黄昏の刻

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黄昏の刻

 初鹿野伝右衛門の瀬踏みで無事に酒匂川を渡りきった武田勢が全軍二万を持って小田原城を取り囲んだ。  まず晴信が考えた事は城方がどう出るか、であった。  十万の上杉勢をあしらった程の堅城小田原城である。迂闊には攻め寄れない。  しかも謙信の小田原攻めからも拡幅工事が進められ、随所に創意工夫を施してあるのだ。  総曲輪を水堀や空堀、土塁で囲み、土塁の上には土塀、逆茂木を並べ、各所に矢倉を組みあげて城外を睥睨する小田原城。空堀は障子堀として底に凹凸を付けてあり、雨水や汚水で湿らせた赤土は泥濘となり、一度落ちたら抜け出られない工夫がされている。  また土塁と堀を所々に折れさせて横矢掛に仕上げる工夫は、最早土の城の芸術作品でもあった。  この頃には小田原城の西の防備の為に、東海道を城内に取りこんだ山中城(現静岡県三島市)も合わせて築城されており、小田原城、山中城は土の城として双璧の芸術作品とも言えた。  その蓮池門前にある馬出し曲輪上の板塀と、蓮池門から左右両側にぐるりと伸びる土塀、何基も設えられた正楼矢倉上の其々に押し並べられた鉄砲勢に強弓勢が酒匂川を越えた武田勢を見据えている。  風が旗指物を靡かせる音以外、静寂とも云える静けさが合戦前の緊張を誘っていた。 「父上、武田勢はお気に召しましたか」  氏政が武田勢に城を囲まれる中、父に軽口を叩けるまでになっていた事に父は静かに驚いた。なるほど儂が倒れてから後、新九郎も当主としての性根が芽生えたかと思うと嬉しくもある。 「うむ、最早合戦を見る迄もあるまい。采配はその方に任す故、軽くあしろうてやるがよい」  叔父幻庵も相好を崩してこの親子のやり取りを眺めていた。 「ならば父上、八幡山の一の曲輪で少々お休み下さいませ」  八幡山一の曲輪は本陣である。そこで休めとは、本陣が動く程の合戦にはならぬと言っているようなものであった。 「言うようになったのぉ、新九郎。これで儂も安心してその方に後を任せられる」  親子二人が笑いあった後、氏政ははっとした。  父が別れの挨拶をしているように感じた。  すぐさま氏政はその不吉な思いを打ち消し、父を支えながら八幡山本陣へと向かって行った。  そして十月十四日、城を囲んでいた武田勢に動きが出た。  部隊を小出しにしても落とすことができないと考えた信玄が、一挙に小田原蓮池門を抜こうと総攻めの命令を下したのだ。  これには武田勢の大将分である内藤修理亮昌豊、小山田備中守昌行、同佐兵衛尉信有、真田源太佐衛門信綱、その弟兵部丞昌輝、小笠原掃部大夫信嶺、保科弾正忠正俊、板垣修理亮、武田四郎勝頼が差し向けられた。  一斉に打たれた押し太鼓に呼応して動きだした武田勢、人数を押し出して蓮池門、上土門に取り付いて来た。  また先鋒として蓮池門までやって来たのは箕輪衆であった。  先の箕輪攻めで落城し武田方に組み入れられた為に先陣とされていたのだ。 「武田共がやって参ったぞ!我らも打ち出す。者共付いて参れ!」  城方の蓮池門を守っていた三浦衆も、寄せる武田勢を見て先ずは手合わせと、鬨の声を上げて追手馬出しの木戸を開けて打って出た。  箕輪衆の伊奈図書助、町田兵庫介、愛久津大学介、寺尾備後守、木部駿河守、矢島久右衛門等が一族郎党馬上槍をかい込んで城に寄せ、三浦衆と互角に渡り合うこと半時余。  そこに武田勢の後詰として小山田備中、真田源太佐衛門、真田兵部丞の部隊が是に加わった為に三浦衆が劣勢になってしまった。  矢倉上でこれを見た松田憲秀は急ぎ鉄砲衆を集めた。  戦闘の行われている城門正面を左右から挟めるように鉄砲衆を備え付けるためだ。  鉄砲衆を蓮池門の左右に配置を終わると、自らは中央蓮池門矢倉に登り戦況を見た。  敵味方入り乱れて戦う中、数瞬だけ颯と分かれる時がある。  その頃合いを見逃さずに鉄砲衆に合図を出した憲秀、軍配を振り回しながら放て放てと叫んでいた。  この鉄砲衆の援護射撃が功を奏し、三浦衆を押し込み始めていた武田勢を二町ほども退かせると、憲秀はこの間に退き鐘を鳴らさせて、無事に三浦衆を城門の内に退却させる事に成功した。  北條勢はこの緒戦の槍合わせを済ませた後は、予定通り只管武田勢を疲れさせる籠城戦をするだけである。  蓮池門、上土門に取り付いている武田勢も塀際に辿り着く前に射殺され、運良く塀際まで辿りついても槍で突かれてしまう。  幾度か総攻めを繰り返したが堅城はびくともしなかった。 「堅い」  信玄はこの初回の総攻めで小田原城を落とす事を早くも諦めた。  異常なまでに重厚に造られた総構えの城に付け入る隙を見い出す事ができなかったのだ。 「上杉勢十万を退けた城は伊達ではなかったようだな」  本陣の床几に座る信玄であったが、ならばと、戦での固執を嫌う信玄は小田原城下を焼いて手仕舞とする事とした。 「修理亮(内藤昌豊)、その方これより城下に参り、火を付けて回れ」  信玄の命を受けた昌豊は、手勢を引き連れて城下へ侵入すると、住人が小田原城へと避難していた為に無人となった家々に火を付けて回った。  折りからの海風に煽られて類焼して行く家屋を見ながら十月五日、信玄は城の包囲を解くと殿しんがりを四郎勝頼に任せ退却を開始。  これに気が付いた松田憲秀は追撃しようと兵を差し向け、四、五回に亘る戦闘が行われた。  この最初の追撃戦では勝頼が辛くも防ぎきり無事に退く事が出来た。  しかし城方も逃げる武田をそのままにしておく事はできない。先ほどの松田憲秀の手勢のうち、境川蔵人と言う者が手勢を引き連れて再び勝頼に追いすがった。  勝頼はこれに振り向く事もせずに一目散に丸子川を走り抜け、一路小磯・大磯を過ぎ、平塚まで退却して行く。ここからは相模川を北上して三増峠を越えれば甲州街道まで出られるのだ。  とりあえず追手を振り切った武田勢は行軍速度を緩めていた。  さて、松田の手勢が武田の殿に噛みついていた頃、小田原城本陣では、退却する武田勢を三増峠(みませとうげ:現神奈川県愛甲郡愛川町)で挟撃する案が万松軒から出されていた。  足の確かな風魔忍を幾人か放ち、鉢形城と瀧山城双方から兵を引き連れて途中まで来ている氏邦と氏照の軍勢を、武田勢が引き揚げの時に通ると見られる三増峠に布陣させたところに、小田原城から氏政の本隊を急ぎ出陣させて挟撃する作戦である。  この山岳戦で信玄を討ち取る事ができれば関東を西から窺う脅威を取り払うことができる。信玄入道を討つには最適の地とも云えた。  信玄を屠るには千載一遇の好機と、まずは風魔衆を選び氏照・氏邦の軍勢に早馬を送り出し、小田原城からは先陣として北條氏規、千葉胤富、原上野介、上田朝直の手勢が出陣。  その先陣が平塚辺りに到着したころ、鉢形城の氏邦と瀧山城の氏照、合わせて約二万の軍勢が相模原辺りに入った。  この時風魔忍の早馬から伝令を受け取った氏照氏邦兄弟は即座に三増峠に陣を敷き、氏政本隊を待つ事になった。  しかし、これは信玄に察知されている。  北條家の内部に入り込んでい三ツ者がいたためなのだが、北條方の風魔も幾人か草となって武田家に忍んでいるため、この様な事は大名家であれば日常茶飯ではあるだろう。  この時期には情報戦が活発化していた。  平塚辺りで歩速を緩めていた武田勢ではあったが北條方の追撃兵の手が届いては厄介であるため、まずは敵の手が届く前に小荷駄を捨てて急ぎ甲斐に退却をはじめる事とした。北條方の包囲が完結する前に三増峠を越えてしまうための行動であった。  そんな中、小田原城では危急の時が訪れようとしていた。 「父上、どうなされた!」  小田原城本陣で氏政の声が響き渡った。  自らを呼ばれた事は分かった万松軒だったが、一体何が起こったのだろう。  ただ妙に耳鳴りが響き、体が生ぬるく感じる。  視界が不明瞭となって足にも力が入らず、立つ事が儘ならなくなり始めると同時に、重度の頭痛が走った。  耐えきれない痛みだ。  頭を押えながら次の瞬間、万松軒はその場に崩れてしまった。  驚いた顔の氏政が、自分をずっと呼び続けるのだがどうした事だろう、耳も良く聞こえない。  慌てる氏政に、新九郎落着け。と言いたいのだが口も動かないのだ。  問いかける氏政に、どうしても答える事ができない。  これが中風と言われる病かと暫く経って気付くものの、動かぬ体はどうにもならなかった。  万松軒の急な再発で、氏政は北條軍本隊を三増峠に差し向けるのが遅れてしまった。  いくら待っても現れない氏政に痺れを切らした氏照・氏邦兄弟、兄の挟撃が間に合わない事を察し、やむを得ず単独で攻撃を開始したのだが、これを察した信玄は軍を三つの部隊に振り分けて、一隊を氏照・氏邦兄弟の軍勢正面に差し向け、残る二隊を山中に伏せた。  戦闘が始まったのは十月八日の事だった。  緒戦は有利に合戦を展開させていた北條勢。  北條綱成率いる鉄砲隊が武田方の浅利信種、浦野重秀を討ち取るなどの手柄をあげていた。  ところが、山県昌景の別働隊が小高い丘の上にあった信玄本陣後方から谷側に迂回、北條勢が構えた陣の影から横合へ奇襲に出た為に北條陣営は一気に大混乱となってしまう。  これで北條方の有利に進められていた戦闘は武田方に傾き、北條綱成に押されていた部隊も、それを押し戻す程に勢いを戻していた。  出陣が遅れた氏政が到着した時には既に戦闘は終結しており、信玄は無事に甲斐に帰陣。  万松軒の出した武田勢殲滅作戦はあえなく失敗する事になった。  武田勢を甲斐に逃がしてしまう結果となったこの三増峠の戦いは、その後の駿河権益において、北條家に遺恨を残す合戦となったようだ。  この合戦が終結すると、兵を纏めた北條方諸将が小田原城に参集し万松軒発病の為の病気見舞いをするのだが、しかしこの日以後、近臣以外はその姿を見る事はなかった。  時は過ぎ、永禄十三年も四月二十三日には元亀と改元された世では、織田信長が越前攻めに向かい、義弟浅井長政の離反に遭い姉川の戦いを誘発している。  また三河徳川家康と越後上杉輝虎が同盟を結んでいた。  そして元亀二年の十月二日、既に言語不明瞭とまで状況が悪化していた万松軒が、どういう訳かその日の朝にはすっかり調子が元の様に戻っていた。  はっきりと話せ、動かなかった体は若干ぎこちないながらも動かす事ができたようで、その日は寝所となって久しかった書院から起き出して家臣の居並ぶ大広間へと現れた。  広間の濡れ縁を渡ってきた万松軒を見た小姓が、急ぎ近寄って支えとなると、これを見ていた重臣達も慌てて駆け寄り其々に万松軒を支えようとしている。 「皆、儂は大丈夫じゃ、元の席に戻るが良い」  言語明瞭となった万松軒に更に驚いた重臣達だったが、特に綱成が喜んでいた。 「大殿、今日は頗る調子が宜しいようですな」 「勝千代か、久しぶりじゃな。変わりはないか」  何年ぶりであろうか、地黄八幡と言われて久しい自分を幼名で呼ぶとは。  懐かしい響きがあった。 「伊豆千代丸様もご機嫌麗しゅうございますようで」  戯れた綱成にうむと頷き、氏政の座る広間上段の隣に座った万松軒。  見ると不思議と小さくやつれた老人のようにも見えた。 「今日は、皆の居る前で儂の遺言を申し渡そうと思うてやって参った」  万松軒の重い一言が大広間の一瞬の沈黙を呼び、場を凍りつかせた。 「遺言等と縁起でもない事を申されますな」  父を嗜める氏政だったが、万松軒は当然であると云った風ににこにこと笑っている。 「よいか」  遺言との只ならぬ言葉に、皆が一様に万松軒に注目した。 「越相同盟を破棄し、甲相同盟を復活させよ。それだけじゃ」  これは実行の伴わなかった越相同盟を取るよりは、倅氏政の身近な強敵となりうる信玄を懐柔した方が良いとの判断だったのだろう。  これによって上杉、武田両方から敵対する事になる関宿の梁田を攻めやすくし、武田からの牽制で上杉を越後に押え込むための、今取れる最良の策と言える。  関東制覇の夢を倅氏政に託した万松軒氏康の最後の置き土産であった。 「信玄と仲良うせよ」  そう言って今日の目的を果たした万松軒は、綱成に海を見せてくれと頼んだ。  小田原城の二の曲輪望楼矢倉からは相模湾が眺められる。 「ならば我が肩を御貸し申し上げましょう。共に望楼矢倉に登り、相模湾を望んでみましょうぞ」  綱成は颯と席を立ち万松軒の元に寄ると、これを嬉しそうに迎えた万松軒は綱成の肩を借りながら何とか大広間を抜けて行った。  二人の後をついて来る氏政、幻庵宗哲、松田憲秀、其々に言葉もなく十月の秋空の元、望楼矢倉に登って行った。  寄せては返す白波に何を思うのか、万松軒は瞬きも忘れたようにじっと海を見ていた。 「儂は女房に嘘を吐いてしまった」  万松軒の吐露に優しく頷いた綱成。 「北條家の旗を京の都に打ち立てると申されたのでしたな」  海から眼を離さずに、万松軒は只頷いている。 「しかし、今は義氏公方を上に頂き独自の勢力を関東に打ち立てることに粗成功しておりますぞ。ならば瑞渓院様も笑って御許しになりましょう」 「だと良いな」 「きっと御許しになられますとも」  綱成が万松軒の見る相模湾を共に眺めた。 「儂は感謝せねばならぬなぁ。我が子らも諍いを起こさず、小田原からの家臣達も良く尽くしてくれた」  声が小さく聞き取れなくなってきた事に不安を感じた綱成、肩を貸しながらも座らせる方が良いと判断して憲秀に床几の用意を頼んだ。  しかし、その床几が届く前に万松軒の体は不意に重くなった。  まるで糸の切れた操り人形のように崩れ落ちようとしたのだ。 「大殿、如何なされました」  大声で万松軒に呼び掛ける綱成の言葉も空しく、相模湾を眺めながら万松軒氏康の魂は浄土に旅立って行った。  元亀二年十月三日の事である。  享年五十七歳。  戒名を大聖寺殿東陽岱公大居士と贈られ、湯本の早雲寺に葬られた。  また下総の古河の地にも四代目古河公方正室芳春院の願いを元に、能登国総持寺の末寺だった永昌寺を古河城内に移築し、氏康菩提の為に大聖院と改称させて会下寺とした。  この寺は場所を移しながらも現在に至っている。 北條氏康。  武州小沢原の合戦を初陣と飾ってから実に三十六回の勝利を収めたとされ、公方管領連合軍八万、更に上杉輝虎軍十万を相手取りながらも勝ち続け、生涯をかけて関東を切り取り続けた戦国大名であったが、その実、日本初となる様々な政策を施した為政者でもあった。  領地内の大飢饉には全領国規模では日本初となる大規模な徳政を行い、更に全国に先駆けて悪銭・精銭を選り分け、永楽銭に通貨を統一する撰銭令を敷き、また領国内の度量衡の統一を図り、江戸期に入ってから徳川吉宗がはじめたと思われている目安箱の設置を百五十年以上も先んじて実施している。  また各国衆の所領役帳を作成し軍役に就くべき家臣達の負担を明確にさせるなど画期的とも言える軍政を施した。  この他領民への税制改革も推し進めて棟別銭と呼ばれた家屋の棟単位で賦課された租税をも減額しており、領主達の中間搾取も廃絶させるなど、存分にその手腕を発揮している。  後に徳川家が模倣したとされる日本で最初期の官僚機構を作り上げた不世出の傑物であった。  関東騒乱の条々、ここに記し訖おわんぬ。  筆を置く。
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