資正の懊悩

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資正の懊悩

「何と申した。それはまことか」  驚きの声を上げた松田盛秀が小太郎に真偽を確かめるように詰め寄った。  急遽氏康に面会を求めた小太郎は、氏康と松田盛秀の待つ大広間に通されており猪助からの報告を伝えているところである。  そこには氏康が奥に、盛秀が一段下に座り小太郎と対面するように座っており、素襖の普段着の氏康は肘掛に軽く肘を乗せながら話を聞いていた。 「まことにござる。手の者が偶然にも太田資正殿と接触したとの事で、本人の言葉で聞いたと伝えてまいりました」 「これは早速にも松山の城に後詰を送らねばなりますまい」  事の次第の大きさに盛秀が松山城への急ぎの援軍を奏上したとき、氏康は江戸城二の曲輪詰の遠山がたまたま今日小田原の城に登城している事を思い出した。 「盛秀、綱景が登城しておるだろう、ここへ呼んでくれ」 「遠山殿にござるか、では早速にも」  軽く首を垂れると遠山綱景を呼ぶ為に廊下に座る小姓を呼び、綱景を呼びに走らせた。 「遠山殿は侍所に居ると思われまするゆえ、暫しお待ちくだされ」  盛秀の言葉に頷いた氏康、松山城の動きも気になった。 「小太郎、松山におる上田の動き、何かあるか?」 「いえ、今のところ何も知らせは来ておりませぬ」 「左様か」 「上田殿が何か?」 「いや、動きがないならそれで良い」  すると廊下の方から足音が聞こえて来た。遠山綱景がやって来たのだろう。開け放った襖の先に見える廊下の角を萌黄色の肩衣姿で現れ、広間に入る手前で座り首を垂れた。 「御屋形様、綱景、参りました」 「うむ、入れ」  氏康の招きで部屋に入り、脇に下がった小太郎の前を抜けて氏康の正面に座った。 「お呼びでございましょうか」 「綱景、ちと聞きたい事があるのだが、そなた、岩付の資顕殿の病状がどの程度のものか聞いてはおらぬか?」 「全鑑(ぜんかん:資顕の法号)殿の病状でございますか」  この遠山綱景の息子には藤九郎と云うものが居た。これに太田資顕の娘が嫁いでおり一子を儲けていたのだが、その藤九郎は二十一歳の若さで病没していた。  その後は母子共々岩付の資顕に引き取られていたのだが、同じ北條家の家臣でもあり祖父と孫の関係もあった為に太田資顕と遠山綱景は連絡を密に取っていたようだ。 「あまり芳しくないと聞いておりまする」 「動けるのか?」 「最早床に伏したまま起きられぬと聞いておりまする」  肘掛に軽く持たれながらふむ、と声を出した。 「綱景、ちとすまぬが、幾人か手の者を資顕殿の見舞いと称して岩付に送り込んでくれ」  遠山綱景はいきなりの申し出に怪訝な顔を見せた。 「何故にございます?」 「岩付の城から松山の城に兵を繰り出すかもしれぬのだが、まだ確かとは言えぬ。故に前以て血縁のそなたからそれとのう伝えておいてくれぬか」 「それは構いませぬが、松山の城に出兵ですと?」 「うむ、武蔵より追い出した太田資正が上野より松山城に兵を出すとの知らせが入ってな。その為の後詰じゃ」 「なんと、左様にございましたか。資正殿と言えば全鑑殿の御舎弟、なんとか兄の元に納まってくれると良いとは思っておりましたが」  如何にも残念そうに俯いた綱景に、「資正は古今稀な律儀者との噂を聞く。太田の兄弟が纏まらぬは如何にも残念なれど、そのような忠義者が居っても良いであろう」と暗に太田資正との繋がりのある綱景を救ってみせた。  この氏康の気の使いを感じ取った綱景はほっとした表情を浮かべた。 「なれば早速手の者を岩付へと向かわせまする」 「うむ、なるべく急げ。おそらく猶予は左程あるまい。それと江戸の兵を整えておけ。儂も直ちに出陣して江戸の兵を連れて行く」  綱景は氏康に一度、深々と平伏すると颯と廊下に抜けて行った。  直後に氏康は立ち上がり、松田盛秀に命を下した。 「盛秀、玉縄と小机、赤塚、志村の各城に出兵の急使を送れ。出陣した後各城の兵を糾合して松山の城に後詰に向かう」 「は、早速に急使を差し向けまする」 「出陣の支度をせい!広間に宿老おとな達を集めよ!」  氏康出陣の大音声により小姓達は一斉に走り去ると、主だった家臣達に召集の使いとなって緊急の軍議が開かれる事となった。  長月の日も暮れ十三夜の名月が空にかかり、村落や町屋ではささやかな月見が始まっている。平安貴族のように舟遊びで歌を詠むような宴はないが、日ごろの過酷な農作業を忘れさせてくれる名月だった。  そんな名月が旭日に霞まされた頃、小田原の城では貝の音が鳴り響き、騎馬武者や足軽が各所から城に馳せ集まり五千を超す軍勢が参集すると、まもなく武蔵松山城に向けて出陣して行った。その軍勢が小机城(現神奈川県横浜市港北区小机町)の兵を糾合した辺りで、松山城落城の報を受ける事になった。 「なに?松山の城が落ちたと?」 (おかしい、落ちるにしてもちと早すぎる)  知らせをもたらした急使を馬上で見据えながら疑問を投げかけて見た。 「松山の城はどうなっておる?」 「は、城方は太田資正の軍勢が夜陰に乗じて城まで押し寄せた事に気付かず、城門を難なく潜り込まれ防ぐ事叶わなかったようにございまする。今は城には敵将太田資正が入り城門を固く閉じておりまする」 「して、城に居った此方の人数はどうした?」 「隙に乗じて攻められた城代は、今は城を落ちて河越の城に入っておりまするが、上田朝直殿は太田資正とは旧知の間柄、松山の城に残って居るようにございまする」 「なるほど、わかった。下がって良い」  暫し黙り込んだ氏康だったが、伝令を呼んだ。  直ぐ様幌を背負った伝令が走り寄ってきた。 「急使を遣わす。江戸の綱景を岩付の太田資顕の元に行かせ、急ぎ松山攻めの兵を上げよと伝えい」  更に同行させていた足軽大将の小太郎を呼んだ。 「小太郎、配下を使い松山の城に潜り込めるか?」  呼ばれた小太郎が礼をする間もなく言葉を投げた。 「幾人か放ってみましょう。してどの様な事を御調べになりまするか?」 「上田を調べよ、どんなことでも良い。松山の城に執着のある朝直じゃ、何か分かるかも知れぬ」 「なれば早速に」  小太郎が去り、軍勢も氏康の行軍に合わせて各城から参集して急ぎ江戸の城へ到着したのは天文十六年十月の事だった。  江戸城到着直後の氏康の元に、再び凶報が届いた。遠山綱景からの知らせなのだが、岩付城主、太田資顕が病没したらしい。  到着早々の訃報に岩付の急変を悟った氏康は香月亭に入り、約二カ月間、松山城と岩付城の情報収集に忙殺される事になる。  ちなみにこの香月亭は太田資高の詰めていた曲輪なのだが、その太田資高は三月ほど前の天文十六年七月二十四日に没していたのでその子、太田康資が後を継いでいた。  氏康が香月亭に詰めてからのその間、松山城からの知らせではどうやら上田が資正に内通していたように見えるがはっきりとはしていない事と、また城を守る兵の数も横瀬成繁からの援兵は金山城に去っており少ない事、更に資正が岩付の城へ使いを頻繁に送っているとの情報を得る事ができた。  また岩付の城からの知らせでは、同じく資正が没した兄資顕の家督を強権的に引き継ごうとしている事で太田家の家臣の中でも混乱が生じているとの報告も入って来た。  太田資正も旧領回復に躍起になっているのであろう。  これを利用するために氏康は調略の人数を集め始めた。  時は天文十六年の師走の事。  なるべく兵を損ずる事がないように事を進めるのが氏康の流儀だ。大合戦での華々しい戦果が尊ばれる風潮にある世ではあるが、調略や政治の駆け引きで自らの体力を消耗させずに領地を広げる事が第一と考えるのだ。  一見地味だが着実に勢力を伸ばせる上に領国の兵、これは領国の百姓達の事だが、これの損耗も防げると云った利点がある。  幼き日の孫子の兵法の一文が氏康の治世感を育んだのかもしれない。 曰く 『兵は国の大事にして死生の地、存亡の地なり。察せざるべからず』 『百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するのは善の善なり』  これが一転して同じ孫子を学んでも武田晴信は、 『故に、其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざる事山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆らいていの如し。郷を掠むるには衆を分かち、地を廓ひろむるには利を分かち、権を懸けて動く。迂直うちょくの計を先に知る者は勝つ。此れ軍争の法なり』 この方に重きを置いていた。  同じ孫子の兵法でも選ぶ一文が異なると、こうも人物の性格が変わるものなのか。  ただしこれは氏康ほどの政治力と豆相武の領地背景が有ったればこその手腕であり、誰もが真似をできるものではないのは確かである。信玄もしかり。  その日の夜、香月亭に呼ばれた者は遠山綱景と元河越城代の大道寺盛昌、小太郎の三人。  雪が降りそうな程に冷えた師走の夜、蔀戸を締め切った香月亭の居間では、中で赤々と炭を熾した火鉢が僅かながら居間の空間に温みを広げていた。  火鉢の他に、炉にも炭が入れられて赤々と燃え、上には茶釜がきんきんと音を立てて湯を沸かしている。  このお陰で香月亭の居間は外に比べるとかなり暖かくなっていた為に底冷えのする夜中とはいえ四人は震える事も無く着座することができた。 「今宵は冷える故、そち達に茶を振舞うて進ぜよう。少しは温まるじゃろう」  まずは暖を取るためと、眠気を取るために氏康が亭主となり茶の準備を始めていた。 「これは有難い事にござる。今宵はまことに底冷えが厳しくなりました」  大道寺が嬉しそうに目を細め、美しく動く氏康の所作を眺めている。 「如何にも。松山の城もこの寒さ故か、人数がめっきりと減ったようにございます」  氏康は流れるような仕草で茶を点じながら小太郎の言葉を静かに聞いていた。 「横瀬成繁殿も各地への出兵に忙しく兵を引いたようで、城に籠る人数は資正殿に従う者が数百人。また上田朝直殿の手勢が少々残っておるのみ」 「小太郎殿、それはまことか?」  大道寺が意外な人数を聞いたかのような反応をした。 「まことにござる。遠山殿にも岩付から何か知らせが来ておりませぬか」  小太郎から話を振られた綱景、うむ、と返事をして岩付からの知らせを披露しはじめた。 「つい昨日、岩付城主の太田資顕殿が身罷ったとの知らせがあったのでござるが、これは弟資正殿にも当然届いたようにござってな」  ここまで話した所で氏康から茶が各々に振舞われ始めた。  茶の香りが鼻をくすぐってくる。碗を手に持つと、その温みもじわりと伝わって、茶の香気、旨みを増大させる効果があるようだ。  茶の苦みが泡立てたことによりまろやかになり、嫌みのない風情が口内に広がる。 「うまい」  誰ともなく溜息と共にふと漏らしていた。  一息吐いた格好になった綱景が続けた。 「資顕殿には嫡男が居られませなんだ、よって我が子藤九郎と資顕殿の娘との間にできた孫が家督する流れにあったのですが」  そこで少々言葉を途切れさせると、亭主の氏康が初めて言葉を挟んだ。 「資正の横槍でその母子の身が危うくなっておるのだな」 「はい。先ごろ我が方と昵懇となった忍(おし:現埼玉県行田市)の成田長泰殿の元に、事の次第によっては移るかも知れぬとのことにございます」 「成田か、まずはそれでよかろう」  忍の成田氏とは藤原氏の出で藤原道長、または藤原基忠を祖とするとされ、源頼朝や義経に従い軍功を上げるなど、鎌倉幕府の御家人としての流れもある名族である。  室町期に入ると山内上杉氏の傘下に入り直近では忍氏を滅ぼして忍城に納まっていた。 「成田殿も河越より我が方になった者、今後の動き如何でどう動くかわかりませぬ。故に我が孫と嫁が良き楔になりましょう」  綱景は自らの血縁が忍の楔になる事に躊躇はなかったが、どこか一抹の悲しみが表情に表れていた。 「松山の上田の動きだが、ちと様子がおかしいな。おそらく資正に調略された上での松山城残留であろう」  小太郎が申し訳なさそうな顔をしながら碗を回した。 「申訳もございませぬ。近臣にも漏らしていないようで、何故に松山城に残れるのか、いぶかしんでおる朝直の家臣も居る始末。また朝直の周りには幾重にも護衛が付いており中々に近づけませぬ」  氏康が炉の炭を金箸で動かすと、ちらと火の粉が舞い踊った。 「小太郎、松山の上田な、明朝より調略にかかれ。上田の松山一帯での地侍への影響、未だ侮れぬ故、即座に資正に反旗を翻し松山城から追い落とせば城主として安堵すると餌をちらつかせよ」 「畏まりましてございます」 「綱景、そちは岩付に赴き松山の資正との戦に備えよと伝えて参れ」 「なれば明朝早速に発ちまする」 「盛昌、そちは河越の城を固め、いつでも松山城と岩付城を囲めるよう兵を集めよ」  この言葉に綱景は驚いた。 「なんと、岩付までも囲まれる御心算でございまするか」  碗を手に持ち茶巾で拭いながら、氏康は「左様」と声を出した。 「資顕亡き今、弟である資正が岩付に手の者を遣わしておると云う。あの情が強こわい資正のこと、無理にでも動こうとするやも知れぬ。そうなれば城が資正の元に一つに固まる前に、速やかに城を取り囲むことも考えておかねばならぬ」 「分かり申した。御屋形様の申す通りにございます。」  一通り指示を出したあと、いま一服とすすめられるままに三人は茶を喫し、二杯目を喫し終わってから香月亭を去って行った。  翌朝、河越の城に向かう事を告げた氏康、揃えられるだけの人数を引き連れて河越城に入り、松山城を落とす為の戦略を、評定衆を集めて練っているところに再び急報が届いた。 「太田資正が兵を率いて岩付の城に入り、強引に家督を継いだとの事にございまする」 「はやくも岩付の城が資正に盗られたか」  この急使の一報で評定の間はざわめいた。松山、岩付の二城が敵方に落ちたとなれば再び河越の城が窺われる最前線となるのだ。今は扇谷が滅び山内が逼塞したとはいえ、この短時間で二城を抜かれたとあってはどう噂が流れる分かったものではない。再び旧来の勢力が集まる可能性もある。 「皆、評定はこれまで。これより急ぎ松山の城と岩付の城を取り囲む。支度を急げ」  氏康の一喝で評定衆は脱兎のごとく評定の間を走り抜け、僅か一刻に満たない間に軍装を整えた兵が外曲輪に集まった。  元々松山城を攻めるための兵を連れて来た為に特に手間取る事もなく速やかに城を出陣。馬出し曲輪を抜けて松山攻めの部隊と岩付攻めの部隊が二手に分かれて進発して行った。  天文十六年師走の出来事である。  資正が入った岩付の城から親北條派の太田家臣の何人かが氏康に救援を請いに河越に走って来ると、次第々々に岩付の城の内部は一枚岩ではない事がわかり、氏康の予想通りの展開になっているようであった。  即座に攻め寄せれば兵も少ない資正は家臣達に押し込められる事も起こるであろう。  岩付に向かわせた部隊を城の周りに展開させ、沼に囲まれた岩付城の追手門まで一気に攻め寄せさせるとその半分を反対の北東側である天神曲輪の搦め手に配置し城を囲ませた。  一方の松山城では、使者として正式に送り込んだ小太郎に利害を解かせ、北條方に戻るよう調略の誘いをかけていた。これに初めは難色を示していた上田だったが、北條方の兵が大挙して押し寄せた事によって上田朝直は直に北條方に寝返り、松山の城は事無を得た。  上田朝直の再度の寝返りで落ち着いた松山の城に幾人かの兵を残し、氏康本隊は岩付の城まで進軍して先発の部隊と合流。ここで全軍、岩付の城を囲む事となった。  周りを沼に囲まれた岩付の城は、その沼を外堀として外敵の侵入を防ぐ役割を担わせている。そのため別名を浮城とも云われていた。  現在城址公園として残る城址は、城の南東側にあった新曲輪址であり、本来の一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪の重要拠点は県道二号線に分断され、見事に煙滅している。道路沿いに建てられている曲輪址の石碑だけが往時をしのばせてくれるようだ。  ついでながらではあるが、一の曲輪址の石碑は個人所有のガソリンスタンド敷地内にある。そこから南に向かうと枡形虎口の址が道路として面影を残し、さらに当時は水掘りとして利用されていたであろう干上がった沼の底が住宅地として利用されている。  さて、周りより少々小高くなっている岩付の城一の曲輪を見据えていた氏康、陣幕を設え前後の門に十重二十重と人数を備え終わり愈々城攻めを残すのみとなった。 「御屋形様、我が力及ばず岩付の城を資正に盗られた事、誠に申し訳もござりませぬ」  陣幕の内で集まった諸将の中で、遠山綱景が氏康に岩付の城の不手際を詫びた。 「致し方あるまい、城主亡き今、城の者は混乱しておる」 「つい先日岩付の城から抜け出た者達の言によると、我が北條家に弓引くことを良しとせぬ者が大半を占めているとの事。資正も思惑通りには行かず、こう囲まれては手も足も出ますまい」  気勢の上がらぬ城を見て大方の見当をつけた清水康英の言葉である。 「うむ、城から打って出るような状況でもあるまい。このまま数日囲んで様子を見、その後資正に使者を遣わす事にしよう」  無血開城が北條の武威を示す最良の城攻めだったのである。  一方の資正が入った岩付の城では、資正を中心に主だった家臣一同が寄り集まり資正に詰め寄っていた。  中には資正を正式な主とは認めぬ家臣もおり、喧々諤々の騒ぎとなっていた。  曰く、資正は主全鑑の嫡出ではなく弟であること。唯一全鑑の孫とも云える者を母子ともに忍に追い出した事を承服できぬこと。前主の方針は親北條であり、反北條の急先鋒である資正が岩付太田家を家督する事への不満、またその事を内外に発表した途端の北條方の電光石火とも云える軍事行動に対処ができない資正の準備不足などである。 「資正殿が岩付太田家の家督を継がれる事は承服致しましょう。したが資正殿が如何に思う所があっても北條殿と刃を交えるお考えは捨ててもらう事が我らが主となる事の条件と成り申す」  一の曲輪主殿に詰めていた資正とそれを守るかの様に取り囲む資正の直臣、さらにそれを包むように詰めている岩付の諸将が火花を散らせていた。  その臣の席には蘆野氏、春日氏、熊沢氏、宮城氏等が並んでいる。 「その方達は我が意に沿えぬと申すのか」  資正の一喝も虚しく響き、臣達の「沿えませぬ」の言葉が今の岩付の内情を物語っていた。 「そもそもは管領上杉家の被官であった太田家ぞ、何故上杉家に従う事を良しとせぬ」 「資正殿はお若い。世には意地や旧来の恩のみでは家を残す事叶わぬ事が有り申す」 「それは武士にあるまじき無節操ではないか」  資正と臣達の言葉に寄る応酬が続いた。 「ならば問い申す。我らが仕える太田の家は、そもそも扇谷上杉家の被官でござる。何故山内の上杉家に肩入れされてござるのか。これこそ主を容易く変える無節操と云うものにござろう」 「言うに事欠いてなんたる暴言を吐くか」  資正が立ちあがり自らを囲む太田の臣を睨めつけ見回したが、それに恐れをなして目を伏せる者など居なかった。 「立ちあがってどうされる。城を囲まれて勝ち目のない戦に持ち込まれ、太田の家を窮地に追い込まれた資正殿の責任は重うござるぞ。このまま再び横瀬成繁殿の元まで逐電されるか、我らの言を入れて北條殿に詫びを入れるか、二つに一つでござる」  当時は江戸時代的な絶対主従の関係は無い。  盟主として岩付太田家を在郷の武士団が祭り上げているに過ぎないため、余りに自家保存を蔑にする盟主は家臣が逐電するか、あるいは主を討って自家を保存する事がままあった。  このため資正も無理強いはできない状況なのだ。ましてや金山城から引き連れて来た自らの近臣は少ない。  資正は力なく元の場所に座り込んだ。 「しかし京兆けいちょう家には囲まれて居るぞ、最早刃を交えるしかあるまい」 「それその」  家臣達は資正の言葉尻を取った。  京兆とは本来右京大夫の唐名であり、氏康の官位である右京大夫を指すものだ。また室町管領家の細川本家も代々右京大夫を任官しているために細川本家をも指す言葉である。  細川氏が室町幕府管領であることをなぞって、鎌倉殿(古河公方)の実質的な管領であると政治的に広める意図のある北條家もこの官位任官を受けていた。 「京兆家でござる。鎌倉様を補佐する呼び名を北條様に対して自ら御認めになっておるではありませぬか」  と、これは京兆家と呼んだ所で認めた事にはならないのだが、家臣達の方便である。 「まだ遅くはござらん、今より直ちに使者を差し向け和議を整えるのです」  歯をぎりぎりと鳴らしていた資正だったが、暫くして沈黙を破ると一つ大きく溜息を吐いた。 「その方達に任せる。好きにせよ」  反北條を改め、親北條の臣達に今後を預ける事にしたようだ。  そして年が明けた天文十七年一月、城から和議の使者が現れて太田資正を主とした岩付の城は北條家に降った。
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