリカ、中国、オ ーストラリアに上位進出を阻まれて四位に終わっている。  大学進学の道もあったが、収入の少ない両親に迷惑はかけられな いということもあって、次のシドニーオリンピックに夢をかけるつ もりで、ソフトボールでは社会人の名門で、横浜市にある大手電気 会社に入社して満を持すことなったのである。  人間というものは、一度挫折してみると、逆に成長してくるもの で、大手電気会社では社会人一年目にして、あっさり全国大会に優 勝してしまったのである。勿論、全国から集まった優れたメンバー に恵まれた結果だったが。  その後は、お玉さんのサウスポーから投げる独特の投球に磨きが かかり、次のオリンピック代表は間違いないと言われるようにまで なってきていた。  しかし、オリンピック代表候補選考の前の、二十二歳の時に妊娠 したのである。相手は総務部広報課の課長補佐で四十五歳、自分達 が所属する広報部の上司だった。  不倫だと言われた。事実不倫だった。
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