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「あ……ぐっ……」
口から漏れ出た喘ぎ声に、何かが反応する音がした。
酸素を取り込もうと空気を吸い込むが、思うようにできずにぜー、ぜー、と喉が鳴る。既に乾ききった血が鼻腔をほとんど塞いでいた。
「ああ、やっと起きたんだぁ」
訛りの混じった男の声が前方から聞こえる。詰まった鼻から無理やり息を吸うと、その方向からはおそらくその男が吸っているクサの煙臭さと空腹からくる口臭が混じった匂いがした。
それよりも右側にもうひとつ、男特有の体臭と整髪料の匂い。
鼻が利かないせいでその向こうは誰がいるか分からない。拘束される前には、少なくとも四人の男がいた。本当にそれだけか?
「続きしようか。で、お兄さん誰に命令されてここにきたの? さっさと白状してよ。俺らの取引、邪魔しようとしてたんでしょ」
甲高い男の声が続けざまに降ってくる。
「聞いてんだろうがよぉ!」
男が罵声を浴びせ、間髪入れずに腕へ打撃が飛んできた。椅子ごと吹っ飛ばされ、床に体が打ち付けられる。
「待て、ポケットから何か」
近付いてきたのは整髪料の匂いがする男だ。男の手が伸びてきてスーツの胸元をまさぐられる。懐に入れていた警察手帳を抜き取られた。
「こいつ、警察だ。ロンドン警視庁のウィリアム・ヘイガン刑事だと」
低くくぐもった声で男が言う。男の言葉に驚いたのか、その背後で物音がした。
「警察に張られていたのか?」
慌てて別の男が声を上げる。
「いや、今まで誰も助けに入らないところを見ると、そういうわけじゃないだろう」
胸ぐらを引っ張られ、肩から上が宙に浮く。その時、布越しにも眩しいほどの閃光が飛び、深夜の閑寂を銃声が引き裂いた。
「それ以上触るな」
誰の気配もしなかったはずの後方から凛とした声が鼓膜に響く。
追って硝煙の香りと……嗅いだことのある香水の匂い。まだ付けてから時間が経っていない、ミントと、西洋杉と、柑橘類やグリーンアップルの果物が合わさったクリアな香りだ。
たいして利かないはずの鼻から確かに色濃く脳へ届く。それを嗅いだ瞬間、全身の緊張が解け、意識がぷつりと切れる感覚があった。
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