第一章

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「わかってんなら、大事にしろよ」 諭すような口調だった。柔らかくて、包まれるような。 「うん、すごく大事にしてる。だけど、和哉のことは、不安にさせるだけだから話せないや。後ろめたいことなんて何もないのに、なんで、後ろめたくなるんだろう」 こんなことを言われても、和哉も困るだろうに。分かっているのに、今日の私は、意思通りに言葉が紡げない。 「わざわざ話すことでもないだろ」 「まぁね」 そして、お互い言葉が途切れた。 不思議なものだ。戻りたいのかと問われたら、正直、今は戻りたいと思わない。というより、未だに、和哉と居る未来は考えられない。今の彼との未来なら浮かぶ。そう思うし、和哉にも早く幸せになってほしいとも思う。そういうものじゃないのだ。この感情は、もっと深い。恋に焦がれた頃とは、比較にならないほど。 彼が、この会話を読み誤らないといいなと思う。未練とはちがう。 「和哉も、幸せ報告はちゃんとしてね」 仕切り直すように、そう言った。これも、よく話してきたことだった。 「はは、俺の幸せ報告は、いつになるか分からないよ」 自嘲気味な笑い声が聞こえた。 「急ぐものではないから、ゆっくりでいいじゃない。ただ、あたしには、何でも話してくれたらいいよ」 いつか、お互いが本当に結婚して、子供ができても、私たちはこんな風にいられるだろう。そんな確信があった。 愛着と信頼が、いつの間にかできていたのだ。 そのすべては、私からの目線でしかないけれど。同じように、彼も思っていてくれたらいい。女としてではなく、人として、彼と向き合っていたい。 「いつもありがとな」 電話を切る直前に、彼が言った。素直に、“ありがとう”と言われたのは初めてかもしれない。そんな言葉が、やっぱり心に染みる。 「また、そのうち」 私は、そう返して電話を切った。 “そのうち”がいつ来るかも分からない。何もかもが、時の流れに身を任せて、緩やかに進んでいけばいいと思う。 3年前になくした、本当に大切だったもの。そして、今ある、別のかたちの大切なもの。それを天秤にかけるのは愚かなことだ。過ぎたことを悔いる必要が、今の私たちにはないから。 いつかまたどこかで会ったら、笑って話せたらいい。それだけで、充分だ。 彼が帰ってくるのを楽しみにしながら、夕飯の準備をするために立ち上がった。
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