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それから記憶が戻らないまま数か月が経った。
毎日のようにお母さんが病室に会いに来てくれる。
この人は本当に私のお母さんなんだなって思う出来事は何度もあった。
だけどお母さんとの思い出は何も思い出せない。
この間お母さんに『お父さんは?』と聞いたら泣かせてしまった。
どうやら私にお父さんは存在していないらしい。
それすらも忘れて思い出せないなんて、親不孝にもほどがある。
どうしたら記憶が戻るんだろう……。
警察の人も何度か病室を訪ねてきた。
警察の人から私は車に轢かれて記憶喪失になったんだと言われた。
私を轢いた車の運転手は『急に道路に飛び出して来た』と証言しているらしい。
だけどそれが『飛び出した』というには不自然だったと。
何故なら私は道路に『倒れていた』そうなのだ。
急に飛び出して倒れた、というのはあまりにも不自然。
だから警察の人は『誰かに突き飛ばされたんじゃないのか』と疑っているそうなのだ。
車に轢かれる前の事を思い出して欲しいと言われたけど、家族の事も友達や彼氏の事も思い出せないのに思い出せるわけがない。
医者には何かキッカケがあればあとは簡単に記憶を取り戻せると言われた。
「キッカケか……」
病室にベルちゃんがやって来てその話をするとベルちゃんが考え込んだ。
彼女には『睦月さんって呼ぶと睦月が泣くから、せめて睦月くんって言ってあげて』と言われた。
睦月くんととても仲良しみたいだ。
「あのね、紗綾。紗綾が事故に遭う前、私達は紗綾と睦月が一緒に住んでいるマンションにお邪魔してた。紗綾は洗濯用洗剤を買いに薬局まで行ったんだけど、それも当然覚えてないよね?」
「うん……」
「その洗剤、一回見てみる?」
「え?」
「もしかしたら何かを見たりしたらそれがキッカケになるんじゃない?実際に体験した事をもう一度したり、行った場所に行ってみたり。そしたら小さなことでも思い出さないかなって。今は入院してるからどこかへ行くことは無理でも、物を見るのは大丈夫でしょ」
ベルちゃんはそう言うと椅子から立ち上がった。
「ちょっと待ってて。睦月に聞いて洗剤買ってくる」
ベルちゃんが病室から出て行く。
それからしばらくすると、今度はベルちゃんとは違う人が入ってきた。
「紗綾ちゃん」
「音夢ちゃん!」
可愛らしく微笑みながら病室に入ってきた音夢ちゃんは私の側に座った。
彼女は私の親友だったそうだ。
彼女に私は睦月くんと別れたいと相談をしていたらしい。
音夢ちゃんにしか相談していなかったそうだけど、睦月くんとの関係を終わらせたいと思っていたけど睦月くんになかなか話せていなかったみたいで。
ベルちゃんや深紅くんは睦月くんと仲良しだから相談するに出来なかったようだ。
そんな私の話を親身になって聞いてくれていた大事な親友。
そんな子の事まで忘れているなんて……。
それなのに以前と変わらず接してくれるなんて、音夢ちゃんは見た目だけでなく中身まで天使だ。
「睦月くんに言えそう?」
「言おうと思うとベルちゃんや深紅くんが来て、二人になれなくて……」
「そう……。記憶を戻すと辛くなるから、その前にスッキリ終わらせた方が紗綾ちゃんも辛くならなくて済むし、早めに言った方がいいと思うよ。記憶を取り戻したら色々と思い出してしまって苦しくなっちゃうし。辛そうな紗綾ちゃんをもう見たくないの」
「音夢ちゃん……。ありがとう、心配してくれて」
「私が睦月くんに言おうか?『紗綾ちゃんから話がある』って」
「音夢ちゃんにそこまで迷惑かけられないよ!音夢ちゃんだけなの。『辛いのに無理に思い出す必要ない』って言ってくれたの。『思い出は一からだって作れる』って言ってくれて凄く励まされたから」
「そう。紗綾ちゃんが元気になったなら嬉しい。早く睦月くんに言えるといいね」
「ありがとう」
音夢ちゃんはバイトの時間らしく病室から出て行った。
私は深く息をついた。
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