マジキチと呼ばれた男

6/8
前へ
/9ページ
次へ
 引き上げられた僕を見て、誰かが言った。 「海パンを持ってるなんて用意がよかったんだな」 「いやこれ普段着なんで」  何の気なしにそう言うと周囲は一瞬で静まり返った。そしてまたも誰かが呟いた。 「マジキチかよ」  うわ出た。マジキチ呼ばわり。要約すると変な人。  僕の姿にはちゃんとした理由がある。今回はしっかり物申させていただこう。 「僕は――」  言葉が途中でさえぎられた。僕の胸に恋人が飛び込んできたのだ。片手には僕のリュックが、もう片方には盗られていたバッグがしっかり握られている。  彼女は「無事で良かった」と何度もくりかえし、子供みたいにわんわん泣きじゃくっている。顔はすでにぐしゃぐしゃで、もはや鼻水さえ垂れ流しというありさまだ。 「外が騒がしくて店を出たら、突然現れた海パンの青年が川に飛び込んだって……それってキミ以外考えられなくて、それで……」  恋人の話にひっかかる節があり、目の前にある建物を見て驚いた。なんとここはさっきのレストランの前じゃないか。どうやらスクーターを追ううちに区画を一周したらしい。  なんだか可笑しくなって、思いがけず笑ってしまった。 「何がおかしいの?」  きょとんとする彼女の背中をさすりながら、首を振る。 「何でもない。そうだ、これ」  恋人の手を取ってひらかせた。その上に左手を添えて、握っていたものを放す。彼女は目をまるくした。 「あっ、ペンダント……」 「濡らしちゃった、ごめんね」 「まさかこれを取るために……?」 「それを失くしたら、君が悲しむと思って」  彼女は目をいっそうまんまるにし、その後肩を思いっきり引き上げた、と思えば今度は逆に眉を下げて顔を真っ赤にするなど、一通りいそがしく表情を変えまくった所で、ようやく目頭を潤すと、 「ありがとおぉ~~」  ぽろぽろ涙をこぼしながら、なんともふやけきった声で抱きついてきた。さすがに僕も苦笑するしかなかったけど、周囲の人たちからはあたたかな拍手が起こった。  恥ずかしくなってきたから早く何とかしたいんだけど、恋人がそれでも手を放さずに泣きつづけるから、もうどうしようにもない。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

80人が本棚に入れています
本棚に追加