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「お姉さん? あれは一歩間違うと痴女だ。すぐくっつくし、すぐ触るし。ぜったいあれは男たらしだよ。間違いない。ボディタッチして来る女には要注意だって言うじゃん」
「酷い言われようだな」
春樹が可笑しそうに笑う。
「春樹も大変だろ。事務所でべたべたされてんじゃないか? 気をつけろよ?」
「……」
一瞬、間があった。
すぐに笑って返して来るだろうと思っていた隆也が不思議に思って振り返ると、エレベーターの閉じたドアをボンヤリ見ていた春樹がこちらを向いた。
「僕にはそんなこと、しないんだ」
そう言って、今度はほんの少し寂しげに笑った。
そう言えば美沙は春樹の死んだ兄の恋人だった事を改めて思い出した。
不謹慎だっただろうか。春樹のあの一瞬の間は、そのせいだろうか。
隆也が反省して口を噤んだため、不自然な沈黙ができた。
春樹はさりげなく腕時計を見たあと、「僕も準備して行かなきゃ。悪いな隆也。また晩飯でも一緒に食べよう」と言って笑った。
「おう」と隆也が頷くと、春樹はゆっくりとドアを閉めた。
たぶん、その時春樹が一瞬見せた表情が、隆也を動転させたのに違いない。
自分がまだしっかり握っている水色の紙袋の存在を、すっかり忘れていた。
春樹が観たいと言っていた映画のDVDが何本か入っている。
まあ、またでいいか。
心の中でそうつぶやくと、隆也はエレベーターへ向かった。
ここでDVDを放り込んでもいいし、春樹が出てくるまで待って、駅まで一緒に歩いてもよかったが、今日は余計な事をぶちまけてしまいそうな気がして、早めに退散することにした。
今まで何となく気付いていたことが、今のことも手伝い、隆也の中でそれは確信に近づいたのだ。
“美沙は、いつまでも自分を頼って来る春樹の事を重荷に感じてるんじゃないか”
だとしたら、これほど腹立たしい事はない。
手に余ると思うなら、最初から手懐けたりしなきゃいいんだ。
小さな紙袋のヒモをグッと握り、隆也はエレベーターのボタンを押した。
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