景虎越山

1/1
前へ
/50ページ
次へ

景虎越山

 越後春日山では、客殿として設えられた大広間に長尾景虎を筆頭として越後国人衆が一同に居並んでいた。関東管領上杉憲政と、古河足利家前奏者梁田晴助を迎え入れる為に心づくしの持て成しである。  黒く輝く程に磨かれた板敷きの間は濡れ縁を遮る襖を取り外してあり、日の光を取り入れる目的の他に、当長尾家には害意は無く人数は潜ませていないと見せる手管でもあった。また広間奥には一段高くなるように厚畳が敷いてある。そこを憲政の席と決めてあるのだろう、さらに隣に同じように敷かれている厚畳は梁田晴助の座の様だ。  大広間は全て、調度品に至るまで質素にまとめられ、城主景虎の意趣が込められているかのようであった。  そこに長尾家の家宰である本庄実乃ほんじょうさねよりが憲政一行を広間に案内してくると、景虎を筆頭に長尾家家臣一同、侍烏帽子に大紋直垂の礼装で、全て声も無く一斉に平伏した。  この一糸乱れぬ長尾家の挙措に度肝を抜かれた憲政、何やら湧き立つものが抑えきれず、驚きを含んだ満面の笑みで幾度も頷いている。  まずは上座に案内された憲政。脇に晴助、他一同は憲政の左右に着座した。  このとき憲政一行の目を一際引いたものは広間奥に飾られていた兜跋とばつ毘沙門天王の墨書と、漆塗りに金字の漢文が施された屏風を背景としたその立像である。  太くしっかりとした線で書かれた文字は書き記した者の一本義な性格を現わすのであろうか。  立像は質素ではあるが精巧な彫刻が施されており、金鎖甲で編まれた鎧を着用し海老籠手と言われる防具を付け、筒状の宝冠を冠る古式唐様のいでたちをした立像であった。  右手に戟を持ち左手は宝塔を捧げ、足下に伏した二鬼の上に立つ姿は、仏法を守るための仏の荒々しい一面を現わしている。  余談ではあるが、この兜跋毘沙門天王の墨書は「毘」または「刀八毘沙門天王」と簡易書きされて景虎の旗印とされている。  毘沙門天は仏法を守る四天王の内の一神、北方多聞天とも呼ばれ、戦勝祈願の神として武門の家の信仰を集め、景虎の生涯の敵となった武田晴信も戦の折にはいつも毘沙門天の像を身に付けていたとも言われている。  毘沙門天信仰は景虎の深い仏門帰依の現れなのだろう。  また越後は、前年の弘治二年に上野家成と下平修理亮との領地争いを切っ掛けに家中の派閥闘争が激化したため、家中の調停に嫌気がさした景虎が出家出奔騒動を起こした事があった。  このとき武田晴信に調略を受けていた大熊朝秀が謀反を起こし会津の蘆名盛氏が越後に侵入、大熊と合流するも西頸城郡駒帰で迎え撃った上野家成、庄田定賢が戦い辛くも防ぎきるといった事件が起こった。  これが元で長尾家中も一つにまとまり、景虎を上に頂いて越後長尾家が治まったのだが、その頃から景虎は更に深く仏門に傾倒して行ったと思われる。  平伏した姿から身を起こした景虎は憲政と目線を合わせた。  当年二十八歳になった景虎、その容貌は顔が小さく眉がきりりと両端で切れあがり、睫毛が長く鼻筋が通り瓜実顔で色が白い。  髭が濃い所を除けば公家の女人顔とも云えるものであった。また少々声も高めである。 「管領上杉様に於かせられましては昨今のご心痛、わが事のように心痛めて参りました。我が父ながら為景の道義に外れた行いがあったにも関わらず、此度我が長尾を頼られたこと、我が家の名誉にございます」  この景虎の言葉に顔を綻ばせた憲政、疑いもせずに涙ぐんでいた。 「景虎のその思い、誠に殊勝である。今日、余がこちらへ参ったのは他でもない、小田原の北條の事である」  そう言うと、憲政は三田五郎佐衛門に目配せをする。  五郎佐衛門も心得たもので、持参した漆塗りの箱を憲政の膝下に置いた。 「かの北條家は家祖早雲より一代で東国に現れ、長年に亘って我が領国を奪い続け我が家を穢し続けて来た。憲政はかりそめにも管領の職に付きこの悪逆の徒を成敗しようとしたのだが、家運も尽きてついには氏康に平井の城までも追い落とされるまでになってしもうた」  この時憲政に付いて来た本庄宮内少輔と曽我祐俊の啜り泣きが聞こえて来た。憲政も目に涙をためながら話を続けている。 「そこで恥を忘れて景虎に頼みに参った。最早そなたの父の事は問うまい」  そう言うと膝下に置かれた漆塗りの箱の蓋をすっと取り外し、箱をくるりと回して景虎に向けた。  その箱の中にあったものは向かい雀の紋が描かれた、折り畳まれていた軍旗であった。  「景虎殿」と、先ほどは呼び捨てにしていた景虎に敬称を付けて呼びなおした。 「景虎殿は若年の頃から武勇に優れ、謀才に長けている事は世に隠れも無い事実である。憲政は愚か者ではあるが貴公を養子とし、上杉の家督を譲りたいと思う。今は着の身着のままでやって来てしまった故にこの軍旗しかないが、後ほど関東管領職補佐の綸旨と大織冠鎌足以来の系図、それと御所造りの太刀を与えよう」  この関東管領職補佐の綸旨であるが、先に軽く触れた通り、元々は鎌倉(古河)公方を関東管領といい、現在関東管領と云われている上杉家は関東執事と呼ばれていた。時代が降るにつれ関東管領を鎌倉公方、関東執事を関東管領と云うようになったのである。  この憲政のいきなりの申し出に戸惑った景虎と長尾家家臣団、一瞬だが大広間がざわついた。 「上杉様、いきなりの申し出、恐悦至極にございますがそれでは御子息が納得されませぬのでは?」 「良いのじゃ。我が息が後を継いでも最早力無く、関東を治める事も叶うまい。なれば我ら親子共々景虎殿の厄介となり、共に小田原北條家を成敗させて欲しいのじゃ」  これにより一層大広間がざわめく事になった。 「我が管領の家は先の河越の戦より日に日に衰え、今では全ての所領も失うてしもうた。また武蔵・上野・下野の、我が方に付いていた国人豪族達も、今はその殆どが小田原の北條家に付いておる。最早越後を頼みとする他はない」 「されど」  云い淀む景虎を置いて憲政は続けた。 「景虎殿を上杉家に養子に迎えるからには偏諱も必要であろう。景虎殿の名に我が憲政の政を付け、政虎と名乗られるが良かろう。それを関東管領上杉家の養子となる為の担保となされよ」  憲政が、自分を上杉家の養子とする考えが固い事を知った景虎は、これほど自らを買ってくれていた憲政に対して感激した。  生まれつき感情の起伏が激しい景虎。感激、絶望、怒り等の表現も激しい。  先年までは家臣に幾度も裏切られ家中は纏まらず、信濃に進出してきた武田には調略を受ける等の負の思いしかなく、故に仏門に逃げ込もうとしていた事もその激しい感情の起伏に負う所が大きいだろう。  更に景虎を喜ばせた事は、関東管領上杉家を継ぐと云う事は甲斐の武田、小田原の北條等より家格が上になると云う事を示す。今のままでは越後守護識とはいえ正式に関東に繰り出す事や信濃に侵攻する大義名分が得られない。上杉家の家督を継ぐと云う事は、これにより関東、信濃介入がやりやすくなるのだ。軍事的にもこれ程有難い申し出はなかった。  春日山の大広間のざわめきも一段落したとき、景虎は改めて憲政に平伏した。  この時の景虎が云った言葉として、以下のように関八州古戦録に記載がある。 「身不肖なれど『政虎』、ずいぶんと知恵を巡らし、必ずや関東の敵を退治仕り、管領家の名を上げ奉ります」  これに景虎の手を取らんばかりに感激した憲政に対してもう一言を付け足した。 「しかし上杉の姓を頂くためには鎌倉に有る若宮(鶴岡八幡宮)に於いて、上杉家の家督と関東管領職補佐の綸旨を相続せねばなりますまい。今手を付けている信濃の仕置きを済ませましたら早速に取りかかりましょう」  この景虎の自信に満ちた答えを聞いた憲政は、やはり越後を頼って間違いなかったとの思いで満足した。事実この後上杉氏は幕末まで続いている所を見ると、憲政の最後の目に狂いは無かったようだ。  これより後、景虎は憲政に慰領として三百貫を与え、住まいを春日山城下に建築し後にそこを御館おたてと呼ぶようになるのだが、居所をそこに定めて住まわせる事になった。  そして同じころ、景虎が憲政に語った通り、信濃の仕置きの時期が迫って来た。  甲斐の国から再び武田晴信が現れ、信濃国内の景虎方だった水内郡の葛山城を落とされたのだ。更に高梨政頼の籠る飯山城に迫っていた。  これを聞いた景虎は四月十八日までに出陣し善光寺平に着陣。しかし既に飯山城は陥落し武田の手に落ちていた。  このため景虎は、信濃の各武田の支城を落とし飯山城を取り返すと更に攻勢を強めて行くのだが、一方武田晴信方の援軍として六月十八日、小田原北條家からの援軍である北條綱成が武田側の上田に入った事を受けて景虎は飯山城へ退却。  その後武田方が川中島まで侵攻した八月、上野原に於いて両軍がぶつかり合戦が行われた。  これを上野原合戦と云い、後年第三次川中島合戦と呼ぶようになったようだ。  さて、管領憲政が越後入りし、その越後と甲斐武田が信濃で争っている頃、弘治四年も永禄元年と改元された。  その年の四月、古河公方足利義氏は仮の御所となっていた葛西城から鎌倉鶴岡八幡宮に詣でている。これは内外に古河の公方が義氏に代わったことを知らしめる事の他に、その義氏の守護者は小田原北條家であることを見せつけることを目的ともしていた。  そもそも義氏以外の歴代古河公方は政治情勢もあり、本来鶴岡八幡宮で行うべき公方就任式を挙げていない。  源頼義が京の石清水八幡宮を勧進して始まるこの鶴岡八幡宮、八幡太郎義家が修復した後、源頼朝が現在の位置に遷座させたとされ、源氏の氏神として崇められているこの社で正式に古河公方就任式を上げた義氏は、これで晴れて古河城に移座する権利を手にする事となった。  就任式が終わってから小田原城を訪問する事になったのだが、公方様御座所を城内に建築する為その完成を待ち鎌倉に八月まで留り、その後小田原城に向けて出発。  完成した小田原城では大広間を公方様御宿所に改修しており、豪奢な襖絵や金銀の装飾はもちろんの事、義氏の乗る駕籠やそれに続き歩く従者達の衣装までも贅を尽くした趣向となっていた。  これを以て筆頭家老の松田盛秀を頭に遠山綱景、笠原綱信、清水康英、石巻貞家等が同道して盛大な馳走をおこなっている。  鎌倉の鶴岡八幡宮で行われた関東管領職(鎌倉:古河公方)就任の儀式から小田原城に至るまで、豪奢を極めた足利義氏の一行を見ようと街道に押し寄せた見物客で溢れかえり民衆は一時の平安が訪れたかと錯覚をするほどだった。  そして新古河公方足利義氏が公方宿所とされた小田原城大広間に入ると鎌倉から同道してきた五家老が義氏の前に居並び、束帯の大礼服を着用した義氏に拝礼を行い、氏康主催の宴が催された。  この宴も豪奢な物で山海の珍味を内外から取り寄せ、数日に亘る間続けられている。  始終和やかな雰囲気の中で進んで行った将軍訪問もいよいよ宴が終了となると、筆頭家老の松田盛秀が義氏に馬と太刀を贈呈、其々の者が義氏に対し挨拶を済ませるまで三刻以上の時が過ぎていた。  ようやく解放された義氏、寝所に引き取るとその疲れから丸二日寝込んでいたとか。  早朝、宿直とのいの小姓に朝を告げられた義氏。すぐに眼は覚めたのだが丸二日寝込んだ後の頭の冴え具合は最悪で、未だに酒に酔っているのかと勘違い出来る程見るものが歪んで見えた。  そのため寝具から中々抜け出せなかったのだが、それも当然と言えば当然。  酒宴では乱れない程度に酒を口にしていたが、幾日にも亘った宴である。体に負担が掛らぬ筈はない。  重い瞼を無理やり開き、やっとの思いで上体を起こす事ができた。 「水を、水を」  義氏がそれだけ言うと、宿直の小姓は良く聞き取れなかったらしく襖越しに聞き返してきた。 「水を持ってきてたもれ、頭が痛うてかなわん」  小姓は了解したようで襖越しに足音が遠ざかっていった。すると又すぐに足音が寄って来た。  ずいぶんと早く水を持って来れたものだと感心していると、襖越しに聞こえた声は別な義氏付きの小姓の声だった。 「御屋形様が今朝、重要な話がある故御座所まで参られるとの事でございます。どうぞお支度をされて御座所までお出で下さいますよう」  これに義氏は目覚めの気分の悪さが吹き飛んでしまった。  自らを望んでも就く事が出来ない筈の公方の地位に付けてくれた、義氏に取っては英雄とも恩人とも言える叔父がやって来るのだ。 「なんと叔父上様がこちらまで参られるか。ならばこの様な寝起きの情けなき姿は見せられぬ、急ぎ替えの衣装の用意を」  襖を開けた義氏付きの小姓に急ぎ衣服の用意をさせると、慌てながら小姓に手伝わせて用意された水干に着替え始めた。 「急げ急げ、叔父上が参られてしまうぞ」  そう言う義氏はどこか嬉しげである。  本来であれば兄藤氏が継ぐべき古河公方の地位を自らが継げた事に改めて興奮している。  もちろん義氏に氏康の関東計略は見えていない。単純に叔父の力添えで公方の地位を得て喜んでいるに過ぎなかった。  そしてようやく着替えが終わった頃、意外な客が訪ねて来た。 「お母君、芳春院様がお出でになられました」 取り次いだ小姓が来客を告げたのだが、叔父氏康ではなく母芳春院がやってきたようだ。 「母上が参られたと?」  この芳春院は義氏が梅千代王丸と云った当時、共に小田原に庇護されていたのだが、その後梅千代王丸の葛西城移座には付いて行かずに小田原に残っていた。  そして今年の鶴岡八幡宮での公方就任を小田原で見守っていたのだが、その就任式も終わった後に義氏が小田原を訪れると聞き、急遽義氏の元に訪問して来たのである。  小姓との少ないやり取りの間に、既に侍女を数人引き連れてやってきた芳春院が目の前に現れ、すっとその場に膝を付いた。 「母上様、これはようこそ御渡りなされました」  再び慌てた様子の義氏の言葉を受け、薄く微笑みながら襖の開けられた寝所濡れ縁に座り、義氏に対して首を垂れていた。  年齢を重ねても芳春院の美しさは色が褪せないようだ。若き頃は唐の楊貴妃か漢の李夫人かとも噂されていたが、古河公方御台所となってからは更に香り立つほどの気品を身に付け、今は年齢を重ねた女性のみが醸し出せる妖艶と云った雰囲気が見る者を惹きこむ様だ。 「公方様にはご機嫌麗しゅう存じまする。また関東管領職の御就任、まことにおめでとう存じまする。御挨拶が遅れましたる事、平にご容赦下されませ」  義氏は母の近くまで歩み寄り、「母上様、何をかように他人行儀な事をされまする、ささ、どうぞ中にお入り下さりませ」そう言って芳春院の手を取った。 「これ、何をしておる、この寝所の襖を全て取り払い座敷を明るくせよ」  幾人かの小姓が手慣れた手つきで足早に襖を取り外すと、朝の日差しが座敷に差し込んできた。真夏の日差しなので既に暑いくらいの熱量を持っている。  愈々夏がやって来ることを肌で感じる事ができる早朝の日差しだった。  さて、小姓によって綺麗に片づけられた寝所に母を招き入れ、親子相対して座敷中央に座った。 「母上、今朝はこの義氏に如何様な御用がお有りでこちらまで参られたのですか」 「この度の、そなたの公方様御就任のお祝いにと思い参りました」 「これは有難き幸せにございまする。本来ならばこの義氏から御挨拶に伺うべき所ですのに」  芳春院は口に手の甲をあてて静かに笑った。 「梅千代王丸、もはやあなたは古河の公方様なのですよ。母親の元とは言え軽々しく訪ねてはなりません」  そう言うと再び薄く微笑んだ。 「梅千代王丸、立派になられましたね。これが晴氏様からのご移譲であれば尚のこと良かったものを」  薄い微笑みのまま、芳春院は涙をひとつ零した。 「母上様」 「これも武家の定めなのでしょう。そなたの父上も関東武士団の棟梁として、自らの思う道を歩んで行かれた事への因果応報。晴氏様にいまだご運がお有りならば再び世に出る事も……」  そこまで言うと袖口で顔を隠し、しばしの沈黙が流れた。  そしてふと袖口を降ろした芳春院は既に涙を払っていた。 「公方様、これより小田原の御屋形様と御対面なさるのではありませぬか」  これに急に思い出した義氏、そうであったと慌てだした。 「公方様、そのように慌てずともよろしゅうございます。この母も共に呼ばれております故に」 「左様でございましたか。して、叔父上は母上の元には何と申されたのです」 「いえ、それは行ってみねばわかりませぬ。なれば御屋形様をお待たせする訳にも参りませぬ故、早速参りましょう」  芳春院がつと立ち上がり、小袖こそでに単ひとえ、小袿こうちきの裾をさらりと払って振り向き、先に御座所に向かって行った。その後を幾人かの小姓を従えた水干姿の義氏が続いた。  そして二人が御座所に到着した時には、大紋直垂に侍烏帽子を着用した氏康が先に到着していた。 「これは御屋形様、遅れてしまい申し訳もござりませぬ」  少々速足になった芳春院、御座所に座る氏康の下座に着座すると、すぐに義氏もやって来た。 「あ、これは叔父上様、遅うなってしまい申し訳もございませぬ」  この母子の言葉を聞いて氏康は微笑んだ。 「流石は親子でござるな。謝る言葉が同じでござったわ」  更にはははと声を上げて笑った。これは氏康より遅れて来た新古河公方が謝った事を直接受けてしまうと、対外的に自らの傀儡とみられる事を恐れたからでもある。  この二人に侍る侍女や小姓達の口からこの事が外に漏れればどの様に尾ひれが付くか分かったものではない。  そして氏康自ら立ち上がり、義氏の手を取って上座の厚畳の上に案内すると、「それでは改めまして」と自らの座に戻った氏康、義氏に平伏し、挨拶をはじめた。 「公方様に於かれましてはご機嫌麗しく執着に存じ上げ奉ります。また今朝、この御座所にお呼びたて致しましたる事、平にご容赦願いたく」  すっと半身を起こした氏康、優しげな顔を義氏に向けた。 「まずお呼びたて致しましたる用件にございまするが、今後の義氏様の御座所の件にございます」 「叔父上様、儂はこの小田原に座を移すのか?」  義氏は小田原に残りたかったのだろうか、満面の笑みを以て氏康に問い返した。 「はははは、さに非ず。古河の公方様が古河の御所を離れられては関東の豪族達が困りましょう。よって今まで仮の御所としていた葛西の城を出られたあとは、古河の御所に。と思っておりました」 「なれば儂は古河に戻れるのか」 「それがそうも行かなくなり申した」 「どういう事にございましょうや」  晴れて古河公方に就任したのに小田原にも古河にも行かず、今まで仮御所としていた葛西城にも行かず、どこに行けと言いだされるのか。 「古河にも小田原にもおられなくなったのでございますか」  少々不安になった。 「公方様には関宿の城に移座して頂きまする」 「関宿とな」 「如何にも」 「しかしそこは梁田中務の持ち城ではありませぬか?」 「左様にございます。しかし梁田には関宿から古河の城に移って貰いまする」 「城の交換にございまするか。しかし何故」 「新しき公方様にはそれに相応しき繁盛の城と城下が必要にございます。関宿の地は各地から船があつまり物や人の集散これ多く、関宿の地のみで一国に値する程の値打ちがあろうかと。更に川を下れば江戸の内海に出られ、北に上れば公方様御昵懇の小山、結城の城にも至れまする」 「左様でございまするか。ならばその通りに致しましょう」  義氏は生まれついての貴族故か、自らの領地一円を左程詳しく知る事は無かった。  そもそもが足利晴氏、梁田晴助・高助、両上杉氏等による対立で古河近辺に在住した年数も少ない事も影響している。よって疑う事もしないために氏康にとってみれば扱いやすい甥であったろう。 「公方様がご納得頂ければ、今より関宿の中務に公方様御内書を遣わして城の交換による明け渡しを伝えまする」 「なるほど、では叔父上、よしなに頼みまする」  この甥と叔父の会話が終わった頃を見計らい、芳春院が「御屋形様」と声をかけて来た。 「どうされた?」  俯き加減の芳春院、沈んだ眼差しを向けた事で氏康には何を思うのか理解できた。 「晴氏様の事にこざるな」 「左様でございまする。新公方様の関宿入りに従って栗橋城から移させてはもらえませぬか」  沈む眼差しが夫を思う妻の悲しみを想像させる。  芳春院と晴氏の間には足利家と北條家の家と家の橋渡し以外の豊かな感情が流れていたのだろう。夫が二度も幽閉され、会う事が叶わない年月が更に相手を愛おしむ事に繋がったようだ。  何事も無ければ氏康もその心に答えてやりたいのだが、相手は幾度となく北條家に敵対し、身内となってからも河越での蜂起、直近では二回に亘る古河城での蜂起があった為にこれを野放しにする事は出来なくなっていた。 「儂が今日呼んだのも晴氏様が今後の事を伝える為なのじゃが」  そこまで言うと、伏せがちだった目をすっと芳春院に向けた。 「晴氏様を思う心に答えてやりたいのは山々ではあるが、時勢がそれを許し申さぬ。堪えられませい」  この氏康の言葉から二年後の永禄三年七月二七日、第四代古河公方足利晴氏は、失意のうちに幽閉先の栗橋城で没する事になる。  法名を永仙院殿系山道統と号し、宗英寺(現千葉県野田市)に葬られた。  また芳春院の夫を思う心は晴氏が没するまで変わる事がなかった。その夫を思う女心の現れであろうか、芳春院は菩提を弔う意味も込めて六首の和歌を詠んだとのことである。  相州兵乱記巻第四に、『公方御他界之事御台所御歌之事』に記載があるので抜粋してみよう。  なき跡を なげくばかりの なみだ川   ながれの末は ながき滝瀬たきつせ  むつまじく むすぶ契の むつごとも   むなしき空に むらさきの雲  あわれさの あとに残りて あぢきなや   あけぼの照らす ありあけの月  みつしほに み法のりの舟の み馴れざお   み陀の誓ひと 身はなりにけり  たれもみな たのみをかけよ た念なく   た力の心 ただ仏なる  ふたつなく ふ捨の請願 ふしぎやな   ふかき願ひぞ ふ退とはなる  良く詠んでみると、この六首の各句の最初に仏の六字を織り込んでいる事がわかる。  曰く、なむあみたふ。  愛しい夫が穢土を離れて行ったからには浄土に咲くと言われる蓮の台うてなに生まれ変わって欲しいとの願いが込められているのだろう。  戦国当時の殺伐とした世の中にあって、死んだ夫の後生をも願わずにはいられない男女間の思いが伝わって来る珍しい資料でもある。  この義氏との会談を終えると、氏康は即座に関宿の梁田晴助に古河公方補佐役、関東管領として御内書を送りつけた。  一方、関宿の晴助が前古河公方晴氏の挙兵を知ったのは、憲政を越後に送り届けてからすぐの事であった。  余りに拙速な公方の挙兵に焦りを覚えた晴助は、急ぎ越後から帰国するのだが帰る途中至る所で晴氏様挙兵との噂を耳にした。  内心晴氏の挙兵が何かの間違いであってほしいと願っていた晴助だったが、その思いも虚しく古河の城下に入った所でそれが事実だった事が確認できた。  古河の城には既に北條家の松田尾張守が入っており、当の晴氏は栗橋城に幽閉されていたのだ。  また古河の城のみならず古河の城下にまで北條兵が出張り、戦火を被った町の治安をまもっていた。 「晴氏様も今少し辛抱してくれておれば」  古河の城下から関宿城に戻った晴助、屋敷の内でそう口走っていた。  しかし過ぎてしまった事は最早変えられない。これからは最善の策を以て当たらねばならぬと決意したが、氏康の動きは素早く晴氏幽閉後瞬く間に葛西城にいた義氏を元服させていた。  これは自分の甥にあたる藤氏擁立の可能性が極めて低くなった事を物語る。そして今月、義氏の公方就任の行列が小田原に下った事も知らされた。  最早古河公方の家宰がこの関宿梁田家ではないと内外に知らされたようなものである。氏康は直接口に出したと云う記録は無いが、質実共に古河公方を補佐する関東管領となっていたのだ。  この小田原の動向を鬱々としながら注視していた晴助の元に先の義氏御内緒が届けられたのは八月初旬、同時に梁田氏が影響力を持つ上下総、常陸の諸豪族にも知らせがもたらされた。  これは梁田勢力の解体と北條氏への取り込みが始まった事を意味する。  知らせを受けた梁田配下の豪族達が三々五々関宿に集まって来たのは八月も半ばを過ぎた頃であった。 「中務殿、北條殿からの書状が我らの所に届いたが、中務殿はこれを呑まれるのか?」  そう口火を切ったのは下総結城城主、結城政勝である。小山高朝の子で政勝の養子となった晴朝も同席していた。 「左様、この北條殿の申し出を奉公衆筆頭の中務殿が呑まれた場合、個々には力の弱い我ら奉公衆もそれに従わねばならなくなると云う事。戦の要、関宿の地を明渡すおつもりか」  これは祇園城城主の小山高朝である。この高朝、元は結城政朝の子で政勝の兄弟だ。 「しかし北條の力は侮れぬ程に大きくなっておる。北條の力を削ぐには越後の長尾を頼り、藤氏殿を擁立する手もあるか」  逆井さかさい城主の逆井常繁は反北條の姿勢を採るのであろう、藤氏擁立を唱えている。この逆井常繁も三代前の小山常宗が逆井入りしてから逆井氏を名乗っていた。  古河公方の奉公衆や御家人と呼ばれている豪族達は濃い薄いの違いはあれど、ほぼ血縁があったと言って良い。 「そうじゃな、越後の長尾を頼れば或いは北條を駆逐できるかもしれぬ」  小山高朝は常繁の言葉に同調した。高朝も反北條なのである。 「しかし越後は遠国、そう易々と関東入りは出来ますまい」  結城政勝は地勢を考えての北條寄りでもあった。これには小山高朝の子、秀綱も同調した。 「正に。父上のお考えも尤もと思いまするが、やはり越後は遠国、当てにはできますまい」 「我が方は臼井殿(現千葉県佐倉市)と共に里見と干戈を交えねばならぬ。ここは北條殿に付かねば前後に敵を受ける事になってしまう」  そう言うのは守谷城主、相馬治胤であった。  その他にも小田氏、岡見氏、諏訪氏、野田氏、金田氏、広田氏等の公方家臣団とも言える人数が喧々諤々の論争を始めており、収拾がつかなくなり始めていた。 「中務殿、中務殿は如何お考えかお聞かせ願おう」  一際大声で晴助に問うたのは小山高朝であった。  この声に古河足利家臣団は水をうった様に静まり返り、そこに居る全てが晴助を注視した。  居並ぶ公方直臣達の視線を集めた晴助。ここで苦渋の決断を下す事になる。 「儂は」  一言云って間を開けた。それを決断して良いのかどうか、自らの最終判断を腹の中でしていたのだろう。  幾許かの時が過ぎた。 「まずはこの御内緒の通り、関宿の地を離れようと思う」  この答えで一座はざわついた。 「本心で言っておられるのか」  そう叫ぶように言ったのは小山高朝だ。 「まずは本心。儂は古河に移る。皆も暫しの辛抱じゃ」 「何もせずに北條へ膝を屈するか」 「高朝殿、儂は先年管領憲政殿と越後へ行っておる。景虎殿の人となりは見て来たつもりじゃ」 「景虎殿?景虎殿がどうされた」 「儂に今暫し時をくれ。越後への働きかけをして景虎出馬を促してみよう。我ら古河公方を中心とした世に戻す為にここは辛抱が肝要」 「まずは北條に従うと見せてその実、越後の長尾に頼ろうと言われるのだな」 「いかにも」  意を決したように晴助は力強く頷いて見せた。  それを見た小山高朝は次席の家老という立場を以てこの会合の終了を宣言した。 「我ら公方奉公衆は中務殿の策に乗り、暫しの間忍辱波羅蜜の行を積もう。その間兵馬を養い来る合戦に備えようぞ」  この忍辱波羅蜜にんにくはらみつとは辱められた辛さを耐え忍ぶと云う意味である。  公方奉公衆達の腹の中では小田原北條家に古くからの伝統を毀され、己が都合の良き様に振舞われていると感じていたのだ。  これをもって各々自領に引き返して行ったが、この奉公衆達は一枚岩ではなかった事が後々判明してくる。  そして八月後半に入ると小田原から足利義氏が関宿城に入り、関宿の城主だった梁田晴助は古河城に移る事になった。  この古河公方関宿入りのとき、公方奉公衆は其々の思惑の中何食わぬ顔で義氏に参賀拝礼し忠誠を誓っており、これで表向きは公方周りがようやく落ち着いたように見えた。  そして年が明けて永禄二年に入ると氏康は、武蔵の有力豪族大石定久の娘である比佐姫を、今年弱冠(二十歳)を迎えた三男に嫁がせ、大石の家に養子として入れた。  大石定久の養子になった三男は、大石源三氏照と名乗る事になる。  この年に小田原北條家の両翼が武蔵の国で成立する事になった。武蔵滝の城の大石源三氏照と、武蔵鉢形城の藤田乙千代丸(新太郎氏邦)である。  北條家にとっては関東進出への足固めが大分進んできており、最早関東は氏康による仕置きが確実視され始めた頃。  この永禄二年は年明けから天候不順が続き、正月からの雪、春に入ってからの長雨で作付が上手く行かなかった。  正月から天候不順が続いていた関東地方は、また夏場にはいると嵐が頻繁に寄せて彼方此方の小河川が氾濫し水没する田畑が続出。嵐が過ぎ去っても空から厚い雲が流れ去る事はなく、低い気温が秋の刈入れ時期まで通して続いた。  米の穂に実が入る事は無く立ち腐れ、畑の青物は全て小さく貧相な出来栄えである。  大きく田畑を持っている百姓や武家はまだ蓄えが出来ているから良いものの、小作の百姓等はその日に食うものすら無くなりはじめる始末。  これにより古今稀に見る大飢饉が発生する年となってしまった。  豆相武の領地では食うや食わずの百姓達で溢れ、豪農や商家の米蔵から米穀を借りていた者達はそれを返す術が無くなった。また小さいながらも自らの耕作地を持っていた百姓は、まだ米穀に余裕のある他の地主に頼みこみ、田畑を担保として貰い受けて来た米穀で糊口を凌げるが、大多数の小作に至っては飢える以外にない。  これを受けた北條家は当座の凌ぎとして城の蔵米を持ち出し、粥を炊き出して飢えている村々で施しをし、さらには隣国の甲斐、駿河で米の買い付けを行い、それも領国の各農村に流していたのだが、それでも焼け石に水であった。  このまま放置すれば田畑を捨てて百姓が余所へ流れて行き、国土が荒廃するのは目に見えている。 「儂は隠居しようと思う」  そう氏康が家臣の居並ぶ広間で宣言したのは永禄二年も秋になり、通年なら収穫を祝う祭りが彼方此方で催される時期なのだが、しかし今年はその秋祭りが催される集落は何処にも見えず、若いものは他国へ足軽稼ぎに出向き、年老いたものは山に入り込み食えるものを只管探す毎日を送っている。余りにも貧困が酷い家では幼子を間引いたり、女童を人買いに売って糊口を凌ぐと云った末期的な状況も現れはじめた。  空には年初めからずっとかかっている厚い雲が垂れこめ、通年であれば残暑に汗の一つも流す時期であるのに妙に肌寒い。冬の足音が聞こえてくるかのような季節になっていた。 「儂が氏政に代替わりする事によって徳政を敷き、救済を行う心算である」  氏康の宣言を聞いた家臣達は其々の領地から上がって来る貧窮の声を聞いていた手前、徳政令の是非は問わなかった。  ただしこの徳政令、もろ刃の剣なのだ。  借り受けた側であれば棒引きになるのだからこれ程有難い事はないが、貸し付けた側から見れば自らの所領財産である、貸し付けた分と担保の分両方が無くなってしまうのである。  しかもこの頃の武士団は百姓との区別が無いため、力のある有力武士団の棟梁達が貸し付けた側に回っている。つまり損をする。  古くからの北條家臣であれば長年の伝統として呑みこむ事もできたのであろうが、新しく北條家に取り込まれた関東の公方奉公衆、諸豪族達にとっては迷惑この上ないものであった事は言うに難く無い。  北條家に取ってはこの飢饉、非常に時期が悪いものになった。 「皆々、これよりは氏政を北條家の当主と煽ぎ、益々の忠誠を期待する」  平伏する家臣達を見ながら氏康はしかし、と続け、「儂は隠居するが一の曲輪に留まり氏政の後見となる」そう言うと一同を見まわした。 「儂もここにおるでの、皆々宜しゅう頼むぞ」  一同は声を上げて平伏した。これより小田原北條家は表向き北條氏政が家督を継ぎ、氏康が隠居し後見役となった。  合わせて代替わりの徳政令を発布し、領内全てに広め貧窮している領民たちを救ったのは言うまでもない。  しかし、やはり最近靡いて来た豪族達は、内向きではあったが其々不満が蔓延しはじめたようである。  北條四代目、氏政の戦国への船出は初めから過酷なものになろうとしていた。  そして永禄三年、前年の飢饉がいまだ後を引いてはいたが、天候も回復しており五月には田に稲が青々と靡いていた。どうやら今年は飢饉を回避出来そうなほどに稲が育っているようだ。周辺の百姓達の表情からも険しさが取れ、村々の雰囲気も明るいものとなり始めている。 「今年は作付が上手くいったようじゃの」  正午を回った小田原城では一の曲輪御殿表に松田盛秀が作付の報告にやって来ていた。 「はい、昨年は天候不順が続き稲も実が入らずに大変なこととなっておりましたが、今年は天候も回復して元気よく育っておる様子。これで今年は飢える者がいなくなるでしょう」 「それは重畳。百姓あっての国造りじゃ。今年は豊作を願いたいものじゃな」  そこへ小姓が茶のようなものを運んで来た。小ぶりの碗に薄黄緑色の湯が入っている。  何を持ってきたのかとしげしげと眺める盛秀に小姓が気が付いたようで、その運んで来たものを二人の膝前に置くと、煎茶にございます。と気を利かせてその物の名を教えてくれた。  小姓が首を軽く下げて二人の前から下がって行くのを見計らうと、盛秀が氏康に質問してきた。 「御屋形様、これが茶、でござるか?」 「うむ、近頃明の国で持て囃されておる茶との事で、今川家から届けられたものじゃ」 「随分とモノが違うように見えまするが、これに作法は?」 「儂も知らん。そのまま先ずは飲んでみよ」  恐る恐る口を付けてみた盛秀、抹茶のように泡立てずにお湯で淹れる煎茶を直接吸い込んでしまった。  瞬間声にならぬ声を上げ、赤くなった口を押さえて零れた茶を懐紙で拭き始めた。 「これはとんだ無作法を致しました」  そう言うと、口だけではなく顔も赤くなりはじめていた。 「良い良い、初めての事じゃ。致し方なかろう。その方を見るに、どうやらこれは白湯を呑むのと同じくせねばならんのだな」  そう言ってずずずと音を立てて煎茶を含んだ氏康。 「これは甘きものであるな、香りも良い。義元殿は良いものを届けてくれた」  改めて煎茶を啜った盛秀、赤くした唇のまま、旨いと一言。これが中々滑稽であり氏康はひとしきり笑っていた。  盛秀は唇も落ち着いたのであろう、咳払いの後に越後の景虎が事にござるが、と語りだした。 「弥生三月に越中の神保長職に攻められた椎名康胤を助ける為に出陣しておったようですが、景虎はこの神保長職の居城富山城を攻め落としたあと、逃げ込んだ増山の城も攻め落として長職を越中から追い払ったそうにございます」 「ふむ、景虎め、儀の戦と申して各地で戦火を交えている様じゃが、些か迷惑な御仁じゃな」 「まことに。どうやらこの景虎殿、嘘か真か自らの領地を広げる料簡は無いと左右に言っておるとか」 「それはどうであろうのぅ、武田との信濃合戦(川中島合戦)では雪に閉じ込められるまでは自らの配下が信濃に籠っておるのも事実」 「左様にございます。しかし昨年二度目の上洛の折、正親町の帝や室町将軍義輝公に拝謁して関東管領上杉家の相続を許されたらしく、今の振舞は管領として隣国の静謐を招くための戦とか申しておるようにございます」 「ふむ、それが本当であれば大層欲の少なき御仁じゃのぅ」  氏康は少々呆れたような口調であった。 「しかし、これからが問題にございます。その景虎、関東管領職補佐の綸旨と上杉家の相続を鎌倉の若宮(鶴岡八幡宮)で催さねば正当な後継者ではないと申しておるとか。また事実沼田攻めの準備をしておるとの噂、聞き及んでおりまする」 「左様であるか。この飢饉の直後に攻められては分が悪い。また関東の諸将も飢饉の煽りを受けておる故籠城するのも困難であろう」  暫し目を瞑り腕を組んだ氏康、「離反は已むを得ずであるな」と関東の情勢を割り出した。 「離反でござるか。ありえぬとは言い切れませぬ」  ここで盛秀は、少々冷えて来た煎茶を啜って喉を潤した。 「して、長尾が越後を出でて沼田にやって来たときは沼田に兵を差し向けまするか」 「昨年は関東のみならず、越後方面でも飢饉の影響は出ておろう。ならば景虎も長陣を持ち堪えることは出来ぬ筈」 「ならば、まず手始めに二・三日、沼田におる兵で食い止め、ある程度打撃を与えたら各城に退くが得策でございましょうか」 「うむ、そうしよう。しかし面倒な御仁である事よ」  そう言うと氏康と盛秀は残った煎茶を飲み干した。  氏康と盛秀が小田原の城で越後対策を練っていた正にそのときのことである。駿府から尾張に侵攻して行った今川義元が、田楽狭間にて斯波氏の陪臣の倅、織田三郎信長とか言うものに討ち取られるといった大事件が発生していた。  今川義元享年四十二歳、駿府の太守は早すぎる死を迎えていた。  軍師であった太原崇孚が三国同盟を結んだ翌年の弘治元年に没し、またこの年義元が没した。  この東海地方の力の均衡が崩れた今、世の移り変わりが加速して行くことになる。
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!

66人が本棚に入れています
本棚に追加