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綾子の苦しそうな顔が少しほころんで、
「勝次(かつじ)さんに気持ちを伝えてほしいの」
千尋は目を丸くして、
「ちょっと待ってよ、突然。勝次さんって誰?」
いつもと違う様子に、千尋は綾子が認知症になったと思い、
「わ、わかったわ、今日は忙しくて詳しく聞けないからまた明日来るね」
慌てて、
「じゃ、また明日ね」
そそくさと病室を出てしまう千尋。
エレベーターホールで思わず大きなため息をつく。
自宅の居間でテレビを見ている千尋。
ちょうど昌代が帰宅する。
「お帰り。お疲れ様。」
千尋が放ついつもと変わらぬせりふ。
「母さん、今晩のおかず作っておいたよ。食べる?」
うなずいた昌代はスーパーのレジ袋をドカンと食卓に置いたが、いつもと違う千尋のオーラを感じた。
「あれ? 今日はなんだか変だね。何かあったの?」
千尋、首を大きく縦に振り、
「あのさ―― 綾子おばあちゃん認知症なんじゃない。今日変なこと言い出したんだ」
「勝次さんに気持ちを伝えてほしいって。だって、亡くなったおじいちゃんの名前って宗二朗でしょ?」
昌代、あっけらかんな顔になり、
「そうよ。宗二朗よ。勝次なんて人、おばあちゃんの友達にもいなかったわよ」
昌代と千尋、向き合いながら同時に、
「もしかして、認知症かも……」
その時、時刻はちょうど午後6時。逗子市のオルゴール時報「真白き富士の根」が鳴る。
暖めたおかずとご飯を電子レンジから取り出した昌代は、何か思い出したような様子だ。
「ちょっと待って、真白き富士の根……そういえば、私が小さい時におばあちゃんが言ってたっけ。高祖母(こうそぼ)の妹の好きだった人がボート遭難で亡くなって、その彼を待ち続けて、ずっと独身を通したそうよ」
千尋が初めて耳にする血縁者の呼称だ。
「高祖母って?」
昌代はあきれて、
「知らないの? 高祖母というのはね。曾祖母(そうそぼ)のお母さん。ってことは私のお母さんのお母さんのお母さんの、またそのお母さん! これでわかる?」
千尋は苦手な宇宙論を聞いているような顔つき。
「まるで宇宙人になったような気分だわ」
昌代は話を続けて、
「あの時は気に掛けていなかったけど、確か江島(えとう)カ・ツ・何とかという名前、そうか、その名前は勝次だったんだ」
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