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善徳寺の会盟
古河の公方晴氏に退位を迫った年の天文二十一年三月二十一日、氏康の長男新九郎が十六歳の若さでこの世を去っていた。嫡出ではなかったものの、通称を新九郎としているところからこの長男に北條家を継がす心算でいた事はわかる。この名は家祖早雲からの家督の名であるためだ。氏康の悲しみはどれほどだっただろうか。
長男新九郎の戒名を天陽院殿雄景宗栄とし、菩提寺は家祖早雲と祖父氏綱の眠る早雲寺に天陽院を建立した。
長男の壮大な葬儀を終えてから暫く後、嫡出ではあるが次男であったために家督とはされていなかった松千代丸に新九郎の名を与えると、新たなる世子(世継ぎ)として新九郎氏政と名乗らせる事にした。これが小田原北條家四代目の誕生でもあった。
この北條家家督が没するという大事件と並行して古河の公方晴氏を強制的に退位させ、合わせて梁田高助の娘と晴氏の間に出来た公方家嫡子の藤氏を廃嫡させると、元服前ながら梅千代王丸が古河の公方に据えられる事となる。
この年は関東の権力構造が旧来とは一変した年でもあった。
一方平井を落ちてからの上杉憲政一行の事。
憲政は足利長尾氏、新田横瀬氏のどちらをも頼る事が出来なかった為に利根吾妻の上野北部を転々としていた。
その日も上野北部の山里の一角に、その地に住む山賎(やまがつ:樵や山仕事を生業とする人を指す)ですら滅多に近づかないであろうと思われる朽ちかけたあばら家に身を休めていた。
曽我祐俊、三田五郎佐衛門、本庄宮内少輔と、それに従っている従者数名がそこに居た。
囲炉裏には従者が周りの森から集めて来た生乾きの朽木の枝を放り込んだために濛々とした煙があばら家中に立ちこめている。しかし薪等といった気の利いた物など置いてある筈もない。この冬明けの遅い上野の山中では煙を吐く燃料でも有難かった。
一行はこれまでに様々な豪族達の元を訪れたのだが、北條家へと流れる悪評をおそれて最早憲政に手を差し伸べる者もいなかった。このため山野を駆け巡り管領家への協力を求めても色良い返事を受ける事が全く出来ないでいた。
つい数年前までは八万の軍勢の主魁となっていた上杉家だったが、あれほど大勢いた雑用をこなす従者も昨日までには二人に減り、一行は憲政を含めて六人となった。
足利尊氏の四男、基氏に従い鎌倉に下向した関東管領上杉家の隆盛も、鎌倉殿の代が氏満、満兼、持氏、成氏、政氏、高基、晴氏と代を重ねる毎に古い権威と成り果てて終に威光は地に落ちた。
此処に居る全員が疲れ切り、口を動かす事も無く沈黙の時が過ぎていたために、たまに爆ぜる火の粉が渇いた音をあばら家に響かせている。
そんなとき、三田五郎佐衛門が思い切ったように憲政に言葉をかけた。
「御屋形様」
埃と垢にまみれた憲政の顔が五郎佐衛門を見るが、最早生気は無くただの惰性で振り向いただけだった。
「上野には頼る豪族共はもうおりますまい、これは賭けにございまするが、越後の長尾を頼ってみてはいかがかと」
しばらく呆っと五郎佐衛門を見ていた憲政だったが、「越後か」とつぶやいた。
「左様にございます。長尾の景虎を頼ってみては」
「景虎とはあの為景の子のことか?」
「景虎は若年ながら越後の乱を鎮め足利の将軍義輝公に越後守護職を認められた程の傑物と聞き及んでおりまする。上野の豪族に頼った所で北條に歯向う者など居なくなった今、藁にも縋る思いで頼ってみては如何かと」
「しかしあの為景は我が祖、上杉家の房能公、顕定公兄弟を屠った逆臣ではないか」
「それは父為景の事にございます。子景虎までそうとは言い切れませぬ」
「越後の長尾、のう」
朽ちかけた金箸で燃え滓になった灰を突いて崩していた憲政だったが、どこを触ったのかいきなり薪が爆ぜた。
「このまま上野におっても何れは滅ぶ運命にござる」
「うむ」
そう一言呟いた憲政だったが、何かを思いつめた様に沈黙すると爆ぜた薪を暫く眺めていた。そして幾許かの時が流れた。
「ならば……、越後に隠れて力を蓄え、その後関東に出る望みも繋がるかも知れぬのぅ」
「御意」
「では、急ぎ越後に向かうとするか、直に用意せよ」
「いや、暫しお待ち下され。景虎を買った物言いをしたそれがしでござるが、ここでいきなり御屋形様が越後に出向かれるのは些か危のうござる。一度使者を遣わして関東管領の命で逆臣北條を討てる者かどうか試されてからにしましょうぞ」
盛り上がった期待を削られた感のある憲政であったが、確かにいきなり乗り込んではどう扱われるかわかったものではない。
「なれば使者を遣わしておる間、儂はここに居ればよいのか」
「いえ、御屋形様にはこれより沼田まで向かって頂きます」
上州沼田の城は沼田氏が入っていた。
この沼田氏、大友氏の一族である太郎実秀と云う者が沼田氏を名乗っていたとの事だが、後年相模三浦氏の流れの沼田氏がここに入り以降別系統の沼田氏の血筋が脈々と続いて来た家柄である。
「沼田はまだ北條方の手には落ちてはおりますまい、そこから越後の動向を探る事に致しましょう」
「そうか。事ここに至っては何事も詮無し。全て五郎佐衛門にまかせよう。良きに計ろうてくれ」
「畏まりましてございます」
ここで三田五郎佐衛門と憲政は別れ、五郎佐衛門は憲政の使者として越後へ、憲政は沼田弥七郎朝憲の元へと向かう事になった。
北條家の影響が少ない土地を選び沼田への道を只管歩いた憲政が、その城に到着したのは二日後。
しかしその知らせは五十里を走り抜け、憲政が上田に庇護された数日後には小田原に届いていた。
風魔の仕事とはいえ並々ならぬ情報伝達の早さである。
「御屋形様、憲政の居所が掴めましたぞ」
小田原城では氏康の座する広間に小太郎がやって来ていた。
何時もであれば小太郎は一人でやってくるのだが、この時は従者を一人連れており、広間後方で平伏していることが何時もとは違っている。
その従者と思える男、かなりの異相だ。座ってはいるがどう見ても上背は六尺半(195cm程)はありそうに見える。また頭は髪を剃り零して入道頭になっており、鷲鼻で大きく突き出た鼻が特徴的だ。
興味をそそられてちらりと従者に一瞥をくれた氏康だったが、直に小太郎に目線を戻し本題に入った。
「そうか、して憲政はどこにおる」
「上州沼田の城で隠居の顕泰殿に庇護されておりました」
「沼田に逃れておったか。しかし隠居の顕泰とは如何なることじゃ?」
「はい、沼田の当主は顕泰の倅、弥七郎朝憲と云う者にございますが、この弥七郎は我が方に付く事を考えておる様子。従って頼って来た憲政を疎ましく思っているようにございます。しかし父の顕泰は管領の家と繋がりが深く、憲政が頼って来たことを喜んでいる節がございます」
「なるほど、なれば弥七郎を我が方に取り込み寝返らせれば」
「そこで弥七郎に憲政を仕留めさせる事も叶い後顧の憂いも無くなりまする」
大きく頷いた氏康、「早速にも沼田朝憲に使者を遣わそう、小太郎、そちも戦の支度にかかれ」そう言って立ち上がろうとした。
「あいや、暫く。まだござる」
腰を浮かした氏康だったが、小太郎の慌てぶりを見てもう一度腰を据えた。
「如何した?」
「私事になりまするが、この小太郎めも愈々寄る歳波には勝てなく成り申した。そこで今後は此の者が」と体をずらして後背に平伏する先ほどの大男を指し示すと「我が風魔の新しき棟梁となりまする。名も我が名を継ぎ、小太郎となりまするのでお見知りおき頂けますよう」と、新しき風魔の棟梁を氏康に紹介した。
「左様か、中々の威丈夫であるな」
後年の軍記物や忍者の物語などに出て来るこの五代目と言われる小太郎(この物語では便宜上三代目としている)、紹介の仕方が振っている。
『身の丈は七尺二寸(216cm程)筋骨荒々しくむらこぶあり、目は逆さまに裂け、髭は黒く、大きく裂けた口からは牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し』
これは過剰な表現であろうが、想像すると最早人間ではないのが面白い。
「今後は此の者が某の代わりとなりまする」
「左様か、しかし小太郎、そちはまだこれからも儂の元に出仕せよ。そして新しき棟梁は我が息、新九郎氏政に仕えさせよう」
「これは有難き幸せにございまする」
「しかし名が同じでは其の方達も困るであろう故、今後は風間と名乗るがよかろう」
この風間とは元々風魔一党が足柄郡に拠点を持っていた時に名乗った本性である。これがいつの間にか風魔と称されるようになったのだから、元の名に戻っただけでもあった。
また性を風間に戻すと、官渡名を出羽守として風間出羽守と名乗る様になったようだ。これが僭称であったかどうかは不明である。
そしてこの後直に小田原から沼田の弥七郎朝憲に北條内通の使者が差し向けられた。
この頃の各国の情勢だが、一段と風雲急を告げていた。全国に跨る戦国の風が本格的に吹き荒れ始めた年と言って良いだろう。
まず駿河の義元の娘が甲斐の晴信嫡男、義信に輿入れしている。
十一月四日、上総国では真里谷信応が里見義堯と戦い椎津城を落とされ自害。
翌天文二十二年になると信濃国は蔓尾城主、村上義清が武田晴信に敗れて越後の景虎に援軍を求める出来事が有った。
これに景虎は、村上に軍勢を持たせて武田勢の入った村上領に出陣させると、同年四月、村上義清は武田勢を破り蔓尾城を奪還、村上領から駆逐する働きをみせた。しかし七月に入ると武田勢は俄かに軍勢を催し再び村上領を犯す行動に出る。
この合戦によって村上義清は自領を失い、再び景虎を頼った事で信濃の国に越後勢が出陣。布施の戦い、八幡の戦いを経て荒砥城・青柳城・虚空蔵山城を落とした。これが後に第一次川中島の合戦と云われた。
同年、甲斐の晴信が越後の長尾景虎牽制の為に利害の一致する北條家と同盟するために晴信の娘、黄梅院が新九郎氏政に輿入れをする。
天文二十三年になり、これを見た駿河今川家では。
駿府屋形の書院で薄化粧に殿上眉、お歯黒の顔に水干を纏った義元が無表情の宰相僧、太原崇孚の急な来城を出迎えていた。
「御師様、よくぞ参られた。三河の仕置き、手数をおかけ致しておりまする」
この頃の今川家は三河の松平広忠(徳川家康の父)が没したために軍勢を岡崎城(現愛知県岡崎市)に送り込んでおり、事実上三河国を支配下に取り込んでいる。
また尾張織田家の守る三河安祥城を攻め、守将織田信広を人質として、そのころ織田家の人質となっていた松平信広の倅竹千代(後の徳川家康)と交換している。そして天文二十年に尾張の織田信秀が死去したので、三河を越えて尾張計略を着々と進めている最中でもあった。
「これは痛み入ります。三河表の事は尾張から竹千代を連れ戻す事ができたので荒れる事も無く治る事ができまして御座います」
「左様にございますか。三河が安泰となれば更に西に向かって尾張を切り取らねばなりませぬ故、御師様には益々のお働きをお願いせずばならず、苦労をかけます」
「それは良いのです。元気の良い又者(またもの:斯波氏の陪臣:信秀の意)を失った尾張は最早恐るるに足らぬでしょう。それよりも怖いのは美濃の蝮」
「蝮?ふむ、土岐頼武(政頼とも)の舎弟(頼芸:頼武の後に道三によって守護職に据えられた)を追いやった日蓮宗の坊主あがりの事ですかな」
「日蓮宗の坊主あがりは先代の方でございますな。親子二代で美濃の国を切り取ったは共に稀代の傑物。子の山城守も一角の人物と見受けまする。戦立ても中々巧みで、あの信秀さえも一度として勝つ事が叶わなかったのです」
「うむ、それほどに道三と云う男戦上手でございますか。なれば美濃と和議を結ぶか、または尾張が自壊するまで美濃との緩衝の地とするか。どちらが良いかのぅ」
本気で悩む様子は無く、言葉遊びをするかのように義元は崇孚との会話を楽しんでいた。
「まずは美濃の手当が済むまでは尾張を緩衝の地とするが宜しいかと。して今日此処へ参ったは美濃尾張方面での要件ではありませぬでな」
そう話を切り替えた崇孚、特徴のあるその岩に刻んだような無骨な無表情さを更に固くして義元に向き直った。
「左様でしたか。では何処の御用件でございましょう」
お歯黒を覗かせて笑う義元、武家としては少々奇異ではあった。
「北條家と武田家が婚姻によって和議を結びました」
義元の、お歯黒を覗かせて笑っていた口元が俄かに引き結ばれて不機嫌な顔付に代わりはじめる。
「晴信は先の年、我が娘を嫡男義信に迎え入れたと言うに、また如何で北條等と和議を結んだのじゃ」
殿上眉が眉間の皺を挟んで、その部分だけ別な生き物のように小刻みに動きはじめた。
「武田は我が今川と同盟したは偽りであったのか」
白粉を塗った顔が怒りに歪んだが、赤くなったのは白く塗られていない首筋のみ。顔と首筋の色合いが対照的だ。
この怒りを見ても崇孚は顔色も変えずに正面に着座したまま、静かに義元を見据えていた。義元の二つの顔色と同じく、対照的な主従である。
「御師様、これはどういった事なのでございましょう。武田は北條と結んで我が方に攻め入ろうとしておるのでしょうや」
「まず」と、低い声を出した崇孚。
「落ち着きなされませ」
「これが落ち着いておられましょうか。ようやく遠江が落ち着き、三河を切り靡かせた矢先にこれでは尾張に手を伸ばす事が難しくなるどころか、またぞろ北條めが河東の地を切り取らんとやって来るは明白」
義元の顔は既に泣き顔に代わり始めていた。
「御屋形様、まずは落ち着かれよ」
「しかし」
「この武田と北條の和平は越後の長尾が元になっておるのです。故に当面は我が方に矛先は向きませぬ」
一瞬呆けた義元に、ただ、と付け加えた崇孚。
「長尾に対しての和平同盟ではありますが、そのままにしておくと何れはこの駿河にも目が向きましょう。今日御屋形様にご面会申し上げたのはこの事を伝える為にございます」
呆けたまま腑に落ちぬ顔の義元が怒りを忘れて崇孚に問う。
「越後の長尾と、それは何者ぞ。越後は守護と前管領が、あー、何とか申した国人に討ち取られてより此の方、内乱続きで国を纏める者はおらんと聞いておったが」
「その何とか申す国人が長尾にございます」
「その者が長年かけて越後を纏め上げたのか」
「いえ、長尾為景は天文十一年の年に死んでおりまする」
「面妖な、ならば他にも長尾がおるのか」
「死んだ長尾為景の子に景虎と申すものがおりましてな、これが越後を纏め上げたようにございます」
ここでようやく納得したのか、大きく鼻で息を吐いた。
「そうか、遠く北の国でも大きな勢力が出て来たか」
「左様にございます。そこでこの新たなる脅威と北條、武田を我が方の力とする為に策を思いつきましてございます」
「ほう、それはいったいどんな?」
「駿・甲・相の三国同盟」
「三国?」
余りの事に未だに合点がいかない義元だったが、冷静になれば成程と頷ける。思いもよらなかった提案であるが、言われてみれば確かに理に叶っていた。
基本的な国策として北條は関東を、武田は信濃を、今川は三河尾張を窺っている。しかもこの同盟がなれば、長尾とは直接係わりの無い今川は後顧の憂いを残さず尾張方面を侵食出来るのだ。
「しかしそのような大それた事が実現できるのでしょうや?」
「御屋形様にはまず、ご説明致しましょう」
ここで崇孚は、自ら各地に放っていた調者からの情報を元にした、武田家と北條家を取り囲んでいる状況の説明を始めた。
「晴信は連年の信州攻めに於いて愈々蔓尾城の村上義清を攻め落としましてございます。しかしこれが越後の長尾の元に逃げ込んで助けを請うた所、大軍を率いて信濃に出陣し晴信が切り取った領地を悉く取り返しました。しかしこれが元で晴信と越後の長尾は退くに引けなくなり信濃と越後の国堺で小競り合いを続けているとの事」
義元は状況を理解しようと真っ直ぐな視線を崇孚に向けて聞き入っている。
「また北條は関東管領上杉憲政殿を上州は平井の城から落としたまでは良かったのですが、その憲政を捕える事が出来ないうちに沼田に逃げ込まれてしまい、先の長尾に救援を請われて居るとの事」
ここまで崇孚が一息に話したところで義元付きの小姓が濡れ縁を渡り茶を持ってきた。近頃大陸で持て囃されているとされる煎茶である。
大陸では抹茶より先に煎茶の文化があり、その後煎茶が廃れて抹茶が盛んになった。また改めてそれが盛んになって来たところなので、この義元の前に出された煎茶は当時の流行の最先端とも云える。
碗を取り一口、茶で喉を潤した崇孚、再び話し始めた。
「長尾も一度に二方面に軍勢を出す事は難しい故に此の度は信濃攻めとなった様にございますが、上州では北條方に靡く国衆地侍等が上杉方の城を攻めておる為、憲政殿が長尾に求める救援は矢の催促のようにございます。また上州も越後と国を接しております故、長尾も北條が武田と同盟を結べば上州から小田原を見据えて動き辛くなるは必定」
「なるほど、それで北條と武田が結んだのか」
「はい。如何にございましょう、御屋形様がご納得いただけるならばこの崇孚、三国同盟の橋渡しをさせて頂きとうございますが」
もはや義元に否やはなかった。
「御師様、なにとぞよしなに取り計ろうて下され」
この上野・越後・信濃の騒動から始まった長尾と北條、武田の対立を元に、崇孚の思惑が加味されて駿・甲・相が同盟の道に向かう事になるのである。
時は天文二十三年、駿河今川家の軍師太原崇孚(雪斎)が奔走して氏康、晴信を説得。結果三国を代表する其々の国の重臣を駿河善徳城に集める事ができた。
そして先ごろ義元の娘が晴信の嫡男義信に嫁いでおり、晴信の娘が氏政に嫁いでいることから、氏康の娘、早川殿を今川氏真に嫁がせると云う条件の元、三氏間の婚姻による三国同盟を成立させた。
これを善徳寺の会盟と云う。
氏康にとっては父氏綱の代から裏切りにあっていた今川家を頭から信用することは出来なかったが、この三国同盟の実利を取って後顧の憂いなく関東計略を推し進めることが出来るようになったのは最大の利益とも言えた。
しかしこれを知った前古河公方となった足利晴氏は。
下川辺の庄、古河には十月の秋風が渡良瀬川を吹き抜け、そろそろ冬の季節を思わせる鰯雲が空一面を覆っていた。
水郷地帯のこの一帯は川や沼が散在しており川漁も盛んだ。無論淡水なので鮒や鯉、鮎、鰻等と云ったものが獲物である。このうち鮒の煮つけ料理が現在の鮒の甘露煮として改良され今でも古河の名物となっている。
また水運も古河公方と共にこの地に入った梁田氏の庇護の元、隆盛を極めていた。
古河城から東に四里程に有る関宿の城を中心に、上野・下野・上総・常陸に水路が及び、南は江戸まで続き海に出る。各地との交易も盛んに物資が上下して大変なに賑わいになっており、関東地方の一大貿易港ともいえた。
この様な歴史を持つ古河と関宿の地だが、現在では古河城は堤防の下に消え去った。その堤防の上に墓標の様な古河城跡の杭が立つのみとなり、一方の関宿では町の名前も消滅してしまい往時の港も姿を消し、利根川堤防周りに閑散とした地方住宅地の散在する農村風景となってしまっている。
さて、この水運とは別に陸路でもその関宿を中心として古河公方の勢力圏が作られており、関宿梁田氏の関宿城、水見(水海)梁田氏の水見(水海)城、諏訪氏の小堤城、野田氏の栗橋城、金田氏の菖蒲城、広田氏の羽生城、小山氏の分家逆井氏の逆井城、相馬氏の守谷城、結城氏の結城城、小山氏の祇園城、小田氏の小田城、岡見氏の岡見城等と連携出来る地勢でもあった。
その中でも古河城の近くの領主となっていた両梁田氏と野田氏、諏訪氏、逆井氏、小山氏、広田氏、金田氏等が古河の城に参集していた。
水掘りに囲まれた古河城、その二の曲輪にある屋敷に全員が集まっている。
屋敷は襖が取り払われており屋敷の中に太陽の日差しを取り込み、その屋敷の中からは中庭に拵えてある庭や池、築山等の造詣が見渡せるようになっていた。中々に雅な造りともいえる。
そこに居並んだ諸将は侍烏帽子に大紋直垂を纏い、全員が正面御簾に向かって着座しており、御簾の施された高座に居る前公方晴氏と相対する形である。
晴氏の居る高座の御簾は巻き上げられ、奥に立ち上がった足利晴氏の姿が誰の目からもはっきり見える。
高烏帽子に水干を纏い指貫袴姿の晴氏が陰鬱な表情をしながら目を血走らせて一同を凝視しているのだ。
一人晴氏の近くに侍る梁田晴助でさえも沈鬱な表情をしていた。あのねば付いた笑みも今日は何処かに消えてしまっている。
「上様、そのお考えは此処に居る者の他に漏らされてはおりませぬか?」
「うむ、軍立ては神速に、知られざる事陰の如くにと云われておるでな。儂の考えは今其の方等に言ったが初めてじゃ」
脂汗を額に浮かせた晴助、古くから反北條派の筆頭ではあったものの、父高助の名跡を継ぎ、公方奏者と公方勢力の筆頭の立場としては安易に立ち上がる事が出来なくなっていた。
「いまだ時期尚早ではありますまいか」
苦しい声を出して晴氏の挙兵を諫めようとした。
「時期尚早と?公方の地位を奪われ嫡男を排された今、時期尚早と申したのか」
晴助が答えに詰まり、唸る声を聞きながら晴氏が続けた。
「中務、そちは氏康は虫が好かぬと以前から申しておったではないか」
晴氏の、晴助を見下す目線が冷たく光った。
「は、まことにその通りにございますれども」
「如何した、中務らしゅうもない」
そういうと、右手に持った扇を苛々とした様子で何度も左手で受けながら「儂は氏康の義兄弟ではあるが今もって主に迎えた覚えはない」そう言いながら高座を降りて晴助達の居並ぶ畳敷きに降りて来た。
それを受けた晴助が晴氏に体を向け直して抵頭しながら続けた。
「しかし上様は印判状を以て梅千代王丸様に家督を継がせ、嫡子藤氏様を廃嫡とした知らせを各地に発給してござる。これでは上様が号令をかけても兵を上げる者達が混乱し、心もとないと思われます」
ふん、と鼻を鳴らして片方の口角を引き攣る様に上げた晴氏。
「そのような判物はまた造りなおせばよかろう」
「なれど」
「もうよい、いかに氏康が忍や松山、岩付の城を手中に治めていようとも、こちらにはまだ私市(騎西)の城や羽生の城、栗橋の城、菖蒲の城などが有る。氏康が攻め寄せようと数年持ち堪える事が出来れば、また上総・下総・上野・下野の大名達も参集して来ようぞ」
「それは危うきお考えにございましょう、氏康殿は今川と武田との三者で同盟をされた様子にございます。上様が兵を上げた事を知れば後顧の憂いなくこの関東に攻め寄せる口実となりましょう」
「儂が危惧しておるのはそれじゃ」
「左様にございましょう。氏康殿が豆相の兵の全軍を上げて攻め寄せたならば太刀打ちする事も危うい」
「そうではないわ」
晴氏が晴助を一喝した。
何に対して一喝されたのかわからなかった晴助が目を白黒させていた。
「氏康は河越の戦までは我が足利家を助け関東を静謐にする手助けをするような事を言っておったがさにあらず」
これは晴氏に云われなくても初めから晴助も感じていた事だった。
「儂を退位させた後に今川と武田の三者で同盟を結びおった。これは藤氏を廃嫡させ自らの血を受け継ぐ梅千代王丸に公方の地位を継がせた後の事じゃ」
晴氏が一息つき、さらに続ける。
「これはこの公方家を傀儡として自らが関東の覇者たらんとしておる明々白々な証拠であろう」
この晴氏の言い分も尤もであるとの考えも晴助にはある。
決意とも取れるこの申し出に、晴助は本意ならずも追従する事になった。
「居並ぶ皆々にも意見を伺いたい。上様の挙兵に意義のある者はおらぬか」
一同をさっと見渡した。
「上様は挙兵されて、まずは何処かを攻められるのですか?」
これは晴氏挙兵になると北條氏との勢力堺にあたる菖蒲城の金田氏だった。菖蒲城は周りを忍城、松山城、石戸城に囲まれているのだ。同じく最前線となる羽生城の広田も金田の質問に同調した。
「左様にござる、まずは松山・石戸・岩付の三城を攻めて鎮めねば、挙兵をしても取り囲まれ古河の城まで押し込まれるは必定にございましょう」
これを晴氏は一蹴し「挙兵はするが古河城に籠るのみ。そのほう達は其々に城に籠り数年間持ち堪えよ」そう言い放った。
「あの八万を打ち崩した北條殿ですぞ、我が城に籠る人数だけで数年持ち堪えるのは些か」
「無理だと申すか」
晴氏の口から洩れでる言葉は心の無い冷たいものであった。
「無理と思うならば自ら城を毀ち、一族郎党を引き連れて古河の城に入ればよい」
これは晴氏の無理と云うもの。領地と領民を置き去りにして自ら城を破却し一族郎党で逃げだす事は、最早その城は自落した事に他ならない。その時に領主は頼める人にはならなくなってしまうのだ。
北條勢が寄せて来るとそこの住民は全て北條側に組み込まれる事になる。
「上様、それは御無理と言うものにござる」
「なれば自城に籠りおり、儂が挙兵後は各々の城で籠城せい。時が来るまで決して動くでない」
一同を見渡した晴氏が再び晴助の方を向いた。
「中務、これより儂が挙兵すること関東の国人豪族達に知らせよ。合わせて其々から籠城の為の兵と兵糧を募るのじゃ」
晴氏の決意は固かった。それから七日程で各地の国人豪族達に印判状が出回ったのだが、ここで梁田晴助が意外な行動を取る事になった。
現在の古河足利家の勢力と小田原北條家の勢力は比ぶべくもない程に隔たりができている。
これを知らぬ公方晴氏ではなかったが、先の晴氏退位と嫡男廃嫡に周りが見えなくなったのだろう、その氏康に対して挙兵をする決断をしたのは先の通り。
しかしこのまま直接氏康と衝突しては古河足利家が消滅してしまうことは目に見えていた。
ならばと晴助が取った行動は、「岩付の太田資正殿と小田原の氏康殿に、上様挙兵を知らせよ」と、あれほど北條嫌いであった晴助が氏康に使者を出す事であっった。
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