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カツ丼から湧きいずる香ばしい湯気を顔に浴びながら、震える箸でたわわなカツをつまんで口に運ぶ。
「はむっ」とそれを豪快に頬ばり、「さくりっ」と歯と舌と脳を全開にして味わおうとした瞬間──
カツンッ、と歯が鳴った。口内に入れたはずのカツが忽然と消えたのだ。
「……ッ!?」
そればかりか、掌を温めていたドンブリまでもが消失していた。
「そう簡単に食わせると思ったか? わしはダイエットの神様じゃぞ」
大黒様がほくそ笑んだ。
勝手に涙がこぼれる。わたし史上で初めて悔しさに屈服した。
「ヒトデナシ……あんたなんて人じゃない!」
「だから神様じゃて」
香ばしいゲップとともにほざいた。
それからの日々──肉汁が滴りまくるティーボーンステーキが部屋を蹂躙して、脂で乗りたくった大トロ寿司が一個小隊で闊歩した。
チェーン店のハンバーガーが全種類で満漢全席のごとく押し寄せ、カップ麺の全種類が回転寿司のように舞い踊る。
大黒様だけが肥え太り、わたしは水しか口にできなかった。
それなのに体重計の数字は無慈悲で、神の呪いのごとく変化の兆しを見せない。
「大黒様……もう限界です。どうか御慈悲を」
「まだまだじゃな。わしはもっと美味しいモノが食いたいのじゃ」
爪楊枝を口にくわえながら言った。
ダイエットの神様とは名ばかりの、コイツはドSで根性悪の神だ。
大黒天は台所の神様ではなく、いたずらに食欲を掻き乱す神であった。
目の前で繰り広げられる食の饗宴を眼にして、誰が平常心を保っていられるだろうか。
わたしは無理だった。精神がヤジロベエのようにグラグラと揺れて、心がジェットコースターのように滑走していた。
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