小田原乱入(二)

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小田原乱入(二)

 大磯、小磯、梅沢に氏康の下知通りに兵を潜ませた野村源佐衛門、越智弾正、藤部与三、藤巻民部、松山吉右衛門、安藤弥兵衛、田中五郎佐衛門の六名が土地の百姓や漁師に扮した物見を大勢ばら撒いた頃、謙信は鎌倉を越えて大磯まで軍勢を進めてきた。  先陣には北條に反旗を翻した岩付の入道、三楽斎道誉さんらくさいどうよと号した太田資正と本庄佐衛門大夫が受け持っていたのだが、これを知らされた氏康は苦笑いをしただけであった。  また先の六名の他にも風間出羽守と風魔衆の新しき棟梁、小太郎の配下を其々総動員して越後軍に間諜を忍ばせているのだが、こちらからは謙信の子細な様子までも知らされ始めた。  大磯の謙信の動向を伝えに来たのは風間出羽守の配下の忍である。座敷に座る氏康の目の前、玉砂利の敷かれている一の曲輪本殿の庭先に片膝をついていた。 「不識庵が大磯まで寄せて参ったか。」  氏康の隣にはこの風魔忍びの主人、風間出羽守が座っている。危急の時とはいえ御本城様と言われるこの国最高の身分の者に下賎に近い忍が直接言葉をかけることは普通躊躇われるものだ。そもそもが正式な物見では無いため直接答えて良いものか、主人出羽守を見た。  配下の目線でその意を汲み取った出羽守は、これに自ら下問して見せた。 「まずは謙信の今の動きが大事。謙信の様子は如何に?」  直接は出羽守に伝えるように報告させるのだが、すぐ隣にいる氏康にも聞こえるようにとの配慮でもある。 「大将謙信は既に戦場でもある大磯まで寄せておきながら白布で頭を包み、兜を脱いだまま陣中を黒馬で走りまわって陣備えを指揮して居る様子にございます。その下知の様は大軍の総大将としての管領の威を借りているようにも見えまする」  幻庵はこの忍の報告に一つ頷いた。 「総大将たるもの、武威を示さねばなりませぬからなぁ。それを示して居るのでございましょう。しかし」  自らが平井の城で刃を合わせた謙信の戦ぶりを見ている幻庵。越後勢が苛烈な謙信の下知に従う様子を考えると、関東の諸将はいずれ謙信から離れて行くことが想像できた。 「越後の龍殿に従う関東勢は上杉家の当りの柔らかな指示に慣れて居りまする故、龍殿の激しき下知にどこまで従えるか。」  忍の報告を一度止めて、氏康は幻庵の言葉に耳を傾けた。 「不識庵とは戦場ではどのような人物なのですかな」  氏康の脳裏にできつつある謙信像に、幻庵の評価を加えようとしたのだ。 「自らにも家臣にも常に厳しくあるお人かと。負け戦になっても敵に背を向けた味方をその場で切り捨てる程の軍律を好むようでございます」  ほう、と声を出す氏康。 「いささか短慮と云うは真であるかな」  そう自問自答をしている。 「また越後を纏めるまでは反旗を翻した者にも一度は赦免するといった気概を見せておりましたが、最近では人質となった女子供までも自ら切り捨てる狂気を持つ御仁とか。これに何時まで関東勢が従えるか」 「叔父上はこの不識庵の軍勢、どう見られる」 「謙信殿の下知に慣れておる越後勢の他は、日もなく煮崩れるが如くに崩れ去るでしょう。まことに小田原を囲むのは越後勢と里見勢、後は岩付の三楽斎かと」 「三楽斎とは?」 「太田資正でございます。近頃入道したらしく、三楽斎道誉と号しておるようですぞ」  氏康は、ああと興味もなさげに頷いて見せた。  そのころ謙信は本陣を武州大住郡高麗寺山の麓にある宿河原に本陣を構えていた。  ここは現在の神奈川県中郡大磯町にあり、高来こうらい神社が祭られている山だとも言われている。  この神社は鎌倉期に建立されたあと、南北朝期の動乱で戦火に消えてほとんど廃社同然となっていた。山頂には上宮があったようだが現在はその名残が残るだけとなっている。  本陣を宿河原に置いた謙信の軍勢はここに至って東国の諸将七十六人、軍勢九万六千余騎、他にも越後、佐渡、上野、平井、更科の譜代、新参を合わせて一万七千人、都合十一万三千余騎に膨れ上がっていた。  其々の攻め口から小田原に向かった軍勢は、武州堀灘、関戸(現東京都多摩市関戸)分配筋より武蔵野を通り、江田(現神奈川県横浜市青葉区)、稲毛(現千葉県千葉市稲毛区)、小机(現神奈川県横浜市北区)、権現山(現神奈川県横浜市神奈川区)、信濃坂(現東京都新宿区信濃町か)へ出たと関八州古戦録にある。  この軍勢が本陣を宿河原に据えると、先陣と第二陣は小磯へと進んだ。  先陣となっていた太田三楽斎、本庄佐衛門大夫等の軍勢は更に先を急ぎ、国府津(現神奈川県小田原市国府津)・前川(同小田原市前川)・酒匂(同小田原市酒匂)に至っている。  氏康と謙信、指呼の距離になると本陣に座る謙信の装束までも事細かに小田原に伝えられ始めた。  謙信の装束は金箔を置いた札さねを紅の糸で威した大袖の鎧に萌黄の緞子に笹に飛び雀(向かい雀とも)を縫い取りした具足羽織を上に纏っていた。  風魔の忍が謙信の手勢の内部にまで深々と入っている事を物語るものである。  そして二月下旬、愈々謙信率いる合同軍が小田原城を取り囲んだ。  この当時の小田原城は、現在城址として残っている小田原城二の丸辺りから箱根登山鉄道の線路を越えて南は小田原競輪場前の道路付近まで、西は城山陸上競技場をぐるりと囲み小田原駅南側にぎりぎりかかる程度の規模だったと言われている。最大に城郭を広げた天正期と比較すると五分の一程度の規模だったようだ。  天下の堅城小田原城はまだこの時期は拡張途中の、地方の小城と云った風情だった。  しかし各曲輪は土塁と堀で囲まれ、その堀には畝堀と言われる堀の底を田の畝状に加工し、一度雨が降ればその堀は泥水を張った泥濘と化して落ちた人間が這い出る事がないように作られている。  また土塁は高く板塀や逆茂木を設え、至る所で横矢掛よこやがかりという仕掛けを持っていた。  これは堀と土塁を至る所で屈曲させ、侵入してくる敵を最低三方向から矢や鉄砲で狙える仕掛けになっている。その板塀にも至る所に武者溜と言われる小屋があり、武器が破損したり弾薬の補給を行うために倉庫としても利用され、緊急時以外はそこで体を休める事もできた。  更に仕掛けがある。  遠方を策敵するための正楼櫓が幾つも配され、長期間の策敵にも耐えられるように二階層櫓と言われた、後年の天守閣の原型のような建物も配されているのだ。それにも矢狭間、鉄砲狭間が設けられており、要塞として機能するようになっている。  また各曲輪は空堀か水堀で仕切られ、各曲輪との連結は土橋や曳き橋しか無い。一つの曲輪を落としても次の曲輪を攻める為には再び堀と土塁を越えて行かねばならない仕掛けになっていた。  規模は未だに小なりとは言え、後北條氏の技術の粋を集めた最先端の城閣とも言えるのだ。  この小田原城の蓮池門(幸田門:追手門)近くに、宿河原から陣を移して謙信が現れた。  忍の報告通りに黒馬に乗り、金地に紅糸威しの具足を纏い頭は白布で包まれている。  一の曲輪本殿に詰めていた氏康の元に物見の兵からの報告が入ったのは弥生三月に入って直ぐ、梅の花もそろそろ散りはじめ、桃に変わろうかと云う頃合いに季節は移ろっていた。  冬の厳しさも緩まり、柔らかな日差しが差し込んでいる。何も無ければ花見に興じたいような春の盛りであった。  八幡山の天嶮を利用した小田原城一の曲輪に植えられている桃の木も芽吹き始めていた。 「不識庵は無粋な武将であるな」  これは氏康、本心なのか表情がわからない。  この言葉に笑っているのは幻庵宗哲くらいである。 「大殿様も面白き事を言われまするなぁ。言い得て妙、かの謙信は、漢詩は得意と聞きまするが、雅な詩歌等に精通するとは聞き及んだ事がございませぬ」  この僧服に腹巻姿の老人、今年六十九歳とも思えないほど肌に艶と張りがある。  これより遥か昔、幻庵宗哲の父早雲庵宗瑞が小田原の城を取った頃、宗瑞殿は歳を取らぬ物の怪かとも評された事があると言うが、流石にその胤。  幻庵も歳を取らぬ物の怪のように歳に似合わず若々しい。 「詩歌も解さぬか。ならば致し方もあるまいかのぅ。漸く厳しき冬が過ぎ去り花芽も萌え出たと云うのに、この大勢を持っての城攻め。無粋としか言えぬ」  ゆっくりとではあるが、氏康の口角が上がってきた。  笑っているのだ。 「ならば大殿、梅桃の花は来年見れば良いとして、若き男盛りの越後の華を見に行く花見もありまするぞ」  この幻庵の言葉に、ついに氏康は笑い声を上げてしまった。 「なるほど面白い。ならば叔父上、共に花見に参りましょうか」  小具足姿の氏康は傍らに置かれていた太刀を掴むと、床を踏み鳴らして本殿を出て行った。  これに従ったのは倅新九郎氏政と幻庵宗哲、風間出羽守の三人。  八幡山の一の曲輪虎口を抜けて曳き橋を渡り、二の曲輪を越えて小田原城域の東南にある追手曲輪に建つ蓮池門矢倉に速足で登って行った。 「これはこれは」  蓮池門矢倉の矢狭間からこの小田原城を取り囲む十万の大軍を見た幻庵は、非常に愉快そうに笑っていた。 「謙信の軍勢、十万とは中々でございますなぁ。河越城を管領勢に囲まれた事を思い出しまするよ」  氏康も遥かに霞む布陣を見ながら言葉を返した。 「そう言われれば、叔父上様には二度も大敵を引き受けてもらう事になりましたな」 「この老人がまだモノの役に立つのであれば、何時でも大軍を引き受けましょう」 「して、越後の華はどこにおるかのぅ」 「越後の龍殿は勇を前面に押し出し軍勢の真っ先に現れて攻め寄せると言いますので、白布を頭に巻いた黒駒に乗る萌黄陣羽織が見えれば、それが龍殿でございましょう」  そのとき、二人の会話の間中、矢倉のあちこちの矢狭間から顔を覗かせていた氏政が声を上げた。 「父上、あれに見えるのが謙信ではありませぬか」  鉄砲狭間から指さす氏政に、氏康と幻庵が近づいて外を見ると、まさに越後上布の白布を頭に被った鎧武者が見えた。  ただ、情報と違ったのは黒駒ではなく白馬だったこと。  馬を乗り潰さぬように換え馬を連れて来ていたのであろうが、白馬に萌黄の陣羽織、金地に紅糸威しの具足が映えて見事な武者ぶりである。  謙信を先頭に、騎馬武者を無数に引き連れてやってくるその姿に氏康は手強さを感じた。  謙信の直近を固める軍勢は越後兵であろうが、一糸乱れぬ行軍には軍律の厳しさが表れているようだ。 「おぉ、これが越後の華であるか。眼福眼福、この布陣といい、陣の先を駆ける大将といい、短兵急の戦では敵わんかも知れんな」  そう言いながら氏康は声を上げて笑っている。 「父上、籠城の兵がここに居らぬから良いものの、あまり『敵わぬ』などと仰ってくれませぬよう」  はははと笑いながら、「左様よなぁ。越後の華は遠くに見て楽しむものと、改めて分かったわ」そう言いながらも如何にも愉快げであった。  小田原城を囲まれながらの父の楽しげな言葉に氏政は何か釈然としないものを感じていた。  このとき、不意に蓮池門矢倉の下が騒がしくなった。大勢が集まって騒いでいるようだ。  すると間もなく蓮池門詰めの松田憲秀が足音も激しく石段を駆け上ってくると、勢いよく矢倉の木戸を引いた。 「大殿、初鹿野源五郎殿と青沼助兵衛殿が打って出る事を願い出ておりまする」  その憲秀の後を付いてきたのだろう、甲斐からの援軍二人が矢倉門入口にあらわれた。 「氏康の大殿、こちらにござったか。笑い声が聞こえたのでもしやと思いましての」  そう云うとずかずかと矢倉門に入り、松田憲秀のすぐ脇まで来て一礼した。 「氏康の大殿様、この追手周りを取り囲んだ越後勢に打って出ぬとは誠にござるか」  初鹿野源五郎、鼻息が荒いようだ。  氏政はこれを見て、「大殿に対し取り次ぎもなくやって参るとは無礼であろう」と一喝するが、氏康はそれを軽く手で制した。 「左様じゃ。この越後勢、城を守っておれば放っておいても勝手に崩れる」  そう鷹揚に答えた。  だがしかし、とこれは青沼助兵衛。 「それでは甲斐の御屋形様から小田原を助けよと仰せつかった我らの立場がござらん、せめて一太刀だけでも打ち出すことお許し下され」  これに合わせて初鹿野源五郎もここぞと氏康に畳みかけた。 「如何にも、これでは甲斐の御屋形に顔向けができ申さぬ」  ふむ、と言ったきり暫し考える風情の氏康だったが、よかろう。とあっさり認めることにしたようだ。 「援軍に駆けつけてくれた各々にも立場と云うものもあろうな。しかし相手が掛かって来るまでは打って出る事は罷り為らぬが、この蓮池門ならば存分に働く時が来よう。故に松田憲秀と共に守ってくれぬか?」  この氏康の申し出に全面の納得とまではいかなかったものの、活躍の場を与えられた二人は、それならばと頷いた。 「この追手蓮池門、もうすぐ越後の龍殿が押して参るであろう。その時は宜しく頼むぞ」  それと、ともう一言を付け足した。 「もう一つ頼みたい事があるのだがそれは追々知らせる。下知あらば遅滞なく打ち出す用意はしておくように」  この『打ち出す用意』と聞いた援軍の二人は漸く己の働き場所が見つかったと、目を輝かせながら鎧の胸を手で打ち、お任せ下されと鼻息も荒く蓮池門矢倉を下りて行った。  己の武勇を誇る戦国武者ならではともいえる行動である。自らを戦場の華として活躍する事が何よりの誇りなのだ。  矢倉門入口に立っていた松田憲秀が、援軍二人の姿が見えなくなった事を確認してから疑問の声を上げた。 「打ち出す用意ですと?何処へ打ち出されるお心算でございまするか?」  氏康は片方の口角をにやりと持ち上げると、「時期を待って不識庵の合同軍の生命線を断つ心算ぞ」そう言って光る眼を憲秀に向けた。  予想外の甲斐衆二人の来客にあった氏康一向だったが、越後の華見物を終えて四人が八幡山一の曲輪本殿に戻った頃、先頭を切って現れた謙信は小田原城蓮池の門から四町ほど離れたところで騎馬隊を押しとどめて代わりに足軽の部隊を前面に出してきた。  この足軽は手に々々掛矢を持ち、中には十人程がひと組になって綱で結んだ大丸太を運んできた。  この追手の蓮池門を打ち破る心算なのだろうが、人数に頼っての無理攻めにも見える。  蓮池門を守っていた松田憲秀、越後勢の城攻めを目の当たりにして少々呆れた。 「越後の田舎武者は戦を知らぬと見える、城門に取り付く前に矢攻めもせぬとはいやはや」  この門の前面には馬出しと言われる土塁が盛り上げられた簡易な曲輪があり、門に敵兵が直進できる構造にはなっていない。正面の敵軍からは直接門扉が見える構造ではないのだ。  更に蓮池門に限らず、小田原城の全ての城門虎口は枡形虎口となっており、小さな中庭のような構造になっている。侵入路は箱型に仕切られ直進はできないのだ。塀で仕切られている箱の四方には城兵が潜んでいる為に、仮に門扉を打ち壊してそこに侵入しても、敵兵は前後左右からの矢攻めにあう仕掛けだ。  またその門上部にある矢倉は真下にも矢を射込める構造になっているので、門の上部から城外へ矢を射込むのはもちろんのこと、門内枡形に入った敵にも真上からの弓や鉄砲攻撃が自在にできる構造なのだ。  合わせて門から左右に伸びる板塀には狭間が設けられており、そこからは無数の銃口と鏃が覗いている。  この恐ろしく堅い守りが後の堅城小田原城の基礎となって行くのであろう。  越後方の掛矢を持つ足軽勢が城門前に勢ぞろいした頃には、城方の鉄砲火縄からは既に煙が上がっていた。  外を見ると膨大な数の充満した小田原攻めの合同軍が犇めいている。この軍勢が動き出せばどこまで持ちこたえられるか。 「よいか、敵が寄せてきたら鉄砲、弓と交互に射込め。息つく間も与えずに矢と鉛玉を見舞ってやれ」  松田憲秀が弓衆、鉄砲衆に下知を下す。 「各々目当てを付けた順に、思い思いに放って行け。弓勢は鉄砲が放たれたら直ぐ様に入れ替わり敵を寄せ付けるな。鉄砲は弾込めが終わり次第弓勢と替われ。絶え間なく射込むのじゃ」  緊張が電光のように城兵の端々まで行き渡った。  越後勢の足軽後方に控える騎馬隊の中央には毘の旗印と笹に飛び雀の旗印がはためき、嵐の前の静けさが辺りを覆い尽くした。  双方が静寂に包まれたとき、謙信の軍配が颯と振り上げられた。  これに合わせて足軽小頭が其々五~六人の人数を引き連れて小走りに走り寄ってきた。凡そ五組もあろうか。  それに合わせて後方支援の鉄砲組が馬出し両脇に各十人程が走り寄り、鉄砲組頭の下知を元に一斉に矢倉や塀に向かって撃ちかけてきた。  門を打ち壊す人数の援護射撃である。 「早速に射かけて参ったぞ。それ各々、程良い的を見つけて打ちかかれ!」  松田憲秀の放ての命が下されると、蓮池門の矢倉や塀の狭間から一斉に鉄砲の轟音が響き渡った。  ばたばたと射倒される越後兵だが、後方から次々に湧いて来るかの様に門前まで押し寄せてくる。  越後兵が門扉を掛矢で打ち叩きはじめるほど近づいてくると、それを待っていたかのように矢倉上部の大鍋から熱湯を注がれる。  直接熱湯がかかった足軽は悲鳴を上げながら火ぶくれになった顔で後方に退いてゆくのだが、その引き際にも城兵からの矢で射殺された。  これを幾度となく繰り返した越後勢だったが一向に門を打ち破れる様子がない。このため攻城軍は一度兵を引き、塀や門を乗り越えて攻め寄せる行動に移した。  押し太鼓の音が滔々と鳴り響くと一塊りになった足軽が鉤縄や梯子を手に持ち、弓勢の支援の下、声もなく押し寄せてきた。 「放て々々!目当てを付けた者から思い思いに射殺してしまえ!」  下知を繰り返す松田憲秀に、騎馬隊を預かる初鹿野源五郎と青沼助兵衛が走り寄ってきた。 「憲秀殿、我らにも働く場所を分けてくれ」  必死になって懇願する源五郎に盛秀は笑ってしまった。 「初鹿野殿、まだまだ戦は始まったばかり、そう気負わんで下され」 「いや、お手前の采配を見ていると体が疼いてたまらんのでござるよ」 「ならば今寄せている足軽共ももうそろそろ引き上げるでしょう。そこで城門を開く故、枡形でお待ち下され」  この答えに満面の喜びを浮かび上がらせた初鹿野源五郎、「承った」と叫ぶと手勢に戻りすぐさま馬上の人となった。 「さてもさても、武田のお人は血気盛んよのう」  そんな中、矢と鉛玉に射殺された攻城兵の骸が門前に折り重なり始めると退き金が鳴り響いた。 「越後勢が退くか」  ぼそりと吐いた憲秀、近習に大道寺周勝・政繁親子を呼ぶように命じた。  この大道寺も持ち場が蓮池門なのだが、松田憲秀の後詰という形になっており追手曲輪後方に兵を詰めているのだ。 「初鹿野殿と青沼殿が打ち出せば謙信はどう出るかわからぬ、よってその二人をここで討たせる分けにもゆかぬ故、儂も打ち出す事になろう。その後詰を頼むと伝えて参れ」  伝令が後方の大道寺勢に向かった時には既に、初鹿野源五郎と青沼助兵衛の騎馬隊が枡形に収まらぬ程の人数を詰めており、何時でも打ち出せる状態になっていた。  準備は万端のようである。  一方の越後勢は退き鐘が鳴り響く中、手負いの兵を抱えながら、または引き摺りながら退いてゆく。  そんな越後勢に向かい、蓮池の追手門が打ち開かれた。 「初鹿野殿、青沼殿、存分に働かれよ!」  矢倉上で声を上げた憲秀に、馬上の二人は隆々と槍を扱きながら声を返した。 「いざ参る!者ども続け!」  源五郎の下知に呼応する鬨の声が小田原勢の攻勢を知らしめた。  今まで散々に攻め寄せた越後勢は追われる立場となり、蜘蛛の子を散らすかのように追い散らされている。 「直江、あれに見ゆる者は何者ぞ」  自軍足軽が小田原城追手門前で散々に蹴散らされている中で、謙信は冷静に今打ち出してきた敵を分析しようとしていた。 「指物は丸に花菱でござるな。聞者役(ききものやく:軒猿(忍))の知らせでは武田からの後詰で初鹿野忠次なるものが小田原に詰めたと聞いておりまする故、その初鹿野殿ではありますまいか」 「初鹿野源五郎、儂も聞いた事がある。中々の勇者と聞き及ぶぞ」  謙信は近くに侍っていた髭面の騎馬武者を見た。  指物にはかぶらが描かれた、先手組の大将とされた柿崎和泉守景家である。 「柿崎!その方、あの初鹿野と槍を合わせて討取って参れ」  景家は返事をするとあっという間に手勢を引き連れ、初鹿野源五郎が暴れまわる戦場にするすると滑り込んでいった。 「柿崎殿であれば程なく討取って参りましょう」  直江が表情も変えずにぼそりと吐いたのだが、謙信は意外と浮かぬ風でもあった。 「そうであれば良いが」  謙信の言葉を聞いた直江はちらと謙信の横顔を見た。  その頃戦場に到着した柿崎和泉守が古式の名乗りを上げて初鹿野源五郎を探し始めていた。 「柿崎和泉守見参!初鹿野源五郎忠次殿は何処にある!」  武者声も高らかに名乗りを上げた景家に呼応した忠次。 「これは越後にその人ありと言われる柿崎殿か、一度手合わせ願いたかったところ」  そう名乗りを上げて馬を寄せて来た。どちらも血気盛んな武者である。  両人共に手綱を退き絞り相手を見据えながら馬を輪乗りさせ始めた。  この柿崎勢を繰り出したあと、初鹿野勢の横に出ている青沼勢を仕留めようと謙信はもう一手、本庄美作守実乃ほんじょうみまさかのかみさねよりを繰り出していた。  青沼助兵衛はこの本庄勢に気が付かずに足軽勢を追い立て切り伏せていたが、愈々本庄勢が近づいた時に初鹿野勢と分断されてしまった。 「これは青沼殿が囲まれたぞ!馬引け!」  松田憲秀が青沼勢救援の為に馬上の人になると、後詰で矢倉に入った大道寺親子に後を託して一隊を率いて門を打ち出していった。  退路を断たれ危うく殲滅されそうになった青沼勢を助けた憲秀、本庄勢を打ち崩すと自部隊を纏めて初鹿野勢に加勢していった。  この間、実力伯仲していた為か初鹿野源五郎と柿崎和泉守は勝敗付けがたく、両者槍を打ち合っていた所に憲秀勢が馬を乗り入れてきた。 「くそ、邪魔するな!」  そう叫ぶ和泉守だったが、もはや両者肩で息をするほどに疲労が溜まっているようだ。  この憲秀勢の乱入を頃合いとした源五郎、大声で一つ笑った後、馬首をくるりとめぐらせ、「流石、何にし負う柿崎殿じゃ、また何処かの戦場でまみえようぞ」そう和泉守に云い放った。 「逃げるか!」 「このような乱戦に長居は無用!さらばじゃ」  柿崎和泉守は勝負を付けられなかったことに歯を噛み鳴らしていたが、新手の憲秀勢に押され始めたために已む無く後退をはじめた。  これに合わせ松田勢、青沼勢、初鹿野勢も一斉に門内に引き返して一勝を得た。  日が落ちてくると合同軍の焚く篝火が小田原城を囲むように輝き、夜の空を焦がし始める。中では炊事をしているのだろう、至る所で煙もあがっていた。  足軽に支給される一日の米は五合。しかしこの肉体労働ではいくら食っても食い足りなかっただろう。  しかもこの時期、飢饉も相まって食えぬ者が国中に溢れており、米があれば戦場だろうと打ち壊しだろうと男女区別なし、自国敵国区別なしに参加しているのだ。  戦場は男の者。女は出るものではない等と言い出したのは江戸時代からのようで、事実戦国期の各首塚等の調査では、二割から三割は女性の頭骨が出ているそうだ。  もちろん刀傷、鉄砲傷が至る所にある。  戦国期は平成の今と同じく、実力体力があれば男女関係なしに戦力になっていた。  また足軽稼ぎは自分の食い扶持を稼ぐための物であって領主への忠誠心からでは無い。このため食料が無ければ足軽はさっさと逃げ散ることもこの時期の特徴とも云えた。  さて、このような戦闘が幾日か過ぎた頃、八幡山の一の曲輪本殿で各方面に指示を出していた氏康の元に様々な越後勢の行軍、陣構え、攻め口にかかる人数と言った知らせがあったが、一際輝く知らせがもたらされた。  越後勢の小荷駄隊(輜重隊:兵糧部隊)の位置がわかったのだ。  幾つかの部隊に分かれた小荷駄は田島(現神奈川県小田原市田島)、曽我山(現神奈川県中郡中井町)、及び、後軍の小磯辺りに来ているとの事であった。  その日その時、氏康は最高の笑みを見せた。 「氏政、その方の風魔衆を小磯の小荷駄隊に差し向けよ。小磯に居る越智弾正と藤部与三に合流して小荷駄を守る敵兵を纏めて討取って参れ。間宮、石巻、酒匂の一隊は田島に、横地、福島、中村の一隊は蘇我山に向かえ」  氏康は下座に控えていた風間出羽守にも矢継ぎ早に指示をだした。 「出羽、その方の配下を田島に向かう間宮、石巻、酒匂の一隊と、曽我山に向かう横地、福島、中村の一隊にそれぞれ付けて兵糧を奪い取った後、寝小屋を焼き払ってしまえ」 「御意に」  これより越後勢には気取られぬように行動を開始した小田原勢、田島と曽我山に築かれた小田原攻め合同軍の寝小屋を一挙に焼き払い、小荷駄を奪い取ってしまった。  また小磯に向かった風魔衆が、そこに休息していた小荷駄隊を襲い、それを護衛していた部隊を越智弾正と藤部与三の部隊が殲滅させている。  この戦闘の後、風魔衆は小荷駄を伴って小田原へ帰還した。結果、田島・曽我山と小磯両方の小荷駄を奪い取って、根こそぎ越後勢の兵糧を小田原城に持ち込む事に成功している。  また、小磯での小荷駄護衛の人数を殲滅させた越智弾正と藤部与三は、再び小磯の越後勢の警戒にあたるために部隊を潜めた。  この知らせが来たのは亥の刻(午後十時ごろ)を過ぎた頃であった。  配下の知らせを受けて報告に現れた小太郎が一の曲輪に現れた。 「越後の小荷駄隊の兵糧、すべて城内に運び入れましてございます」  大柄な小太郎が報告する様は、片膝付いているはずなのにまるで立って頭だけを下げているように見えた。 「でかした」  これは幻庵である。 「これで越後の龍殿も兵糧に事欠く事は必定にございます」 「ならば、そろそろ甲斐の後詰の二人に思う存分働いてもらうとしようか」  氏康が初鹿野源五郎と青沼助兵衛に託した事は、安房の里見から海を渡って兵糧を持ち込む小荷駄勢を、大磯の地で略奪する事だった。  謙信が小田原に詰めようとする間中、運び込まれる兵糧を全て奪い取る計画である。 「後続の小荷駄を再び奪うのですな」  新九郎氏政がしたり顔で氏康に声をかけてきた。 「左様。しかし此度は先の小荷駄を襲った事もある故、後続の小荷駄には大勢の護衛の兵も付いていよう。先に大磯に伏せさせている吉右衛門(松山)と源佐衛門(野村)の兵では、数の上では少々心元無い故な」  連日の蓮池門前での合戦も松田憲秀、大道寺周勝・政繁親子が奮戦して越後勢と鎬を削る攻防が続く中、兵糧を奪われ続ける謙信はじわじわと劣勢に立たされる状態になってくるだろう。 「儂はちと休む。新九郎、暫しその方に指揮を任せる故、夜攻め等には充分に気を配るのだぞ」  そう言って寝所に入って行ってしまった。  小姓に小具足も解かせて小袖も脱ぎ捨てている。  小荷駄を襲い兵糧を奪う事に成功したとはいえ、未だ城を十万の軍勢に囲まれているのにだ。  この肝の据わり方はどこから来ているのだろうか。  氏康が御殿陣所から居なくなると、残った大叔父幻庵に氏政が語りかけた。 「しかし父上は謙信の軍勢が恐ろしくないのでしょうか、十万の大軍を見ても笑っており、こちらが攻められて居ると云うのに余裕さえみせております、いえ、楽しんでおるようにも見える」 「新九郎殿、いや、既に大殿は隠居しておられますから新九郎殿こそが御屋形様でございますな。」  そう前置きをして幻庵は氏政に噛んで含めるように語りだした。 「大殿も目前の大軍を目にして恐れぬという事はございません」 「しかし笑っておられたぞ」 「北條を頼む全ての者を背負う大殿が、敵に恐れをなして縮みあがっていてはそれこそ家臣が従いますまい。いや、従わぬどころか大殿を頼うだる人とは思わなくなり、各国の衆が心もとなくなって参ると離反をも招くでしょう。一国を纏める将とは我を殺して己を信ずるものでございます」  幻庵の言葉に「なるほど」とは言ったものの、氏政はガラス玉のような目をころころと動かすのみであった。
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