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「最近、楽しいことはあった?」
これは、私が彼と電話するときに、必ず聞くこと。
「とくにないかな」
「じゃあ…悲しかったことは?」
「悲しかったこと?そんなん多すぎて言い切れないよ」
少し声に、諦めの色が混じっていた。
「んじゃ、それは聞いてあげないことにする」
笑いながらそう返した。自分からは話さない分、聞いてほしいことがあるなら聞きたいと思う。けれど、悲しいことや辛いことはわざわざ思い出してほしくはない。
「なんだ、それ」
彼もまた笑っていた。
彼とは、好きなものがことごとく違っていた。音楽も、お笑いも、映画も。気付いたらいつも一緒になって彼の好きなものを共有しているうちに、私も彼が好きなものたちを、好んで選ぶようになった。そこに、彼を感じられるからだった。今ではほとんど、そのどれも嗜むことはない。時間は、私たちを少しずつ前へ進めたのかもしれない。風化でも成長でもない、前進。彼は、元々私の好きなものたちには興味を示さなかったけれど。
「あ、ちょっとは良い女になったでしょ」
不意にそんなことを言ってみる。前に、いつか振ったことを後悔するくらい良い女になると宣言したことがあった。彼がそれを覚えているかは分からないけれど。
「はぁ?そんなの、会ってみないと分からないね」
からかい混じりの声が飛んでくる。
「あ、そうですか。んじゃ、会ったときに聞こうかな」
こちらもそれに応えるように返す。
「いつ会えるか分からんけど」
彼の声が少しだけ濁る。そんなことは分かっていた。お互い、いつか会いにいくよ、なんて関係はもう過ぎている。約束なんてものは、しないに限る。
「まぁ、死ぬ前には会えるでしょ」
軽口で答えた。湿っぽい話をするのはご免なのだ。彼の世界を少しでも鮮やかにしたいのに、私の言葉はいつも空虚で、どれほど届いているのかは分からない。その歯がゆさに、一人、眉をひそめた。
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