第1章

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オリーブが沈んだマティーニ。 付き合い始めのとき、貴文が教えてくれたもの。 初めてのバーで何を頼めばいいかわからない私に、これなら間違いないと勧められた。 それ以来、私はカクテルと言えば必ずマティーニ。 バーのカウンターに緊張しなくなるくらいまで慣れても、マティーニを頼むのは変わらなかった。 私にとっては彼の教えてくれたこの味が絶対で、全てだったのだ。 「…っ…」 突然、堰(せき)を切ったように涙が溢れ出した。 ポタポタとカウンターにみっともなく雫を落とす。 「…っ、う、……くっ……」 他に客もいる店内。 わかってはいても涙は止まらなかった。 マティーニだけじゃない。 胸の辺りまで伸ばした髪も、小振りなパールのアクセサリーも、ピンクベージュのシンプルなネイルも。 全て貴文の好み、貴文の気に入るように選んだものだ。 この2年間、私は彼の色に自ら進んで染まり、彼の導く世界を見ていた。 大袈裟でなく私の全てだった。 そしてそれは、彼との未来が揺るぎないと心から信じていたからだった。 こんなにも簡単に壊されてしまうとも知らずに。
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