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勝次は急にまじめな顔になり、
「俺、親戚には神奈川の人がいないし、ボート遭難のこと自体ぜんぜん知らなかったんだから。まったく関係ない人間なんだ」
「そうね。年齢も本当の勝次さんとは、かけ離れてるしね」
「せっかく逗子に来たんだから、このあたりを案内するね」
神武寺駅へ行き、2人は六浦方向へ歩いて行った。
「ここが私の母校。中学のときバスケやってたんだ。補欠だったけど」
「勝次さんは?」
勝次は落ちていた木の枝を拾いながら
「くもをとっていた」
「え――、蜘蛛なんか捕っていたの? 変な趣味。生物部?」
「おいおい、その蜘蛛じゃなくて、あっちの雲!」
拾った木の枝で空の雲を指す。
「写真部にいたんだ。紺碧の空に白い雲、きれいだと思わない? その日によっていろいろ表情があるんだぜ」
千尋の目がなぜか赤く潤んでいた。
それを見た勝次、わけがわからず戸惑う。
「実はね、」千尋がそう切り出し、
「他界した父も青い空が好きでね、たくさん空の写真を撮っていたの。勝次さんと同じようなことをいつも言っていたわ……」
勝次、神妙な面持ちで深くうなずく。
「お父さんの気持ち、よくわかる」
千尋は込み上げる悲しみを飲み込んで、
「この先を登っていくと鷹取山まで行けるんだけど、今日は時間がないから。また来たときにでも……。鷹取山からの眺めが最高なんだ」
「あ―― もうこんな時間。病院へ行っておばあちゃんに今日のこと報告しなきゃ」
「わざわざ長崎から来てくれてありがとう。なんだか初めて会った気がしないね」
勝次はうなずき、
「そうだな。幼なじみに会ってる感じだな」
「結局、ボート遭難の江島勝次さんとはまったく関係がなかったわけだけどね」
千尋は小麦色の腕を差し出し、
「ちょっとケータイ貸してくれる?」
千尋は勝次の携帯電話に自分の電話番号を打ち込んで発信すると、千尋の電話からは真白き富士の根の呼び出し音がした。
「よし、これで連絡が取り合えるね」
千尋は勝次に携帯電話を返すと、
「また会えるかもしれないね。」
勝次はすかさず、
「今度会ったときは『千尋』って呼んでもいいかな?」
千尋は真剣な面持ちで、
「いいわけないでしょ。知り合ったばかりなのに……」
それを聞いた勝次は若干萎縮して、
「わかった、じゃあね」
2人は後ろ髪をひかれるようにゆっくりと反対方向に歩き始める。お互いに後ろを振り向かずに。
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