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引き上げられた僕を見て、誰かが言った。
「海パンを持ってるなんて用意がよかったんだな」
「いやこれ普段着なんで」
何の気なしにそう言うと周囲は一瞬で静まり返った。そしてまたも誰かが呟いた。
「マジキチかよ」
うわ出た。マジキチ呼ばわり。要約すると変な人。
僕の姿にはちゃんとした理由がある。今回はしっかり物申させていただこう。
「僕は――」
言葉が途中でさえぎられた。僕の胸に恋人が飛び込んできたのだ。片手には僕のリュックが、もう片方には盗られていたバッグがしっかり握られている。
彼女は「無事で良かった」と何度もくりかえし、子供みたいにわんわん泣きじゃくっている。顔はすでにぐしゃぐしゃで、もはや鼻水さえ垂れ流しというありさまだ。
「外が騒がしくて店を出たら、突然現れた海パンの青年が川に飛び込んだって……それってキミ以外考えられなくて、それで……」
恋人の話にひっかかる節があり、目の前にある建物を見て驚いた。なんとここはさっきのレストランの前じゃないか。どうやらスクーターを追ううちに区画を一周したらしい。
なんだか可笑しくなって、思いがけず笑ってしまった。
「何がおかしいの?」
きょとんとする彼女の背中をさすりながら、首を振る。
「何でもない。そうだ、これ」
恋人の手を取ってひらかせた。その上に左手を添えて、握っていたものを放す。彼女は目をまるくした。
「あっ、ペンダント……」
「濡らしちゃった、ごめんね」
「まさかこれを取るために……?」
「それを失くしたら、君が悲しむと思って」
彼女は目をいっそうまんまるにし、その後肩を思いっきり引き上げた、と思えば今度は逆に眉を下げて顔を真っ赤にするなど、一通りいそがしく表情を変えまくった所で、ようやく目頭を潤すと、
「ありがとおぉ~~」
ぽろぽろ涙をこぼしながら、なんともふやけきった声で抱きついてきた。さすがに僕も苦笑するしかなかったけど、周囲の人たちからはあたたかな拍手が起こった。
恥ずかしくなってきたから早く何とかしたいんだけど、恋人がそれでも手を放さずに泣きつづけるから、もうどうしようにもない。
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