第1章

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 昭和四十九年、ボクは米軍基地のそばにある小学校に入学した。すぐ脇には駅があり、学校のトイレの窓を開けると、赤い車両が走っているのが見えた。トンネルを抜けるとそこはすぐ駅だった。駅のホームが行き止まると、またすぐトンネルへと入っていく。その景色は今も昔も変わらない。この街には、かつて芥川龍之介も住んでいた。その家の近くにボクは住んでいた。  ボクの家庭環境は、祖父母の住む家に、両親、ボク、妹、伯母夫婦、従兄弟、もう一人の伯母と、当時でも希少価値になりつつあった大家族だった。典型的な明治生まれのジイちゃんは、今では絶滅危惧職と言っても過言ではない氷屋を営んでいた。店にはブロックとコンクリート製の、表面を涼しげな水色のペンキで塗られた氷蔵があった。十歳上の従兄弟の兄ちゃんやボクが何か悪さをすると、代々、その真っ暗でひんやりとした氷蔵へ、ジイちゃんに閉じ込められるのがお仕置きだった。たいていはすぐ出してくれるのだけれど、泣き虫のボクは、入る前から泣いていて、出された後も泣く。 「男はすぐ泣くんじゃない」  ダメお押しにジイちゃんの雷が落ちる。さらにボクは泣き止まなくなる。手の付けられない程泣き虫だった。入学の二年前に心臓の手術をうけ、何ヶ月かの入院生活をしたせいもあってか、他の子供達に比べ、ボクはひ弱な甘えん坊で少し偏屈に育ってしまったのかもしれない。  大きな丸い刃の電動のこぎりも、忘れられない氷屋の道具のひとつだった。ブルース・リーの映画『ドラゴン危機一髪』に出てくる氷製造工場での格闘シーンで登場するので知っている人もいるかもしれないが、刃が床から出ていて、氷を押しながら切っていく。仕入れてきた大きな氷を四貫目ずつ切っていくのだが、その甲高い音がデカいこと、デカいこと。店奥の茶の間でテレビを見ていても音が聞こえない。会話なんてできたもんじゃなかった。そのせいかジイちゃんの耳は遠かった。  学校からほど近くには基地前の歓楽街、米兵達のたむろするドブ板通りがある。ドブ板通りは、その昔、昔と言っても明治になってから、海軍が横須賀にやってきて人が増え始めると、ドブ川に板をひいて道にしたのが、その名の始まりと言われている。そこはボクら子供達にとっては禁断の地となっていた。親世代は戦後治安の悪い印象から、危ないから子供は近付いてはダメと言う。そう言われると行きたくなるのが心情。
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