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診察室を出て、聖志は「はぁ……」とため息をつき少しだけネクタイを緩めた。
好きになれない事ばかりだけど、愚痴っていても生産性がない。
聖志が「あまり好きになれない」と思いつつもこの仕事をしているのは成績がかなり優秀だからだ。真面目で勉強家な聖志は入社した二年間で会社が求める以上の薬に関しての知識や資格を習得していた。
医療関係者と話すうえで無知を晒すのは失敗以外のなにものでもない。どんな医薬品名や病名が相手の口から出ようが「ああ、それは」と話しが続けられなければ営業トークも出来ない。聖志の趣味の一つに読書があるが、入社してからの彼の愛読書はもっぱら医学書だった。
聖志は一区切り付けるように肩をグルグルと回し背筋を伸ばした。帰りの挨拶をすべくナースステーションへ向かう。看護師たちとの会話も営業の大事な仕事だ。
くすんだ緑色の一人掛けがズラリと並ぶ、精神科の待合室。もう正午近くになるというのにまだ七、八人の患者が座っている。外来の患者の中に一人だけパジャマに松葉杖の男がいた。右足にギブスをはめている。
骨折したうえ更に精神科か……大変だな。
聖志はそう思いながら俯いた頭と痛々しい真っ白なギブスを横目で見て通り過ぎる。ナースステーションを覗き、パソコンへ向かっている看護師へ声を掛けようとした時だった。
「日比野さーん。日比野圭介さーん」
聖志は思わず振り向いた。その名前に聞き覚えがあったからだ。
ギブスの男が松葉杖を使いゆっくりと立ち上がる。隣に座っていた年配の女性が手を出すと「大丈夫」と断る声が微かに聴こえた。
圭介?
立ち上がり松葉杖を両脇に挟んだ男性が、目にかかる長めの前髪が邪魔なのか軽く頭を振った。その仕草に聖志はハッと息を飲んだ。
やっぱり圭介だ。まさかこんなところで会えるなんて。
通路の真ん中、偶然の再会に呆然として固まる聖志を圭介がチラリと見た。ドキッと胸が鳴る。しかし圭介は顔色一つ変えず、看護師がドアを開けて待つ診察室へ入って行った。
「…………」
そっか……。そうだよな。俺の事なんて覚えてるわけないか……。
一瞬でも再会に胸を躍らせた己がバカみたいだと聖志は苦く思った。
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