横浜 駄菓子屋綺譚

2/3
前へ
/69ページ
次へ
根岸線沿線のとある小さな駅は地形が擂り鉢状で比較的裕福な山の手区域があり幼稚園の幼なじみの豪邸←と当時はそう見えてた…でミキプルーンをご馳走になったものです。当然ですが坂が非常に多く私が低学年の時まで通っていた小学校のある方向の坂を登ると外人墓地や山下公園へといく道につながる。 その山の手区域と私ことオタク幼女の住んでた日雇い労働者の多い崖下のダウンタウン区域にそれとなく分かれ風呂なしのトタン屋根のプレハブの二階に間借りしてたという極めつけ 何で普通の一軒家が豪邸に見えてたかお分かりでしょ よく言えば庶民的悪く言えばDQNな近所でたまにハワイに行って来たちょっとしたお金もちのオバさんに香水貰えたが。周りはイタズラ盛りの更に輪をかけた悪ガキが多く 順調にいけば可愛いお転婆な女の子に育つ事もあっただろうにと図々しくも思うが先の投稿でもあったように癇がとにかく強く致命的な事に運動神経も鈍い肥満児だったのでお転婆さんになれずさりとて悪たれなガキにもなり切れなかった。 只 私が住んでた崖下ダウンタウンは当時で数えられるだけでも駄菓子屋が六軒程ありお年玉なんかで貯めてたこずかいをやり繰りしいろいろ駄菓子や爆竹を買っていた。近所の文房具屋にも塗り絵帳だけでなく点線をつないで絵を描くノートとかもあってそして時たま紙芝居もやって来てソースをかけたソフトせんべいが十円払えば買えあの頃は団塊ジュニアで今より子どももかなり多かったしある種子どもの天国な一面もあったろう。 しかし 多動こそ少ないもののAD寄りの不注意や衝動はオタ小学生の学校生活に思わぬ足枷を課せる。微かに記憶を辿り理由は分からず終いだが体育の時間に先生とケンカしどっかに行って授業放棄してたのだ。勉強もひらがなこそは入学前に幼稚園の先生に叱られてもやりたがらず自主的な興味で家で習い書けたが漢字を覚えるのがすごく困難だった。ある発達のマンガ家さんも三月生まれで学習障害があったというが早生まれは一年遅らせて少し読み書き計算を習わせてから小学校に行かせた方が学習障害にならない気がする。入学時に隣に座った男の子がちょっとじっとしないなと思ったら特殊学級…今の支援級とは全く別ものと思う…にやられてた。彼はどうしているのか。
/69ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加