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そんなわけがない。
今、世間は俺が追っている殺人鬼の話題に持ちきりで、夜中に出歩こうとする人間はほとんどいない。こんな時に外へ出たがるのは、俺を暴行した犯罪組織の奴らのような、人がいないほうが都合の良い連中くらいだ。
ましてあの場所、イーストエンドは十八世紀の急激な人口増加で移民が大量に移り住んだ貧困街。
工場地帯のため大戦時に集中砲火を受け人々は離散したが、こいつみたいな良いところのお坊ちゃんが夜中に彷徨く場所ではない。
俺は深い緑の瞳を真っ直ぐに見つめた。相手の真意を逃がさないよう、容疑者を尋問するときと変わらない調子で質問を投げる。
「あくまで偶然あの場にいたと? 何のために?」
「何って、遠出の仕事があったんだ。そこから家に向かう途中通りかかったんだよ。それとも、君は僕が何か他に目的があってあの場所にいたと思っているの」
「いや……そういうわけじゃないが。あの日、他に何か変わったことはなかったか?」
「僕は既に暴行を受けた後の君しか見ていないよ。そのあとはすぐに君を連れて病院に行ったし」
飄々とした態度で話すノア。
こいつが警察の捜査協力以外の仕事をしているところを見たことがなく、いつもフラフラしている印象しかないので、"仕事をしていた"という言葉すら怪しく感じる。
それにあの時嗅いだこの男の香りはトップノート───香水を付けてから精々一時間以内のものだった。時間は深夜だ。帰り道にわざわざ香水を振り直す人間もいないだろう。
引っ掛かる部分はあるが、頭を殴打されたせいであの時の記憶は曖昧だった。何の根拠もなく突っ込んだところで躱されるのが落ちだ。今は追及すべき時ではない。
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