没落の権威

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没落の権威

 岩付の太田資正は先の岩付城の自落で氏康に許されており、家格の良さから高待遇を受けて梅千代王丸付きの臣とされて今は小田原城に入っていた。  この高待遇は氏康が資正を買っていた訳ではなく、反北條の筆頭だった人物だったので城を任せずに手元に置いていたと言って良い。そのため岩付城には北條方の太田家臣を城代として置いていた。  また晴氏の挙兵はある程度予想ができる事だったので古河の城に最も近いこの岩付の城に公方退位を迫った直後、小田原から差し向けられた兵で大増員が行われていた事情もあって、晴氏の印判状を持参した梁田の使者が小田原に入ってすぐに岩付から兵を繰り出すとたちまち古河の城を包囲させる事ができた。  北條方の動きがこれほど早いとは思わなかった晴氏方は籠城の支度も整わぬままに城を囲まれてしまった為、大した抵抗も出来ずに鎮圧され晴氏その人は囚われの身となった。  実にあっさりと晴氏の挙兵を鎮圧した氏康、前公方自らが関東の憂乱を招いたとして初めは処分も考えたが、関東の情勢を考えて一命を助け、自らの目が届きやすい相模は波多野に幽閉する事とした。  これが天文二十三年十月のことである。 「梅千代王丸の事だが」  そう言ったのは庭先に玉砂利が敷かれた枯山水の施された書院造の濡れ縁であった。  隣には今年十五歳になった新九郎氏政と松田盛秀、遠山綱景の三人。この新九郎氏政の風貌は氏康に似ている。顎が小さく小ぶりな顔で、笑うと見ている者を惹きつけるような笑顔になるが稀に見せる鋭利な眼差しはどこか心の通わぬ硝子玉のようにも見える事があった。 「そろそろ元服を為さる頃合い。よって松田、そちは室町に上り将軍義輝様へ上奏してまいれ。古河の足利家は梅千代王丸様が家督となり、関東管領職(本来の関東管領職は鎌倉公方(古河公方)である。上杉家は関東管領職を補佐する家柄であり、関東管領の執事にあたる。上杉家はそもそも関東執事と云われていた)の後継となる事の手筈を整えるのじゃ」 「畏まりました。して、元服の義は何時催されまするか」 「来月」  松田と遠山はこの異例な早さに驚いたが、一人氏政だけは納得していた。 「なるほど、先月の蜂起で前公方様を波多野に幽閉されましたが、そのままでは関東も治まらぬというお考えでございますか」 「うむ、如何に梅千代王丸様が古河足利家を継いだとあっても、元服も済ませておらなんだらまたぞろ晴氏を担ぐ輩も現れよう」  ここでぽんと手を打った遠山、なるほどと合点が入った。 「それで室町将軍様でございまするか」 「左様、室町公方家に鎌倉殿の後任を認めさせればこれに逆らう者は逆賊として追討することが出来る故じゃ」  この氏康の言葉に、氏政は「しかし」と続けた。 「どうした」 「前公方晴氏様が事。後顧の憂いを無くすために亡きものとされては如何に?」  氏政の怜悧な硝子玉が一瞬光った様に見えた。 「いやそれは」と松田、遠山の二人が慌てて止めたが、氏康はじっと倅を見つめていた。 「いかに晴氏様を亡きものとする?」  ここで我が意を得たかのように氏政の顔が綻んだ。見る者を安心させる様な、相手を惹きこむ笑顔である。 「自らが印判状まで使われて新たな古河公方様がお立ちになられたにも関わらず、それを反故にしてまでも挙兵に踏み切られた晴氏様。表立ってはいませぬが、これを後押しする関東の豪族も多いかと。ならば思い切って禍根を断ち、梅千代王丸様のみを古河の公方とすれば関東は治まりましょう」  成程と納得する遠山に渋い顔の松田がいた。ある意味筋は通っているように思えるのだが、些か危ない。 「新九郎、お主の考えも悪くはない。しかしそれを成す時を誤ってはならぬ」 「時でございますか?」 「左様、古河の公方様は、今は波多野にお隠れになりはしたが、古河周辺の豪族達は未だ晴氏様を擁立しようとする者が多い。それは先ほどその方が言った公方を後押しする関東の豪族達の事じゃな。まだ公方の職を解かれて間も無い今、晴氏を亡きものにすれば関東は蜂の巣を突いた騒ぎになるは必定。」 「関東の豪族共が晴氏を忘れるまで時期を待てという事ですか」 「如何にも。その第一歩が梅千代王丸様の元服」  どこか腑に落ちないものがあったのか、眉が小刻みに動いている。 「なにか思う所でもあるのか?」  父の問いに氏政は、別段ござりませんと父の言葉に納得する事にした。 「なれば取り急ぎ松田は室町へ向かえ。遠山、その方は梅千代王丸様の元服の義は葛西城で取り行う故今より用意に取りかかれ」  ははと平伏した松田と遠山、足音も大きく書院を抜けて行った。 「さて氏政、これより広間にまたせてある関宿梁田の使者に会いに行くが、その方も参らぬか」  これは跡取りに外交に慣れさせる一環でもある。 「は、是非ともご一緒させて頂きとうございます」 「うむ、では参ろう」  こうして先に出た松田、遠山の後を追うように氏康、氏政親子も書院を出ていった。  書院の建つ曲輪を出て使者を待たせてある御殿までは幾つかの曲輪を抜けねばならない。江戸期の小田原城と異なり戦国期の小田原城は曲輪の造りが違っている。  本丸の位置は小田原駅の南方面、海側にあるが、当時の一の曲輪は城山と呼ばれた小田原駅北西の小田原高校付近にあったようだ。  さて、梁田の使者の待つ御殿大広間に到着した御本城様親子を迎えた梁田の使者、今般の晴氏挙兵を逸早く知らせた事に対するお褒めの言葉を頂けると思っていたのであろう、二人に対する挨拶も慇懃に、顔には笑みを浮かべて小田原の城の造りを褒めたり城下町の繁盛等を褒めそやしていた。  しかしその期待に反して氏康から降りた言葉は『梁田晴助の公方奏者解任』の命令であった。  父梁田高助も河越夜戦での公方の暴走とも云える参戦を止める事が出来なかった廉で咎めを受けている立場だったのだが、氏康の許しを請う為に入道した直後とも云える天文十九年九月三十日に病死。  その家督として晴助が古河足利家の家宰であり奏者の地位である梁田家を継いだのだが、今回もその古河公方の筆頭家老が公方晴氏の挙兵を止める事が出来なかった罪は重いとしての奏者解任である。  晴氏挙兵を知らせた事は晴助にとっては真逆の結果となった。この時期に古河公方勢力は次々に勢力を削がれていったのだ。  そして翌十一月。  小田原から大勢の北條家臣団を引き連れて、梅千代王丸は武蔵国の葛西城(現東京都葛飾区青戸)へ入ると、氏康が烏帽子親となって無事に元服の義を済ませる事ができた。  官位を従五位下左馬頭じゅごいのげさまのかみと受け、あわせて室町公方足利義輝の『義』の字の偏諱を受けた。  この時に幼名梅千代王丸から足利義氏と名乗る様になる。  また氏康の目論見とも云える現象がこの新古河公方就任によって各地で起こり始めた。  古河公方方であった横瀬氏や桐生氏が北條氏へ降伏。下総方面の公方勢力も続々と北條家の門に馬を繋ぎ始めたのだ。  翌天文二十四年になると、再び武田家と越後長尾家の間で戦火が燻り始めた。  三国同盟を結んでいた武田家が一気に信州に侵攻。  晴信による越後撹乱のために調略された北条きたじょう高広が北条城に於いて景虎に謀反の兵を挙げたが直後に鎮圧されるという事件が起こった。  その後更に信濃の国は善光寺の国衆が晴信方に寝返ると一層長尾方への圧力が強まり、三月武田軍と長尾軍は犀川を挟んで対峙。  二百日を越える対陣となった。  余りの長期に亘る対陣だったため、今川義元に仲介を頼み和睦が成立。両軍兵を退いたのが十月十五日の事。  これを第二次川中島合戦(犀川の戦い)と呼んでいる。  そして元号も変わり、天文から弘治の御代となってから翌年、頑強に抵抗を続けていた足利長尾家も北條家に降伏。  弘治三年になると憲政が匿われていた上州沼田の城でも騒動が発生、沼田弥七郎朝憲と沼田顕康が親北條と上杉残留方で別れて家中を分裂させて争い、親北條方の弥七郎が討たれた。  これを見た親北條方の厩橋長野氏が沼田城を攻めると沼田顕康が逃亡。空き城となった沼田城には北條綱成次男、北條康元(氏秀)が入ったことで沼田城は北條方の持ち城となったのだ。北條方にしてみれば降って湧いた様な幸運である。  しかし沼田城に匿われていた管領上杉憲政が、沼田の城を脱出していた。 「これは愈々越後を頼らねばなりませぬ、もはや猶予はござりませぬぞ」  そう憲政を叱咤するのは越後の使いから舞い戻っていた三田五郎佐衛門である。  三人の家臣と途中で落ちあった倅、龍若丸と共に上州の山道を白井(現群馬県渋川市)に向けて走り出した憲政、着の身着のままで唯一手元に残っていたのは管領上杉家の旗印、向かい雀の大旗一流のみだった。 「うむ、為景の倅とはいえ助けを求めて行く我らをいきなり手籠めにする事もあるまい」  息を切らせながら走る憲政の額に流れる汗は、まだ見ぬ追手への焦りの汗でもある。 「いえ、それどころか景虎殿は戦功抜群との名声を勝ち取り、武田晴信との一戦では救援を請うた村上義清を助けて信濃に攻め入った義の人として名を轟かせはじめておりまする」 「なれば春日山城に急ぎましょう」  本庄宮内少輔も急ぎ春日山に向かう事に賛成であった。最早上野には管領の居場所はないと考えているのだ。 「されど今、我らがいきなり越後春日山に向かっても相手にされぬ恐れがありまする。よってここは関宿の梁田中務(晴助)に頼り、越後の先導役となってもらいましょう」  越後の様子を見て来た五郎佐衛門だったが長尾は信用に足る人物とは目したものの、憲政を無事に越後に届けようと持ち前の用心深さを発揮した。 「梁田中務か、しかし今は公方奏者の任を解かれているとか聞くぞ」 「なればこその越後への同道にございます。解任されたばかりの公方奏者が我ら管領の人数と共に向かえば長尾殿がどう思うか」  ここで共に走る曽我祐俊が追従した。 「義に厚い長尾であれば、身一つで現れた御屋形様と前公方の奏者が共に現れる事で関東管領に力を貸すは必定」 「左様か、なれば我らは先に白井の長尾を頼ろうぞ、祐俊(曽我)、梁田への使いとなって急ぎ下総へ入ってくれ」 「仕りましょう。なれば是より下総へ向かいまする、憲政様には白井で落ちあいましょうぞ」  そう言い残し曽我祐俊一人、下総関宿の地へ向かって行った。  白井(群馬県渋川市)の長尾家、これは古くは山内上杉家の祖先、上杉憲顕に従い上野国と越後国の守護代を兼ねた長尾景忠の子孫である。これが後に上野に土着し、子孫が二つに分かれた。  後年白井を本拠地とした長尾氏が白井長尾氏となり、総社(群馬県前橋市)を本拠地とした長尾氏が総社長尾氏となった。  古くは長尾景春の乱の主魁である景春が白井長尾氏から出ているのだが、これは総社長尾氏に山内上杉家の家宰の職を奪われた事が原因で起こった乱であり、その当時からこの両家は仲が良くなかったようだ。  しかし山内上杉家の家宰職を足利長尾家に奪われてからは両家とも北條方に靡いていたのだが、つい最近上杉家から離反したはずの長野業正が再び上杉家に戻った事を切っ掛けにして、両家ともに山内上杉傘下に復帰していた所である。そこに憲政が沼田から逃げ込んできたのだ。  ここで憲政は曽我祐俊と梁田晴助の一行を待ちわびる事になるのだが、一方その頃、相模は波多野に幽閉されていた足利晴氏も上野の豪族達が連続して北條に服属してきた事への配慮から、古河の城へと復帰を許されていた所でもあった。  この三年に及ぶ幽閉生活で氏康への恨みを澱おりのように腹の底へ溜めていた晴氏。憲政の使者として現れた曽我祐俊と梁田晴助が白井に向かったのを見計らうと廃嫡された藤氏を擁立して再び挙兵に踏み切った。  晴助に一助も得なかったのは先の挙兵の折り、晴助から自分の動向が漏れた事を知っての事だった。だが、更迭されていたとはいえ古河公方家筆頭の梁田晴助が不在になった今に挙兵した晴氏・藤氏達が松田尾張守政秀率いる北條勢の先手に適う筈もない。再び古河御所での挙兵は失敗に終わった。  これで主魁とされた晴氏は、今度は栗橋城(現茨城県五霞町元栗橋)に幽閉される事になる。  それを知らぬ梁田晴助、曽我祐俊に先導され幾人かの手勢を連れて、ひたすらに上野白井向かっていた。 「憲政殿が越後長尾を頼られるとは、世も末になったものにござるな」  馬上で憂いを含んだ表情で梁田晴助が曽我祐俊に話しかけた。 「まことにござる、世の秩序がこれ程乱れて管領も公方も小田原殿に良き様に振り回されてしもうた。末世とはこの様なものなのでござろうかな」 「今の世は力ある者が出頭して他を靡かせる時代となったのでございましょう。最早室町も将軍義輝公が阿波の三好とか言う大名に権威を脅かされておるとか聞き申す」 「下剋上にございまするか」 「しかし管領殿がこれより頼ろうとされておる家も下剋上で伸し上がった越後長尾家。これも世の移り変わりなのでございましょう」 「口惜しいがその通りにござるな。しかしその景虎、越後を切り従えるほどの知謀と軍略を持つとの事、また先の甲斐武田との戦いは信濃の村上を助ける為の義戦をしたとか」  この辺りで白井の城(現群馬県渋川市)が曽我祐俊の目に入って来た。  やっと着いたとの安堵の表情になりながら、「噂では非常に義に厚く室町の将軍家をも上として奉る程忠節心が厚い武将と聞いております」そう晴助に続けていた。 「我が古河足利家も北條家により逼迫の憂き目を見ておる故、何れは長尾殿に頼る事になるかも知れんな」  そう言い残し、梁田と曽我の一行は白井の城に入って行った。  白井の城では憲政一行を無事に越後に送り届ける為、総社長尾氏と連携を取り、数十人に及ぶ上野国人の護衛を待たせていた最中でもあり、そのまま関東管領上杉憲政は越後への道を進む事になるのである。
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