第1章

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 さっきから足元からやってくる視線に気になっていた。私の顔から一秒たりとも目を離そうとしない、とてもしつこい視線。それでもいやらしさをまったく感じさせず、私に興味しんしんといった無邪気な視線。  私はそれと目を合わせてはいけないと思っている。目を合わせたら負けな気がする。この視線、しつこすぎる。  ・・・・・・だめだ勝てない。  恐る恐るそれに視線を向けるとくりくりの黒い目が私を待っていた。口からは薄ピンクのしたが覗いていて、はしゃいだように尻尾を振っている。それから目の上に平安時代の貴族みたいな黒く丸い眉毛がある。眉毛じゃなくて、そこだけ毛が黒いだけなんだけどそれがなんとも愛らしい。強い視線にはこの眉毛も関係してるのかもしれない。  ・・・柴犬が一匹おすわりしてる。 「ウソ。ちょっと君何してるの。」 私が話しかけると柴犬は一層嬉しそうに尻尾を振る。赤い首輪をしてるからやっぱり飼い犬か。  何で一匹なの。飼い主は何をしてるの。ていうかここ電車だよ。犬は籠に入ってなきゃダメなんでしょ。本当に飼い主はどこ?  そんな私の気持ちをよそに柴犬は本当に嬉しそうだ。暴れずにきちんとおすわりしているのはえらいかもしれない。  他のお客さんはたまにちらちら柴犬を見ているものの、特に何もしようとしない。ひどい、と思った。  そしてはっとした。もしかして私の犬だと思われてない?えウソ全然違うのに。でも確かに私が電車に乗った時から視線は感じていた。私が三浦海岸駅から乗ったと同時に入ってきたのだとしたら、普通に飼い主だと思われるだろう。それも電車の中で犬を放す、マナーの悪い飼い主だと思われているだろう。そう思うと他のお客さんの視線は柴犬でなく私に向けられたものかもしれない。  すっかり居心地が悪くなった。誰かに言ったほうがいいかな。この犬全然知らないのに私を見ているんです、どうしましょう、とかそんなこと言うの?でも車掌さんとかも見当たらないし誰に言えばいいのよう。  柴犬は相変わらず尻尾を振っている。泣きたくなってきた。
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