春告鳥(上)

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 たわいもない発言と思って聞き流していた言葉たちは、今考えるとどれだけの汗と涙が育てた結論だったのだろうか。  もしかしたら俺の想像の数十倍もの苦境を超えて、ついに見つけた言葉なのかもしれない。  役者である彼女もまた自分の役をもっているだろう。  人は、表面を偽るものだ。俺も、ああいった役を使いこなせるようになってみたい。  ちょうど良いことに俺の人生は新たなステージへ踏み込んだばかり。やりたい事にチャレンジしてみようという気も、そのうち起こるだろう。  あの星を、ぜひとも一度は掴みたいものだ。と、フロントガラス越しに見た空へ思いをはせる。  夜の中でも桜花は白く浮かんでいる。そう、今は春なのだ。これからすべてが始まる季節だ。  自分が決めた道、舞台俳優に俺はきっとなってみせる。一年間の苦節を経ていよいよ入った大学は俺にとって、さぞ素晴らしい経験と出会いをさせてくれるだろう。  あの面影なき幼馴染もまた良い刺激を与えてくれるに違いない。八年の溝はきっと時間が埋めてくれると思う。  そしていつか、思い出すまでもない記憶を語らねばならない日が来たとしても……まあ、前途明るく向き合っていこう。  かつての想い人はもういないのだから。  座席に座った状態のまま伸びをしたら、太ももの裏に鈍痛が走った。 「痛ってぇ……明日は筋肉痛だな、これは」  考えることは程々にして、そろそろ動くとしましょうか。帰りはきちんとした公道を使い、安全運転で行くとしよう。  全身の節々に疲労を感じながら俺は軽トラのエンジンを再びかけ、サイドブレーキを下ろし、固いクラッチを踏み込んだ。  前照灯の照らした桜が一枚、はらりと闇夜へ消え入った。 【中編に続く】
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