景虎越山(二)

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景虎越山(二)

 小田原に駿府からの急使が届いたのは五月の末の事。  早馬に乗った急使が小田原城の追手門を潜ったとき、氏康は数人の従者を伴って日課になっている城下の農地を見回りに出掛けていたところだった。  昨年とは見違える程の青々とした稲の育ちを見て歩き、百姓達からの様々な訴えや情報を聞いて回る。これが領地を支配する為の中々の情報源となっているのだ。  どこそこには見た事もない怪しげな連中が巣食った、何村のなにがしの田は何故か毎年実りが良いなどである。また北條家の決めた年貢以上をかけられた場合は直接訴え出る事も氏康が許可していた。  先の情報なら警察権で治安を維持し、後の情報ならその耕作方法を尋ねに行き各村に口伝で伝える事ができる。年貢に至っては決められた以上の年貢を搾取した地頭を処罰することもある。意外と身近な所から北條家の政治は行われていた。  今日もそのような見周りをしながら稲の育ち具合に安堵している所であった。  そんなとき、遠方から土埃を上げて走り寄って来る馬上の人影が一人。しかもまだ声も届かぬ遠方から、何やらしきりに叫んでいるようだ。  氏康と松田盛秀、北條綱高の三人と従者三人はこの闖入者に気が付き足を止めた。 「あやつは何者であろう?」 「さて、何やら叫んでいるようじゃが」  段々に近づいて来ると、それが今年二十五歳になる北條綱成の倅、康成(氏繁)である事がわかった。 「あぁ、あれは常陸介ではないか」 「どうしたのだ常陸介!」  綱高が武者声で叫ぶと、まだ氏康一行までには距離があるが駆け寄って来た康成の大声もようやく届いた。  どちらも良く通る声は戦場では余程都合が良さそうだ。 「御屋形様、駿府からの早馬が城に到着致しましたぞ!」  駿府から早馬とは何事であろうかと、三人は馬上で顔を見合わせた。  やっと馬を並べる事ができた康成が手綱を引き、どうどうと言いながら興奮冷めやらぬ馬の平首を叩いて鎮めた後、汗と土埃で汚れた顔をそのままに並々為らぬ一大事を吐いた。 「駿府の義元公、尾張攻めの最中田楽狭間なる所で討ち死になされたそうにござる」 「義元公が討ち死に!?」  一言叫んだ松田盛秀、氏康の顔を見た。  これには嫌な予感がしたのか眉間に皺を寄せた氏康、「皆、急ぎ城に帰るぞ、この知らせが流れれば北で動きが出るは必定。急ぎ立ち帰る故すぐに評定衆を集めよ」そう一息に言い放つと主従はそこから馬首を巡らして一目散に馬を走らせた。  乾いた田の畔道を、土埃を舞い上げながら走り抜ける主従四騎。城からは左程離れていないところにいたため、程なく追手前の馬出し曲輪脇に到着し、鏑木門を潜った。  城に戻ると各曲輪の掘立の寝小屋や武者溜まりの小屋にいる足軽達まで義元討ち死にの噂話をしている。小田原の城ではこの事変の話題でもちきりになっているようだ。  氏康一行が曲輪に入ると其々が会話を止めて会釈して行くが、どの顔にも不安が浮かび上がっている。  三国同盟の一角が崩れたのだからこれから小田原を取り囲む世がどう変わるのか。其々が行く先の不確かさに不安を持ち始めていた。  城内に入って馬を下りた一行が手綱を引きながら厩までやって来ると、厩番の雑色が馬を預かりにやって来た。 「それがしは急ぎ評定衆を集めまする。では御免」  真っ先に馬の手綱を厩番に渡した松田盛秀が侍所まで走り、そこに詰めていた倅憲秀を見つけ二人手分けして評定衆を呼びに走って行く。 「ではそれがしも急ぎ人数を呼び集めて参ります」  綱高も手綱を厩番に渡してそのまま走り去って行った。  このとき、城の鏑木門を一人の使い番が馬蹄も轟に馬を走らせて駆け抜けて来た。  何事かと振り返った氏康が見ていると、門番の足軽に用件を聞かれているのであろう、大声で何かを叫んでいる。  その門番の表情が一気に変わった所をみると余程の大事だったのか。使い番と共に数人の城兵が、ついさっき城に入ったばかりの氏康の元まで走り寄って来た。 「御屋形様、小弓の有吉城からの早馬にございまする」  足軽が片膝付いて氏康に報告すると、その使い番も片膝をついて小弓危急の大事を吐いた。 「昨日、安房の里見が房総の国人共を引き連れて有吉城を取り囲みましてございまする。しかし城には兵が少なく、里見勢に愈々押され落城寸前。どうか援軍を速やかに差し下されますよう言上仕ります」  義元討ち死にと同年、下総は小弓(生実)領の有吉城(千葉県緑区有吉町か)に里見義堯が寄せて来た。  ここは第一次国府台合戦の折、小弓公方義明を敗死させた氏綱が小弓城を接収した後、急ぎ里見に対する抑えとして築城していた城である。  天文二十三年から翌年にかけてその有吉城から出陣した北條綱成率いる二万の兵が久留里城を攻めた事があったが、里見義堯・義弘親子に撃退された合戦なども行っている。  このために今年に至るまで不穏な動きをしている里見に対して、北條綱成を城将として詰めさせ近隣の臼井城や小弓城を持つ千葉胤富と連携して里見勢を監視していたのだが、愈々今年、勢力を盛り返した里見勢が久留里城を出陣、有吉城が囲まれる事態となった。  これを迎え撃つ綱成だったが、城兵を武蔵方面に送っていた為に城を守る兵が少なく、城外に打って出る事が儘ならなかった。  防戦一方の城方を、人数を頼む里見勢は力攻めに押して来る。  堀と土塁の間で敵味方が鬩ぎ合い、各曲輪で矢戦が果てしなく続いていた。城方は辛うじて堪えていたがそう幾日もは持たないだろう。 「急ぎ御屋形様に救援の兵を請おう、このままでは城が持たん」  綱成がそう判断を下し、有吉城から小田原へ幾人かの急使を送り出したのだ。その間も里見勢の勢いは止まる事がなく、味方の人数は矢に斃され日に日に押し込められていた。 「里見が寄せて来たと!」  この報告に一言唸った氏康だったが、自らを落ち着かせるように大きく息を吸い込んだ。 「孫九郎程の者でも押さえきれぬとは、里見め、余程人数を揃えて来たとみえる。相分かった。人数を集めただちに下総へ向かおう。孫九郎にそう伝えい」  使者を下総に帰した氏康は、その足で評定の間に向かって行った。  そして評定の間では有吉からの急使の報告を聞いた北條綱高が歯ぎしりしていた。 「上野が面倒な時に」 「今の内に里見を攻め滅ぼして後背の憂いを取り除いてしまう事が最も良い事と思われまする」  遠山綱景はこの期に里見を攻め滅ぼしたいとの意見を持っているようだ。富永はこれに賛同する意見なのか、何度も頷いている。  江戸詰の二人は自城江戸城を近々で窺われている事もあり、里見をこの期に攻め滅ぼす事が最も良いと考えていたようであった。 「しかし越後をどうするか。義元殿が身罷った今、景虎は武田の動きを見ながら虎視眈々とこちらの隙を窺っていよう。里見を攻めておるうちに景虎が越山して来るかもしれぬぞ」  氏康は使者の一報を受けたとき、これに嫌な予感を覚えていたのだ。 「まずは越後勢が山を越えぬ内に、目の前の敵、里見を揉み潰しましょうぞ」  清水康英にそう言われると、確かに長年敵対している里見とこの際けりを付ける事も悪くない。一度は北條家の力を借りて家を保ちながらもそれを裏切った里見義堯である。滅ぼされても文句はあるまい。  暫し悩む様子の氏康だったが、「ともかくも、まずは目前の敵か」そう口を開いた。 「朝倉(朝倉能登守)、伊賀(福島伊賀守勝広:綱成弟)、その方等先陣となって急ぎ兵を引き連れ綱成の籠る有吉城へ向かえ。儂も追って有吉に向かう」  評定の間に響き渡る武者声の返事も高らかに、颯っと評定の間を去って行く二人の将、すぐさま軍旅を整えて馬上の人となり下総に進軍して行った。 「我らも出陣する、皆々ただちに戦の支度をせい」  今川義元討ち死にの為の評定が、急遽安房里見に対しての出陣の評定となっていた。  その評定も終わると、先陣となった朝倉能登守と福島伊賀守を追いかけるように小田原勢二万七千騎が下総に向かって進軍して行く事になる。  この軍勢が鎌倉付近に差しかかった頃なのだが、先陣となっている朝倉能登守と福島伊賀守の軍勢が有吉の城に到着した時、ある事件が起こっている。  里見義堯は北條方の朝倉と福島の兵を房総の国人達の味方の兵と思いこんでしまったのだ。  これが元で近距離まで無防備に接近を許してしまった里見勢、有吉の城を囲んでいた自軍の後背に敵を受けてしまう。  思わぬ敵を受けた為に混乱を始めた里見勢を見た城主綱成は、この期を逃さずに城門を明け放ち、一斉に手勢を以て里見勢に押し出し打ちかかっていった。  里見勢は挟み打ちの不利を嫌って城の囲みを解き上総方面に退却をはじめた。  これに追い打ちをかけた朝倉能登守と福島伊賀守、北條綱成の三隊は遮二無二追いかけ攻め崩し、下総から里見を追い払い無事に有吉城を守り切る事が出来た。  さらにこの時、小田原勢が房総方面に進軍している事を聞いた里見義堯・義弘親子、味方の不利を悟り一気に久留里城まで凡そ五里を退却して行くのだが、北條綱成率いる朝倉能登守と福島伊賀守の兵がそれを追いかけるように久留里城を囲んだ。  このまま久留里城に籠っても、北條の本隊は一揉みに揉み潰そうとやって来るのは目に見えている。しかも地勢は久留里城より南は海なのだ。最早押し込められたも同然になった義堯は、関東諸城も北條方である事を見きり越後の長尾景虎に後詰の援軍を求める為に使者を送る事にした。  一方江戸城に入った小田原勢本隊は、房総侵攻の前に江戸城で休息している。  そんな中、城に入った氏康が厩番に馬を預けて香月亭に歩を進めようとした時、つと脇の掘立の寝小屋から風間出羽守が現れた。  出羽守は氏康を見て軽く会釈をしてから近づき、ぼそぼそとした小声で話しかけて来た。 「越後の長尾が事にござるが」  声量を落とした所を見ると何か良くない知らせを持って来たことを想像させる。 「急ぎお知らせしたき儀がございます」 「どうした?」 「里見の救援を受けて動くようにございます」  氏康の嫌な予感は的中してしまったようだ。  暫し沈黙した後に氏康は返事をした。 「やはりな。出羽よ、ちと香月亭まで付いて参れ」 「畏まりましてございます」  周囲が庭園に囲まれている香月亭、式台をあがり幾つかの座敷脇の廊下を抜けると、欄干の付いた渡り廊下が現れる。それを渡ると中庭の草木、池などがあり、背丈の低い木が綺麗に刈り込まれていて手が込んでいる美しい庭園が見える。古くは太田道灌の時代から使われており、氏綱が接収してからは太田資高が詰めており、氏綱、氏康が江戸城に入ると宿所にしている建物であった。  香月亭は既に蔀戸が開け放たれており障子だけが閉まっている。初夏の日差しで室内が暑くならないようにするためなのだろう。  するすると障子を開けて中に入った出羽守と氏康、二人揃って着座すると早速出羽守が切りだした。 「景虎め、越後に駆けこんだ憲政の意を受けて、沼田攻めの支度をはじめておったようにございましたが、此度の里見の救援を受けると即座に沼田の城に攻め寄せる事を決定したようにございます」 「そうか、ついに来るか」 「はい、遅くとも今月中には攻め寄せて参りましょう」 「今月中か、これは予想以上に早い。わかった、これから随時景虎の動きを知らせてくれ。あわせて景虎が山を越えて来た場合は関東の豪族達が景虎に靡くであろう故、その景虎に付いた勢力、地勢、兵糧米等も調べおくように」 「畏まりましてございます、ならば是より直ちに」  氏康が風間出羽守を使って景虎方の情報収集を指示してから、侍る小姓に里見攻めの将全員を江戸城大広間に集まるよう伝えよとの指示を出した。  この越後勢動くの報は、瞬く間に城中に広まって行った。  諸将が集まりだしたその間も、各曲輪では其処此処に詰める者達が噂話をしている。 「当家はこれから安房を攻めるのじゃろうか」 「わからぬ。越後から長尾が来るのじゃから上野に向かうのが筋じゃろうな」 「しかし駿河では義元様が亡くなられたのじゃろ、三国の同盟は大丈夫なのかのぅ」 「武田は分からんぞ、武田は利に転びやすいとのうわさじゃ」 「いやいや武田の前に上野じゃ。長尾の景虎とか云う御仁は気性が強こわいとか申すぞ」  等々、足軽の端々まで自らを取り巻く急激な環境変化に対応しようとしていた。  さて、里見攻めの諸将が集まった大広間では筆頭家老の松田盛秀が倅の松田憲秀を傍に座らせ、氏康の出座を待っている状態だった。  重臣達が集まり咳しわぶきの声すら上がらない今、小姓が氏康到着を告げた。 「御屋形様のお成りにございます」  廊下に座る小姓が氏康の来着を知らせると、甲冑姿の諸将は一斉に平伏して氏康を迎えた。  廊下から座敷に足を踏み入れた氏康、「皆、楽にせい」そう言い広間奥の丸畳に座ってから早速評定の本題を切り出した。 「既に皆も知っておろうが、愈々越後の長尾が動き出した。我らは里見を滅ぼして後顧の憂いを取り払ってから長尾に当たろうと思っていたのだが、どうもそう上手くは行かぬようだ」 「長尾が出張って参りますか」  松田盛秀が苦虫を噛み潰したような顔で唸った。 「うむ、管領殿が長尾に庇護を求めてからかなりの年月が過ぎたが、我が北條と武田・今川の三国同盟の一角、義元殿が討たれた事を見計らい、里見の救援を受けての出陣であろう」 「しかし越後でも先年の飢饉の煽りは大きかろうに、ここで無理を押して出て来る景虎と云う御仁は何を考えておるのでしょうな」  盛秀と同じように綱高も渋い顔になっている。清水康英も困惑気味であった。 「またぞろ儀の戦とか申しているのではありますまいか」  その康英の言葉に、氏康は景虎の人柄を思い浮かべた。 「両陣兵糧米が少ない事は景虎にも分かっていよう。それでも出て来るとなれば、短期に勝を決しようと臨んでおるのだろう」 「とすると、越後勢は総力で攻めかかって来るとお思いか?」  康成は弟沼田康元が沼田城に詰め居ている為か少々不安げである。 「晴信殿との信濃合戦が落ち着いている所じゃ、上洛して関東管領職を頂戴した今、目指すは関東。越後の総力を挙げてやって参る事は間違いなかろう」 「左様にございますか」  康成の言葉が終わるのを待って盛秀が以前氏康と話していた事を持ちだしてきた。 「やはり先に御屋形様と話し合うたように、この里見攻めの兵を沼田に入れて迎え撃つが宜しいかと」 「うむ、沼田康元(北條氏秀:綱成次男)には緒戦のみ矢合わせし、その後河越城に引き上げるよう伝えよう」  これには康成が不審な顔付きになった。 「沼田の城を明け渡すのでござるか?」 「越後勢も兵糧が少ない。また我が方が刃を交えず鉢形、河越、瀧山、江戸、玉縄の各城に籠れば進退不明瞭な新参の関東の豪族達は越後方に靡く者もおろう」 「しかしそうなれば越後の兵力が河越合戦の比ではござりますまい」  これは清水康秀である。 「そこじゃ。仮に房総、上野下野の軍勢が馳せ参じたとして、昨年の凶作じゃ。越後の田畑が何時まで兵を養えると思う」 「なるほど、関東諸勢力が自前の食い扶持が少ない今、当方を離れれば離れるほど越後方に頼る事になり台所事情が悪くなるのは必定」 「そうか、人数が増えれば増えるほど養い難く、短期決戦を望む越後勢は長く関東に留まることは出来ぬと読まれましたか」  これは康成。納得した顔つきで頷いている。 「まずは堀を深く、塁を高くするよう各城に使者を使わそう」  そして氏康が家臣を下がらせると伝令として各城に人数を送りこんだ。特に沼田城には北條康成を遣わし、城に越後勢が来ても打って出ることは罷りならん、籠城に徹せよ。と含ませて急ぎ走らせた。  これにより急遽里見攻めは中止となり、北條方総力が一時武蔵の松山城に集合する事になった。  また氏康は、越後後方に騒ぎを起こす事も忘れない。  武田には以前下総の国から武田氏を頼って行った原虎胤と云うものがいたのだが、天文二十二年頃に一度甲斐を追放されて北條家に身を寄せていた事が有った。これが善徳寺の会盟の後、甲斐に帰参していた事もあり、そこを通じて越後勢が関東に上って来た故、越後が攻め時である事を伝えている。  これに晴信は好意を示し、危急の時は武田勢を欲しいだけ送るとの返事が返って来た。  しかし越後勢の動きは思いの外速く、氏繁が沼田に着く直前には既に名胡桃城・沼田城に乱入していた。  上野に越後勢が入ったのは永禄三年五月。  沼田城に拠っていた沼田康元は越後勢の先陣である平子孫三郎、本庄繁長と干戈を交えていた。  城に籠る沼田安元も、この寄せ手に二、三度は押し返していたが、同じころ景虎本隊が三国峠を越えて現れ上野に長井坂城を築城。沼田城からの北條勢の退路を断つ事に成功している。  ちょうどこのころ康成の使者が到着し、小田原の伝令を伝えた。  籠城後退去との指示ではあったが兵糧米が殆ど底を付いている事と、退 路を断たれた事により、沼田康元は即座に城を退去することを決定。  沼田城騒動の折に厩橋長野氏から攻められ逃亡していた沼田顕泰、この頃北條氏に降っており沼田城に居たのだが、沼田康元が退去すると城に残った沼田顕泰は長井坂城の景虎本陣に出向き降伏した。  ここに沼田城、名胡桃城は長尾方に落ちた。  一方平井攻めの越後勢は長尾謙忠を先備え、後備えを斎藤下野守朝信、遊軍に直江大和守実綱(景綱)とし、景虎本隊は柿崎和泉守景家、河田対馬守親章ら旗本を加えて八千騎で上野の松井田に到着、そこで安中越中守春綱と合流して平井城へ寄せて行った。  平井の城には幻庵宗哲が籠っていたが、このとき折悪しく城中に疫病が蔓延していた。  少ない兵糧米に更に疫病である。寄せる越後勢に難渋しながらも暫し干戈を交え幾度か追い払った幻庵だったが、城を守る事が難しくなった辺りで小田原からの指示が届いた為、平井の城を破却して小田原勢の本隊が駐屯している松山城に後退。  また上野の各北條方支城は、この沼田城・平井城の陥落と合わせ、昨年の凶作からまだ稲の収穫を迎えていない為に籠城米が少ない事も相まって、次々に長尾方に靡いて行った。  景虎来援を待ちわびた白井長尾家(現群馬県渋川市)や総社長尾家(現群馬県前橋市)などは率先して近隣の北條方支城を攻め始め、厩橋城、那波城、小川城等を次々に攻略すると、景虎はこのうちの厩橋城を関東計略の拠点として入城することとなった。  ここは現在の群馬県前橋市であり、厩橋の城は県庁が立っている。  西に利根川が流れ、その利根川の崖の上に立つ厩橋城。関東七名城の一つに数えられているが、今は県庁周りに江戸期に造られたと思われる土塁があるだけでその殆どは消滅したようだ。  当時この城の城主は長野方業まさなりと云い、長野業正の叔父とも云われている。  長野方業は北條方として越後勢と戦ったのだが衆寡敵せず、城を開いて景虎に降伏した。その時に降伏の使者を遣わすことになったのだが、その使者として選ばれた方業の倅二人、彦九郎と大学の兄弟が景虎の本陣に近づいた時、何故か突然馬が暴れだした。これを見た景虎近従に謀反と看做された二人の倅が誅されると云う事件が起こっている。これを気に病んだ城主方業は三日後に病死。  その後の厩橋城は北条高広が城代となっていた。  景虎が厩橋城を接収して間もなく、城の主殿一角を仮の本陣とした景虎の元に、直江実綱(景綱)が呼ばれた。  祐筆を近くに呼んで何かを書かせている景虎の元に現れた実綱、お呼びでございまするかと片膝をついた。その隣には上杉憲政の姿もあり、憲政は何かの書状に筆を走らせている。  実綱に気づいた憲政が顔を向けたのだが、その表情は実に上機嫌であり漸く氏康に一矢報いる事ができたとの満足感が現れている。余程上野に戻れた事が嬉しかったようだ。 「うむ、そなたの手の者を使って、これより関東諸城に使者を使わしてもらおうと思って呼んだ」 「は、して如何様な使者にございましょう」  これを、と云って景虎は、祐筆がたった今書き終わったであろう手元の書状を手に取り実綱に手渡した。 「読んでみよ」  実綱が書状に目を落とすと、そこには北條方に靡いていた各国人豪族に対して、前管領上杉憲政からの北條に対する断罪と、我が身を祭り上げる景虎の軍勢に参加せよとの文が踊る様に書き連ねてある。また越後勢に従軍しない場合揉み潰して行くと云った激烈な内容が書き込まれており、上杉憲政の署名もされていた。 「成程、面白き書状にございます。しかし、」  そう言った実綱の顔はどこか憂いを含んでいた。  それを機敏に感じ取った景虎は実綱の目をじっと見据えると、その目線に気が付いた実綱がふと眼を伏せた。 「直江、何か思う所があるのか?」  景虎の声は優しげな韻が含まれている。 「いえ、離合集散果てしなく続く関東の情勢は越後にも鳴り響いております故、おそらくこのような書状を以てしても一時的に集まるのみで、関東の憂乱は治まるとは思えませぬ」  実綱は応仁以前から続いた関東の憂乱がこの一枚の書状では治まらぬ。そう考えていた。 「その事か。儂は、まずはこの関東攻めで諸将がどちらに付くか、それを見極めようと思っておる」 「見極めが付きますか?」 「この戦で関東の諸将が越後の味方となれば、今後は自然と管領家に従って来るのが道理であろう。また、この出兵は、下総の梁田中務が要となっておる故、そこにも使いを出す心算でおる」  この関東、既に数十年にも亘る山内・扇谷両上杉と古河公方足利家の止む事の無かった抗争の為に、是に従った地方豪族が離合集散を繰り返し親子兄弟の間でも裏切りが今もって続いているのだ。これが漸く北條家によって落ち着こうとしていた矢先の越後長尾家の出兵である。再び戦乱の渦が発生することは目に見えていた。  景虎の欠点はこの自らが敬う権威と云うものを、他者も敬って然るべきであると考えることであろう。直江は景虎のこの思考を危ういと考えた。 「左様にございまするか、して梁田中務とは以前憲政殿と春日山に来られた御仁ですな」 「そうだ。関東の要、古河の足利家は、北條家によって当代を自らの血に連なる義氏を据えたと聞く。よくよく聞いてみると、本来あるべき家督は梁田中務の従兄弟にあたる藤氏殿との事。儂は始め、越後に下向されている関白近衛前嗣(さきつぐ:前久の旧名)様を古河公方として推戴しようと思っていたが、どうやら古河公方にはその藤氏殿の方が都合が良いようでな」 「藤氏殿を古河の公方に推戴するために梁田に働きかけるのですか」 「うむ、その方が前嗣様を据えるより関東は穏便に事が運ぶであろう」  丁度そのとき祐筆が必要な書状を全て書き終えたようだ。景虎に書状を手渡すと一枚一枚丁寧に眼を通している。暫く後、傍らに置いてあった筆をとって書状の最後に景虎の署名すらすらと書き加え、朱肉をたっぷりと吸わせた印をべたりと押した。 「これとは別に」  景虎が書状の一群の他からもう一枚書状を取り出した。 「古河の梁田へ届けて参れ」  直江は恭しく梁田への書状を含めた一群を受け取るとその場を去って行った。  この書状が一斉に関東の豪族達にばら撒かれると、武蔵岩付城に戻っていた太田資正は逸早く景虎に寝返り、岩付の城が越後勢となっている。
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