男が喫茶店へ入る。

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(カラン・・・)  乾いた音が店内に響いた。オレンジの薄明かりが照らす店内を見渡した男は、静かないつもの奥席に足を運ぶ。 「いらっしゃいませ」 低く落ち着いた声が耳に入る。 「アイスコーヒーを」 変わりのないやり取りのあと、ため息一息、店内を見渡す。  しゃべりに夢中な女、電話を片手に怒る女、 相手の話を聞くスーツの男、パソコンを打つ男、 眠る老人、忙しそうな定員。 仕事とは別の空間にいることを感じた男はまた深いため息をついた。 「ふー」煙草を一服吸う。  いつもの習慣だ。 自分は何者かを感じず、 こうした雰囲気に溶け込める唯一の時間だ。 仕事場で和製スターリンと恐れられる男は、 この喫茶店ではただの男に成り下がる。 「アイスコーヒーです」 「ありがとう、あとショートケーキをお願いします」 「かしこまりました」  差し出されたブラックコーヒーの香りは人生の渋みを引き立たせ、自分の世界へとゆっくり入り込ませる。  家族のこと、両親のこと、部下のこと、 仕事の問題や課題、後始末・・・  目を閉じればとめどなく浮かぶ先々のことで、 つい深呼吸をしてしまう。  他者のために生きる人生か、自分のために生きる人生か、局地はいつもこの命題が男の頭の中で行き着く。そして、人生の苦味を消すようにガムシロップを入れまくる。 「甘くはないな」  独り言と笑みがこぼれてしまう。飾った言葉だ。男の見栄と意地をたかがコーヒーにぶつける。  そうやって生きてきたんだ。 本意とは裏腹に事は先に進んでいく。  志を話し合った同期は夢を追い、 同僚は部下になり、部下からは疎まれる。 「自分は一体誰なのか」 何度も自分に問うてきた言葉がよぎる。 後悔とは違う心の淀みが甘さを消していく。
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