小田原乱入

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小田原乱入

 この永禄三年五月の景虎関東入りから俄かに上野・下総・上総・武蔵の四ヶ国の動きが複雑化して行った。  景虎からの書状で即座に動いたのは先の岩付の太田資正だが、それに続き太田金山城の横瀬成繁や、現在武田晴信と干戈を交えている最中ではあるが箕輪城の長野業正等が逸早く靡いている。  さて、梁田晴助の移った古河城では厩橋城からの長尾景虎、いや、景虎は弘治三年に憲政の偏諱を受けて政虎となり、翌年の永禄元年の上洛の折に将軍義輝から輝の一字の編諱を受け輝虎となっている。その後しばらくしてから入道し、不識庵謙信ふしきあんけんしんと号しているので、少々気が早いが今後この物語の中では名前の通りが良い不識庵謙信と呼ぶ事にしよう。  その謙信の使者が書状を携えてやって来た。  取り次ぎの者に書状を渡すと使者は去って行ったようで、古河城の詰め所に居た晴助の元にはその書状だけが届いのだが、これには晴助、内心小躍りして喜んだ。  謙信率いる越後勢は今年五月から上野方面の北條支城を破竹の勢いで攻め落としているのだ。  小姓の手渡す書状を受け取った晴助は期待が大きいためか所作まで一々大きい。 「厩橋の不識庵殿から書状が来たか」  しかしそれも致し方の無いことであろう。晴助が関宿を追われ、古河へ移ってから執った謙信への働きかけが思いもよらぬ激動を伴って漸く実った瞬間なのだ。 「下がってよいぞ」  小姓を下がらせてから、手元の幾つかに折り込まれた書状をさっと広げ眼を落とす晴助。  その書状の中には、古河城に関白近衛前嗣(前久)と前関東管領上杉憲政を入れて、義氏を廃し藤氏を古河公方に擁立したいとの内容が上杉憲政と長尾景虎の連諸で書かれていた。  また関宿城の義氏を攻め、晴助を関宿の城に戻し、更に永禄四年には傘下の関東諸将を引き連れて小田原を攻め落とす心算なので、晴助も配下の公方奉公衆を引き連れ越後勢に参集し、共に北條を関東より追い払って欲しいとの協力要請も書かれていたのだ。  晴助に久しぶりに粘りつく様な笑みが現れた。 「これでよし!」  書状を握り潰すとすぐさま飛びきりの笑顔で隣を振り向いた。が、先ほど小姓を下がらせていた事を忘れていたようだ。我を忘れる程の喜びだったのだろう。  やむを得ず再び小姓を呼びつけ厩橋城の謙信に呼応諾の使者を遣わすと、合わせて下総、北武蔵、常陸の奉公衆へ越後勢と合同の軍を上げる為の軍評定を開く為の古河城参集の急使をも発した。  ついに小田原北條氏への反撃の狼煙が上がったのだ。  これを受けた奉公衆も自らへ発行された謙信書状を携えて古河城へと集まって来た。  古河公方の奉公衆と云われる小山氏、常陸小田氏、逆井氏、諏訪氏、稲宮氏、広田氏、岡見氏、相馬氏等である。  またこれに合わせて足利藤氏を急ぎ古河城に呼び、ここを藤氏の居城と定めると、続々と集まる奉公衆が古河城謁見の間に入り、次の間にはその家臣団が詰めた。関白近衛前嗣と前関東管領上杉憲政に擁護された新古河公方足利藤氏の家臣団がここに出来上がった。  晴助は古河城謁見の間の御簾奥に藤氏を着座させ、自らは藤氏の御簾斜め前の家宰の位置に座ると一度、感慨深げに着座する奉公衆を見渡した。  満足げに一つ頷くと、続けて御簾奥の藤氏に目配せをして言葉の下賜をうながした。これに御簾の陰に居る藤氏も頷いた。 「皆、此の度の参集、頼もしく思うぞ」  晴助がその言葉を受けて奉公衆へ向き直ると、参集していた者達は次の間まで犇めく様にして平伏していた。 「各々方、これまでよくぞ堪えてくれた。此の度、関白近衛前嗣様と関東管領上杉憲政様から藤氏様を古河の公方として擁護するとの書付を頂いた」  遠慮気味の歓声が一同から漏れ聞こえる。 「越後の不識庵謙信殿も上野の厩橋城に入り近隣を併吞し、周辺の国人豪族達も不識庵殿の軍門に下っておるようじゃ」 「おぅ!我が方にも不識庵殿から参集依頼の書状が届いておるぞ!」  勇ましい掛け声が一同の中から上がった。  この声を聞いた晴助も笑顔になりながら一々頷いた。 「また不識庵殿は我らの味方となって新公方藤氏様を推戴し、北條の血に繋がる義氏を廃する事も約してくれておる。また」  そう一呼吸を置き演説を続ける。 「粗方上野、西武蔵の諸城は不識庵殿の軍門に下っておるようじゃ」 「この辺りで不識庵殿の誘いに乗っておらぬのは結城の晴朝くらいのものであろう。あ奴め政勝のやり方を踏襲するつもりであろうか」  小山高朝は、永禄二年に没した結城政勝の養子となりその跡を継いだ晴朝を、出来の悪い我が子として擁護するように呟いた。 「高朝殿、晴朝殿の説得、頼みますぞ」  晴助は、それは些細なことであると言いたげに小山高朝に笑顔で話しかけた。 「それと、これは重要な事であるが、不識庵殿は小田原を攻めると申してくれている」 「おぉそれは何時頃にございましょう」  逆井常繁が籠る逆井城は、義氏の入った関宿城から二里半程の隣接した城なので小田原攻めが始まれば義氏の籠る関宿城攻めの先鋒となるだろう。 「いつになるかは不識庵殿からの知らせを待たねばならぬが、近々とだけ申しておこう」 「不識庵殿は武蔵の深谷城、羽生城も傘下としておるでのぉ、これは又とない機会じゃ」  謙信は北條方に盗られていた武蔵羽生城をつい先日攻めてこれを落とし、北條方城代中条出羽守を追い払って今ここに同席している広田直繁・木戸忠朝兄弟に引き渡していたのだ。  小堤城主諏訪三河守がそう言いながらこの兄弟を見た。 「如何にも、我ら兄弟は最早不識庵殿には足を向けて寝られぬわ」  広田直繁・木戸忠朝兄弟は二人揃って高笑いをすると、それに釣られたのか謁見の間にどっと笑い声が沸いた。  晴助は更に続け、岩付の太田資正殿も越後方となっておると付け加えると、謁見の間方々から、それは頼もしい等の思い思いの声が上がり、反北條勢力が結集してゆく様子に皆酔いしれていた。 「ならば我らは、これより不識庵殿と歩みを合わせて小田原に攻め入る事に致す。異存なくば早々に領地に戻られていつでも不識庵殿の軍勢に参加できるよう戦支度をなされよ」  晴助の号令に一同は応の声を上げていた。  一方藤氏の入った古河城から東へ二里半の関宿城に入っていた公方義氏は、不穏な動きを見せ始めた晴助ら奉公衆に警戒し、籠城の為に城の守りを固めていた。  そして永禄三年十二月、氏康は松山城を上田朝直に預け小田原勢本隊を引き連れて小田原に戻っていたのだが、それに合わせて晴助の不穏な動きが次々に知らされるようになってきた。  また越後勢が上野や西武蔵の北條各支城を攻略して行く間に年を越え永禄四年に入ると、中には主家結城氏が北條方に参加している中で、分家ながら結城家の家老であった山川氏のように越後に靡いた者もいたことは、この時期の関東勢力の離合集散ぶりが如実に表れている一例であろう。  この結城家の騒動に付け込んだ騒ぎも起こっている。  昨年の永禄三年の一月七日、結城氏の家臣だった下妻城主多賀谷政経が、主人結城晴朝が古河公方足利義氏の居城関宿城に礼拝参賀に向かった隙を狙って離反し、上杉に靡いていた小田氏治、佐竹義昭、宇都宮広綱らと謀って結城城に攻め込んだ。  落城寸前だった結城城も義氏の調停を以て危うく難を逃れたが、結城晴朝はこの事が契機となったのか謙信の小田原攻めが始まった永禄四年になってから越後方に寝返っている。  また離反したが和睦によって元の鞘に戻った感のある多賀谷政経は、虎視眈々と主家からの独立色を強めていた。  そして永禄四年二月、謙信は河越城、関宿城などを包囲するために兵を動かし始めたころ、これに合わせて下野では唐沢山城に籠る佐野昌綱と宇都宮城の宇都宮氏が謙信の軍勢に参集、また上野の赤井氏等も参集して行った。 更に常陸では佐竹氏が協力体制を整えている。  武蔵では、一度は越後勢に抵抗したものの城下を焼かれたために降伏した武蔵忍城の成田氏も謙信の軍門に下った。  奉公衆の内では中立を保っていた菖蒲城の金田氏や栗橋城の野田氏も、謙信の圧迫で越後勢に靡くと、義氏の周りは粗全て謙信(藤氏方)勢力といって良い状況になってしまった。  これで反北條・反義氏方が結集し関宿攻めを開始する事になる。  晴助挙兵に驚いた義氏は小田原の氏康に急ぎ救援の使者を発行させると、知らせを受けた氏康は川村修理亮、依田大膳亮、南条山城守の三人に兵三百騎をつけて関宿城に向かわせ、合わせて結城晴朝、長沼佐衛門尉宗信を参陣させた。  このうち結城晴朝と長沼佐衛門尉宗信が関宿城に入り公方義氏の警護にあたったのだが、晴朝の動きを察知した佐竹義重、多賀谷政経、宇都宮広綱、茂木上総介が兵を率いて結城城を攻める動きを見せた。  関宿城に入ったばかりの晴朝ではあったが、自城結城城は関宿と対を為す下総北方の要の城だ。これを敵方に落とされる訳には行かない為、義氏に帰陣願いを出すことにした。 「上様、関宿の地に参ったばかりで後ろ髪を引かれる思いなのでござるが、我が城へと越後の息のかかった常州勢が寄せてくるとの知らせが参りました。よってそれがし、ここは佐衛門尉殿と後詰の小田原のお味方にお任せし、常州勢を結城の城にて引き受けて参りまする」  晴朝の手勢千余人を失うのはかなりの痛手ではあるが、関宿北方の守りでもある結城城を落とされれば最早周りには支城がない。 「左様か、結城へ戻るか」  義氏は不安に泣きそうな表情になっていた。  生まれてから一度として軍勢を率いて戦った事のない貴族である。周り全てが敵方となれば不安が全てを支配してしまうのは致し方ない事であろう。 「しかし晴朝が結城へ戻ってしまうと晴助の軍勢が攻めてくるのではないか?」 「その為の佐衛門尉殿と小田原の後詰にございます。常州勢を討ち平らげる事が済みましたなら、再び関宿に戻って参りまするよ」 「左様か、早くに戻って来るのだぞ。きっと申しつけるぞ」  悲痛な思いで義氏は晴朝退き上げの許可を出した。 「この晴朝、急ぎ常州勢を成敗して参りまする」  颯と身を翻して関宿城の公方御座所を立ち去って行った晴朝だったが、このとき義氏と晴朝の他は全て城外の曲輪や城内の持ち場に付いており、晴朝離脱を知る者が義氏以外に居なかった事がこの直後悲劇を生む事になる。  急ぎ居城結城城に引き返すために晴朝が兵を纏めたとき、あまりにも緊急の出立と行軍だったために関宿城内に詰めていた義氏家臣、梁田政信が晴朝の離反と勘違いをしてしまったのだ。 「殿、結城様の兵が城を抜け出て行きまする」  物見の兵からの報告も混乱を深める元となったかもしれない。 「なんじゃと、上様からは何処にも打ち出せとの下知は届いておらぬはず。何故この時に城を抜けられるのか」 「結城の城に佐竹や多賀谷の軍勢が寄せて来ているとの知らせもありまする」 「まさかとは思うが、常陸勢と示し合わせた結城殿のご謀反……」  政信の表情は一瞬で青ざめた。この危急のときである、あり得なくはない。伴回りの臣も政信の口に出した晴朝謀反の事の重大さに度を失ってしまった。 「これはまずいな」 「この事を知られれば古河城に詰める晴助殿の兵と羽生にいる越後の兵が寄せてくるは必定にございまする」 「晴朝殿の謀反か、急ぎ手を打たねば」  政信は結城晴朝の謀反に間違いなしと思いこんでしまった。  ここで当の晴朝か義氏に人を送れば何と云う事はなかったのだが、それをしなかった事を見ると関宿の城を囲む混乱の度合いが余程強かったことの査証なのだろう。 「晴朝殿の兵は凡そ一千余、こちらの布陣を知っている故、敵に回ると厄介な数じゃ」  慌てる政信に家臣たちは先回りの待ち伏せ案を持ち出した。 「急ぎ兵を柳橋(やぎはし:現茨城県古河市柳橋)に先回りさせて待ち伏せすれば、居城に戻る前に殲滅できましょう」  柳橋とは、長井戸沼と呼ばれた沼沢地の中州のような舌状台地にある土地の名前なのだが、これは現在にも残っている字名である。  今は江戸期の干拓によって長井戸沼は姿を消してしまいその名残の用水が残っているのみであるが、その辺りを歩いてみると今も土地は旧長井戸沼の形に窪んでおり、在りし日の長井戸沼の波打ち際がわかる。まだ利根の流れが現埼玉県栗橋方面に向かい、江戸の内海にそそいでいた時代の事だ。  晴朝率いる結城勢が一路長井戸湖畔の東岸にある長井戸城下を抜けてその先の柳橋に向かった頃、政信の率いる兵が船を使って長井戸沼を渡り柳橋に兵を潜ませる事が出来た。  そんなこととは露知らぬ晴朝、先陣に下館城・久下田城主(両方共に現茨城県下館市)、水谷兵部大輔政村みずのやひょうぶのたいふまさむら(蟠龍斎)を立てて進んでいると、幾人か先に放っていた物見が、前方に伏兵がいる事を報告してきた。 「この先の柳橋の丘に敵兵と思われる人数が凡そ五・六百騎潜んでおりまする」  馬上の蟠龍斎がその報告に小首を傾げた。 「これは常州の兵であるか?」 「いえ、旗印などは見えず、何処の兵とも知れませぬ」 「左様か。しかし常州の兵とすれば早すぎるな。わかった」  そう云うと伝令を呼んだ。 「よいか、後陣の御屋形に知らせよ。この先の柳橋に伏せ勢あり、この分では彼方此方に敵勢が潜んでおるやも知れぬゆえ、我らがこの敵の先陣を切り崩しておる間に結城城に退きあげられますようにと」  伝令に云い含ませて後陣の晴朝の所に知らせを使わした。 「さて、おそらく柳橋に潜む者らは古河の梁田中務が手勢であろう、一当りに揉み潰して緒戦を飾ろうぞ」  蟠龍斎の掛け声に鬨の声で返す結城勢の威勢は凄まじかった。二百騎程で駆け抜け、一気に柳橋の丘上に居る伏せ勢に攻め寄せた。  ところが、そこにいた伏せ勢の旗印は水葵二本立ちと言われる梁田の分家の紋であった。(梁田本家は水葵三本立ち)関宿に籠っているはずの梁田政信の手勢が行く手を阻んでいたのだ。 「あれは政信殿の手勢ではないか、政信め、本家の中務に寝返ったか」  最早滑稽芸とでもいえる悲劇である。  これでどちらも、相手を義氏に反旗を翻した謀反人であると思い込んでしまった。  この間に晴朝本隊も蟠龍斎の人数に合流したため、一気に丘の上の政信の伏兵に攻めかかっていった。  両陣討ちあい切りあい、合戦が始まってしばらくすると政信勢が二百人程討ちとられていた。人数に勝る結城勢だったが、それにも勝る働きをしたのが蟠龍斎率いる鉄砲隊である。  鉄砲が関東に流れてきたのは天文も十五年程になってからなのだが、この新式兵器を久下田の蟠龍斎はいち早く取り入れ、天文十六年の合戦に使用している。攻め寄せた宇都宮方の武田信隆を討取っていた。  この柳橋の丘に陣取る政信も、間近で鉄砲の威力に恐怖を感じたであろう。  乾いた轟音が聞こえ濛々たる煙が見えると、両脇の具足で身を固めた騎馬武者が声もなく馬から落ちてゆくのだ。  しかも鉄砲の音に慣れていない馬は、音がする度に制御が利かなくなる。 「蟠龍斎め、鉄砲を持っておったか」  まだまだ鉄砲よりは弓の方が有効射程も長く安定した連射が利くので主要な武器となっていたが、中距離接近戦での鉄砲の使用はその轟音も痛手を加える。  弓隊、槍隊で鉄砲隊を囲み、有効射程となると攻め口を開いて轟音を響かせる鉄砲の鉛玉は、いとも簡単に薄鋼の胸板に穴を空けた。  皮をなめした胴丸ではもっと簡単にすぽりと通してしまう。  また銃声で暴れた馬の鐙あぶみから足が離れず、引き摺られてゆく騎馬武者が現れる程になると馬を鎮めるだけで手一杯になってしまった。 「やむを得ぬ、一度退くぞ」  そう政信が叫び手勢を率いて西北に逃げ散ったのを見計らうと、晴朝本隊は深追いをせずに結城へと去って行った。その帰城の途中で結城領各支城に急使を出し、本城結城城への参集を促して城下を焼き払いながら帰城した。  そして二月七日、常州勢が六・七千騎で現れ結城城周辺に陣を敷くと、これを待ち受けていた結城晴朝率いる結城勢は岩上但馬守を追手・高井豊前守を搦手とし、兵を繰り出し常州勢が陣を敷き終わる前に散々に切りつけ、常州勢六百十五人を討取って追い散らした。  味方百六十二人の死傷者を出したが、圧勝とも云える勝ち戦であろう。  またこの常州勢を討ち払った結城晴朝の働きを見た梁田政信は、自らの勘違いで柳橋合戦に至ってしまった事を率直に詫びると、公方義氏が間に入って取り成した為に後々のしこりを残さずに済んだようである。  これは離合集散が常である関東地方の情勢が悪い形で表面化してしまった一例だ。  この常州勢の結城攻めを聞いた氏康は関宿の義氏の近くまでに危険が及んでいることを考え、救援で差し向けた川村修理亮、依田大膳亮、南条山城守の兵と共に急ぎ高城胤吉・胤辰たねとき親子の籠る小金城(現千葉県松戸市)に移るよう指示を出した。  この高城氏は永禄三年に主家千葉胤富に従い越後勢に靡いていたのだが、今年に入って直ぐに北條方に帰参を求めていた事もあり、これ幸いと高城親子の籠る小金城を義氏の仮の御所にすることを条件にして帰参を許し、義氏を小金城に移座させる事にしたのだ。  氏康の指示で義氏は関宿城を落居して小金城に移座する事となった。  また氏康はこの謙信の攻勢を見て、急ぎ甲斐の武田晴信に背後からの牽制を依頼し、援軍を要請。また今川家にも援軍を求めている。  武田家では小田原へ初鹿野源五郎忠次と青沼助兵衛忠吉に騎馬二百、雑兵三千を付けて援軍を差し向け、自身では碓氷峠を越えて軽井沢に陣を敷いている。  この武田家の行動は、十万を率いた越後の謙信が万が一関東を席巻して小田原北条家を倒してしまった場合を考えての事だと伝わっている。小田原を配下に抑えた越後の勢力が一転し、甲斐に向かう事を恐れたための援軍であったようだ。  また今川家では義元討ち死に直後の混乱のなかではあるが、後を継いだ息子の氏真が河越城等北條支城に援軍を送ってくれた。  しかし関白近衛前嗣と前関東管領上杉憲政が祭り上げた新古河公方足利藤氏を頂く越後及び西北関東勢・公方奉公衆の合計十万騎を有したこの謙信の勢いは止まる事がなかった。  北條氏康と云う男は大軍を相手に戦う事が運命づけられているのであろうかと思う。  河越夜戦の八万騎を撃退したあとに、それを優に超える十万騎を相手にせねばならなくなったのだ。  謙信は義氏の落居した関宿を接収するとそれを梁田晴助に引き渡し、軍勢をまとめて二月中旬までに氏康が引き揚げた松山城を攻めた。  松山城主であった上田朝直は即座に北條氏を離反、松山城は謙信に奪われた。  謙信は太田資正を城代とすると、その資正は命脈を絶たれていた扇谷上杉家当主に扇谷傍流の上杉憲勝を擁立し城主として入れている。  これに対して氏康は河越城、滝の城、鉢形城、玉縄城に兵を詰めて籠城させたのだが、南下してくる謙信の軍勢の前に、小金城に落居した義氏の身に更に危険を感じ、再び小金城から佐貫城(現千葉県富津市佐貫)へと身を移させる事にした。  怒涛の勢いを持った謙信の軍勢は氏康の予想通りに小金城の高城親子を軍門に下し、二月二十七日に一気に鎌倉まで寄せて来ると、道筋にあった鶴岡八幡宮に立ち寄っている。 「ここが鶴岡八幡宮か」  謙信は感慨深げな面持ちで参道正面の舞殿、大石段から先の本宮を見ていた。 「源頼義公が京の石清水八幡を勧進仕り、治承の年に頼朝公がこの地に遷座したと云われておる若宮にございます。また大永の年、里見と北條で合戦があり一度社殿が消失したとか。その後の天文の年に今の氏康殿の父、氏綱殿が再建されたようにござる」  謙信の隣に侍る直江実綱が鶴岡八幡宮の由緒を話し始めた。 「なるほど、それ故いまだ社殿が生なのか」  謙信は歴史ある鎌倉鶴岡八幡宮のわりには建物がやけに新しい「生」な状態だった事が気になっていたようである。 「先代氏綱公は神仏への信仰が厚いお方だったとか聞いておりまする」 「八幡宮の社殿を焼き落しておいて信仰が厚いとは、なかなかに面白い」  謙信は口角の片方を釣りあげて皮肉に笑った。 「しかし社殿を再建してくれた事はありがたい事じゃ。代々関東管領になると若宮(鶴岡八幡宮)へ拝賀するのが例であると聞く、ならば関東管領職に就いた事へのお礼参りを果たさねばなるまい」 「その前に小田原を攻め落としませぬと」 「うむ、この鎌倉と小田原は近い。このままに拝賀など致せば小田原殿が寄せて来る事は必定。まずはそれを成敗してからじゃな」  ここで謙信はいきなり馬を下りた。 「御屋形、何をなされておられます」  驚いた実綱に笑顔を見せた謙信。 「お礼参りは小田原攻めの後にするが、小田原攻めの勝利の願文を捧げるには今が丁度良い。伴回りだけ連れて参る故、その方はしばしここで待っておれ」  そう云うが早いか、謙信は実綱に背を向けて境内の中に速足で去って行ってしまった。 「御屋形も相変わらずじゃ」  謙信の、思った事を実行に移す事が早いのは今に始まった事ではない。これに慣れている実綱は苦笑いをして溜息を吐いた。  そして半時ほども過ぎただろうか、謙信が再び境内を下りてくると、颯っと黒馬に跨り実綱を見た。 「これで最初の儂の望みが叶った。次の望みを叶えるために小田原に向かう事にしよう」  謙信の言葉を聞いて実綱は頷き、行軍開始の号令を発する。 「いざ出立!」  謙信を先頭に立てた小田原討伐勢は八幡宮の前を粛々と行軍して行った。  一方の小田原城では家臣一同が評定の間で侃々諤々の論争を繰り広げていた。 「越後勢が小田原に入る前に大磯・小磯に兵を配置して迎え撃ってはどうだろう」 「いや、江戸・河越に詰めてある軍勢を使って越後勢の後ろから攻めさせ、小田原から挟み撃ちにするのが最も良い」  議論百出の評定の間ではあったが、しかしそこに御本城親子、氏康と氏政は居なかった。平井の城から退いてきた幻庵宗哲と離れの書院で茶を嗜んでいたのだ。  まだまだ寒さの残る二月、書院濡れ縁から見える枯山水にも影になっている部分に見える霜柱がより一層寒さを惹き立てている。  幻庵がまずは一服、と差し出した井戸茶碗の湯気が唯一の温かみを伝えてくれていた。  氏康が碗を取り茶を喫すると、きりりと冷え切った体もこの一服でじわりと溶けて行く。  隣の氏政も父の次に碗を差し出され、一服嗜んだ。 「見事なお点前にございます」  そう氏政が大叔父幻庵に言葉をかけると、皺の刻まれた顔を綻ばせながら幻庵はふっと笑みをこぼした。 「茶はもてなしの心と聞き及びますでの、畏まらずに旨い茶を点じる事が作法でありましょうなぁ」  幻庵の間の延びたような話し方は昔から変わっていない。  またこの三人は具足の着用もせず、普段着の素襖を着ている。戦の前である事を忘れてしまうようなのんびりした雰囲気であった。 「ときに大殿様、此の度の越後勢でございますが」  氏康もこの叔父の雰囲気が好きで、話している時などは何時も顔の険が取れる思いがする。近頃は上州平井の城に入ってもらっていたせいで、なかなか顔を合わせる機会もなかったのだが今回の件で久しぶりに顔を合わせる事ができた。 「如何された」 「越後の龍殿を小田原で持て成されるのかな」  幻庵はにこにことしている。  氏康も幻庵の言わんとしている事がわかったのか、声を立てずに表情だけを綻ばせた。 「越後の兵を小田原で持て成すなどとんでもない事にございます」  血相を変えたのは氏政であった。まだ若い氏政には比喩が理解できなかったのだろう。 「新九郎殿、逸る事はあまり関心しませぬぞ」  柔和な顔つきを変えることなく幻庵は又甥(兄弟の孫)に話しかけた。 「なれど小田原で越後の兵を持て成すと言われたは大叔父上ではありませぬか」  そこまで言って気がついた氏政。 「あぁ、持て成すとは戦うの意味で御座いましたか」  どうやら氏政は、幻庵の言った持て成すの意味を、小田原城を開城せよと勘違いしたようだ。ガラス玉のような目を恥ずかしげにコロコロと動かす氏政に、幻庵は慈しむ眼差しを向けた。 「持て成される茶は身にしみて旨いもの。したが茶も出さず迎え入れもしなければ客はどうなるか」  氏康が謎をかけるかの様に氏政に話しかけた。 「それは血相を変えて怒りだしましょう」 「そうかな」 「折角訪ねて来ておるのですぞ、持て成さねば踵を返して帰ってしまいまする」 「ほっほっほ」  幻庵は、氏政の言葉に的を射たりと言葉を続けた。 「左様にございます、新九郎殿。今は冬、この寒空に門も開けずに道端に立たせておけば、勝手に帰って行くことは疑いもない事」 「しかし、これが越後勢の事を指して居るならば、勢いのある越後勢は小田原の城を取り囲み攻め続けるは必定にございませぬか?」 「大殿はどう思われまするかな」  幻庵に促された氏康、左様。と井戸茶碗を見ながら氏政に話しかけた。 「叔父上が言われた持て成しの茶とは我が方からの兵であろう。越後勢はこの寒空の下、兵糧も心細いまま十万もの軍勢を率いてはるばる小田原までやってきておる」 「その十万の軍勢が厄介なのです」  氏政は今一つ、こののんびりした二人の会話の意味がわからなかった。 「真正面から受ける故厄介と思うのじゃ」  井戸茶碗を膝前に置き我が子氏政を見た氏康、その時々で表れる幻庵にも似た風貌は祖父早雲から受け継ぐ遺伝なのだろう。  普段の大店おおだなの主人のような雰囲気から、稀に思慮深く相手の懐を奥深く見抜くような表情をする事がある。 「そのような大軍が我が方の兵と刃を合わせれば益々図に乗る。愈々士気が上がる。ならば一兵たりとも城から出さず、相手をせずにおれば城を囲む事にも飽いてくる。厭戦の機運が広がることは必定ぞ」 「何故にございます」 「何もせずに只じっと動かない事と、何かをしている事。どちらが飽きやすい」  ここで氏政も理解したようだ。 「なるほど、そこに兵糧不足でございますか」  幻庵は黙って頷き、「今一服如何ですかな」と、のんびりした言葉で場を癒していった。  それから四半時ほど茶の湯を楽しんでから書院を出たこの三人、そろそろと喧々諤々の評定の間に足を運んだのだが、そこではまだまだ越後勢への対策では結論は出ずに、只管に論争が続いているようである。  熱気のある論争が小気味よく響いてくる。  ここに、つと現れた三人に気がついた廊下に控える小姓が氏康の出座を伝えると、あれほど論争華やかだった評定の間も水を打ったように静まり返り、評定衆が次々に平服して行った。  氏康、氏政、幻庵が評定の間上段に向かい、其々衣擦れの音を立てて座に着いた。 「皆、面を上げよ。これから我が方の出方を伝える」  これを聞いた評定衆は怪訝な顔を隠せなかった。この対越後への備えは評定衆を通さずに行われるのであろうか。  これまで氏康自ら評定衆を組織し、その評定衆の合議によって今まで様々な事に対処してきたのに、それを今回、氏康の下知で決定するとは如何なる事と思ったようだ。  一同がさっと背をただしたところを見計らい氏康が口を開いた。 「この度の越後勢出陣に対して皆々が一つになっての評定はもっともである。しかし此度の越後勢、皆が知るように足が速い。極稀にではあるが合議をとる間もない危急の時と思いここに下知する事とした」  数刻にも亘る論争は華やかなれども結論が出なかった事に、評定衆からは咳の声さえ聞こえなくなった。  評定衆を自ら組織した氏康だったが、合議と云うものの弱点にも気が付いていたようだ。議論百出すれども纏まらない事はよくあるものである。  この時より二百五十年後にオーストリアで起こるウィーン会議を先取りしたような状況である。  曰く『会議は踊る、されど進まず』。  評定衆を一通り見まわした氏康、ならばと下知を始めた。 「謙信、血気盛んで怒りやすいとか聞く。火の中にも飛び込み鬼をも押し潰す程の短気な勇者とか。しかし時を置くとその熱気は冷め、何事も思案するようだとも聞いている。またこの度は管領の兵を大勢引き連れての行軍であるため、一際強く出てくる事が考えられる。よって一先ずは軍勢を出さずに、寄せ手の気勢を削ごうと思う。長期間対陣させれば先の飢饉である。兵糧を食いつくす事は疑いない。さすればそこに攻め寄せて謙信を討取ろうぞ」 「兵を一兵も出さずに籠城に徹せよと云う事にございまするか」  大道寺周勝かねかつが疑問の声を上げた。 「左様、しかし伏兵として野村源佐衛門、越智弾正、藤部与三、藤巻民部、松山吉右衛門、安藤弥兵衛、田中五郎佐衛門の六名を大磯・小磯(両方共に現神奈川県大磯町)・梅沢(現神奈川県二宮町梅沢海岸か)に差し向ける。但し、我が下知の無いうちに攻めかかる事は罷り為らぬ」  評定衆達もこの氏康の言葉に納得したらしく、反対の意見を唱える者は居なかった。 「これよりこの小田原城にて籠城をする。先の六名の者は直ちに出陣。他の者は各々持ち場に入り、敵の矢種を射尽くさせてしまえ」  一同は氏康の下知を受け、評定の間から其々の持ち場に一斉に走り出していった。  氏康親子は家臣一同が走り去った評定の間で小姓を呼んだ。 「具足を持って参れ」  素襖姿の平服を纏っていた氏康、氏政親子、ここに至って漸く具足姿に改める気になったようだ。  素襖を脱ぎ棄て素裸になると、真新しい首かけ褌を捧げた小姓が素早く褌を締め、鎧下着と言われた小袖を着せた。  帯を二重に締めると次に小袴をはき、脛巾はばきと足袋を履かせて脛当て、佩楯を付け、両の腕に決拾ゆがけを付けて合わせ籠手を袖に通し終えるのだが実に手際が良いものだ。  まさに瞬時に小具足姿が出来上がった。 「袖と胴はまだよい」  そう言うと氏康親子は幻庵と風間出羽守を引き連れて評定の間を出ると、評定の間のある曲輪を出て一の曲輪本殿に入りそこで籠城戦の指示を出すことになった。
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