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その職場も、経営も収入も不安定な小さな探偵事務所とくれば、尚更だ。
なぜあの女は、そんな職場に春樹を招き入れたのだろう。
もしも春樹が望んだとしても、考え直せと諭すのが大人のはずだ。
「なあ春樹。朝って、あの人と一緒に出勤するのか?」
別にどうだっていい質問だと思いながら隆也が訊いたその時、注目していたそのドアがガチャリと開いた。
ダークグレイのパンツスーツに身を包んだ美沙が、先ほど自分が放り出しておいたゴミ袋をひょいと掴みあげる。
細身でありながら出るところの出た理想的というべき完璧なスタイルと、少しばかり気の強そうな、きりりとした目鼻立ち。
緩いウエーブのかかったセミロングの髪が、細い首元で揺れるのも様になり、悔しいことに、さすがの隆也も“綺麗な人だな”と認めざるを得なかった。
「あれー、隆也。こんな朝早くどうした?」
「何でいつも呼び捨てですか」
「長い付き合いなのに硬いよねー、隆也は。こんな早く家を飛び出すってことは、またお母さんと喧嘩でもした?」
「そんなんじゃないですよ!」
図星を突かれて慌てふためく隆也に近づき、美沙はその頬をぷにっと摘んだ。
「ちゃんと勉強して大学合格して、両親安心させてあげなさいよ」
そしてそのまま顔を近づける。
「勉強に疲れたら、またいつでも事務所に遊びにきなさいよ。コーヒーくらい煎れてあげるから」
そう言って艶やかなピンクの唇でニッと微笑むと、わき目も振らずに春樹の部屋の前を通りすぎ、突き当たりのエレベーターに向かった。
エレベータに乗り込み、そのドアが閉まるほんの一瞬、美沙は初めて春樹の方を見て「じゃ、先に行くから」と手をあげて見せた。
その口調はきわめて、素っ気ない。
「はい」
隆也の横で、春樹が小さくそう答えた。エレベーターのドアが閉じ、静かな下降音が響く。
「な……なんだよあの人は! 会うたび人を子供扱いして。俺は小学生じゃないぞ!」
美沙につままれた左頬をドギマギしてさする隆也に春樹は言った。
「お姉さんみたいだろ?」
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