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第一章
隣りの家に住む、しわの深いおばあさん。小綺麗で清潔で、いつも少し遠い目をしながら私に話をしてくれるその人は、初めて会った時からずっと、同じ話しかしなかった。
「夫と出逢ったのはね、大学受験の時だったの」
いつも話すのは、旦那さんのこと。
背が低くて声にすこし色香を含んだ、とにかく優しい人。それが私が聞く限りの旦那さん像。私は会ったことがない。もう何年も前に亡くなっているらしかった。
私がここに越してきたのは、ほんの1ヶ月ほど前。
「一瞬で、お互い恋に落ちたのよ。大学進学と同時に、付き合い始めたわ」
おばあさんの話は、いつもふたりの出会いから始まる。
その内容はあまりの衝撃で、最初は耳を塞ぎたくなるばかりだった。
「この人しかいないって、そういう感覚にね、なったことがなかったから。ただただ周りも見えなくてね。走るだけ走ってしまったの。そうしたら、三年目に理由も話さずに“別れよう”って言うのよ」
そう話す彼女は決して哀しそうではなく、むしろ幸せなことを話すように目を細めている。
「私はもう、突然のこと過ぎて固まってしまって。気付いたら、彼のいない生活が始まっていたわ」
もう空でぜんぶ私が話せてしまうくらい何度も聞いている彼女の思い出は、彼女が唯一、生きている証に思えた。もう90歳も間近で、生活のほとんどをベッドの上か庭に面した椅子で過ごす彼女は、いつお迎えが来てもおかしくない状態だった。
彼女の介護を申し出たのは、なにかを感じていたからかもしれない。おなじ空気みたいなものを。数ヶ月前に、私も大好きだった彼と別れてしまったから。
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