小田原乱入(三)

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小田原乱入(三)

 小田原の城攻めから数日が過ぎた頃、謙信は包囲軍を柿崎景家に任せて諸将への指揮権を預けると、自らの軍勢の囲いを解いて再び高麗寺山の麓にある宿河原の本陣に戻っていた。  宿河原の本陣では笹に飛び雀の描かれた陣幕を幾重にも張り巡らせた中に床几を置き、謙信を中心に幕格の家臣が居並んでいる。  皆一様に押し黙っていた。  そこに一人、朱漆塗りの銚子を持った小姓が現れ、謙信の持つ酒盃に白酒しろきを注ぎ始めている。  謙信は自らの持つ酒盃に注がれる酒を眺めながら、如何にも酒好きを表すかのように上唇を舐めてから隣に座る直江実綱に話しかけた。 「直江、小荷駄が奪われたとはまことか」  そう云いながら酒の満たされた盃を口に持って行き、一口味わうように酒盃を舐めた。  白酒に満足したのだろう、一口含んで味わいを楽しむと、後は一気に飲み干してしまった。よほどの酒好きのようだ。 「小田原の伏せ勢と思われる人数、神出鬼没であり小荷駄を防ぐ事叶いませなんだ」  直江の報告を聞きながら空になった盃を小姓に付きだすと、小姓も心得たもので滞りなく銚子を傾けて謙信の持つ盃を満たして行く。 「敵国に入っての戦である、やむを得まい。しかし兵糧を失うた我ら、何時まで戦える?」  満たされた盃を再び傾ける謙信に実綱が語った。 「後続の小荷駄が参ればこの陣、幾日でも続けられまするが、それが無くば良くて当月一杯でございましょう」  盃を口にあてたまま直江を見据えた謙信、しばし動きを止めたが再び盃を呷って飲み干した。 「この戦、負けたな」  いいえ、と実綱が静かに頭を横に振る。 「安房の里見が船を使って兵糧をここ大磯に届ける手筈になっておりまする。間もなく届く頃かと」 「そうか。しかし我らはこの地勢を良く知らぬ。ここに敵勢がやって参ったら持ちこたえる事も難しかろう」  謙信は小田原攻めの兵の悉くを城包囲に充てていた為に、この宿河原を含む大磯周辺には味方の軍勢が少ない事を言った。 「小田原と大磯は指呼の距離、小田原を囲む関東の諸将に御屋形の下知があれば即座に兵が集まりましょう。さらに北條は小田原に押し込めて居りますれば、その点は気にかける事もございますまい」 「ならばよいが」  謙信は初めの熱気も冷めてきたのか、様々な事に対して想いを巡らせるようになっていた。  丁度そのとき、小田原を囲んでいた常陸の屋形が謙信を本陣に尋ねて来た。佐竹右京大夫義昭である。  この佐竹氏、関東八屋形の一つである清和源氏義光流の源昌義を祖とする家柄で、常陸国久慈郡佐竹郷(現茨城県常陸太田市)に土着した名門でもある。  また十二代目の当主に管領上杉家からの婿養子を引き入れた事があるのだが、それに反発した血縁の山入氏との血で血を洗う合戦を繰り返した歴史を持っていた。  今現在でも大掾氏、江戸氏等の独立勢力が近隣に併存しており、国元が不穏な時期でもあった。  騎馬で幾人かの伴廻りを引き連れた義昭、具足の鳴る音も激しく陣幕内に入ってくると、謙信とその家老達の座る一団の前に進み出て謙信に一礼した。 「これは佐竹殿、如何為された?お手前は小田原包囲の陣を受け持っていた筈」  直江が義昭に直接話しかけたのだが、これに気位の高い義昭はむっとした表情を直江に向け、殊更その質問を無視した。  謙信は関東管領の相続を受け越後守護職となっていても、その家臣である直江は常陸守護である義昭からみれば只の陪臣またものである。直答を許される身分ではないのだ。 「不識庵殿、我が佐竹家はこれ以上の滞陣は出来申さぬぞ。この小田原包囲、何時まで続けらるるお心算か?」  再び空になった酒盃に酒を注がれている謙信。この酒豪は底なしだ。幾杯も盃を重ねているのにまるで酔った風情が無い。  また無礼を働いた直江を咎める様子もなく冷めた目で義昭を見ていた。 「右京大夫うきょうのたいふ殿、包囲の陣を何時まで続けるかは軍略に於いての一大事である。おいそれとは口に出す事はできぬ」  この謙信の味方を味方とも思わぬ口ぶりに義昭は怒りを顕わにした。 「不識庵殿は我らをお味方とは思うて居られぬのか!軍略の一大事だからこそお味方の諸将に知らせ置く事が軍勢掌握の手管!それを何と心得られるか」  この剣幕に直江はちらりと謙信を見たが、当の謙信は涼しい顔をして盃を呷っている。 「不識庵殿、酒は程々に致すがよろしかろう。家臣の無礼を其のままに、自らもそのような采配で我らを愚弄するなど以ての外」 「ならば何とされる」  冷たく言い放つ謙信にとうとう癇癪を起した。 「小荷駄も守れぬこの烏合の軍勢に最早勝ち目などはござらん。佐竹家はこれにて退き陣仕る。御免」  義昭はそう一気に捲し立てて謙信の本陣を出て行ってしまった。この日を境に常陸の佐竹家は小田原包囲を解いて帰陣して行く事になる。  残された越後の重臣たちは、佐竹義昭の離反に苦虫を噛み潰したような表情となっていた。 「御屋形様、佐竹家といえば常陸の名門。あのような扱いでよろしいのでござろうか?」  本陣に居並んでいた山内上杉一門の宅間氏に、悄然とした面持ちで話しかけられた謙信。しかしその返事をしたのは直江だった。  謙信は何を思っていたのか、全く表情もなく只管盃を舐めている。 「御屋形様はこの軍勢を集められるとき、関東諸将の態度を見極めると言われておった。これで常陸の佐竹家はこの管領家の相続人である御屋形様を蔑にする家である事がわかった事も収穫であろう」  しかしこの判断、後々謙信の関東計略に大きく影を落とすことになる。 「他に不満を持つ関東の国人はおるのか?」  謙信は再び盃に酒を満たさせている。 「今のとこと目立ってはおりませぬが、今までの上杉家との采配が異なると云う事で不満を漏らす者もおるとか」 「左様であるか」  この日より、あれほど攻勢をかけて気勢も上がっていた小田原包囲軍であったが、小荷駄を奪われた事と佐竹氏の離脱、更に予想以上に守りの堅い小田原城を攻めあぐねる謙信の采配に疑問を持った事によって段々と厭戦気分が蔓延していった。  その頃小田原城一の曲輪本殿にいる氏康の元に、甲斐武田家より使者が来た事が知らされた。  夜陰に乗じて矢文が射込まれ、小田原の城に使者来訪の知らせがあったのはつい先日。  やってきたその使者の風貌は、入道頭の隻眼で傷だらけの顔に足が片方萎えたように歩いているらしい。  氏康は即座に誰であるか判断が付いた。 「そうか、菅介(勘助)が参ったのか」  意外な知人が訪れたかのように、氏康はどこか嬉しそうでもある。 「すぐに通せ」  知らせをもたらした使いに、一の曲輪本殿に通すように指示を出した。 「父上、父上はその、カンスケなる者を御存じなのですか?古き知人が訪ねてきたかのように嬉しげでございまするが」  氏政はこの父の思いもかけなかった一面を見た思いだった。  ちらと倅新九郎を見た氏康、ああそうか、と話してやった。 「菅介が初めて当家に使いに参ったとき、新九郎は八つか九つの頃で奥住まいであったから知らぬのも無理はない」  もう何年前になろうか、今川家との衝突があった折と河越合戦の前年と、二度に亘って菅介と対面したが、晴信が召抱えていなければ自らの家臣としたいものだと密かに思った事があった異相の切れ者である。 「面白き人物であるぞ、新九郎も菅介の人となりを見ておくのも良いだろう」 「ならば儂も同席させて頂きましょう、甲斐の軍師殿をまだ見た事がありませぬでな」  幻庵も興味津津と云った風情である。 「叔父上様も初見でございましたな。ならば同席下され」  本殿板敷きに床几を備え、そこに着座する三人のもとに、不規則な足音を響かせてやって来る者があった。  この特徴のある足音は間違いなく菅介だ。  先に案内役が現れて菅介がやってきた事を告げると、板襖を取り払った主殿板敷きの間の濡れ縁に、入道頭に白布を巻きつけ山伏のようないでたちで現れた。  関東勢に囲まれた小田原城に入るため、近辺を歩いてもなるべく疑われぬように山伏の姿に化けていたのであろう。  濡れ縁に立った菅介、少々歳を取ったように顔の皺が深くなっているように見える。  氏康の顔を見ると笑みをこぼし、濡れ縁にべたりと座った。 「氏康の大殿様には随分と御無沙汰致しておりました。それがし、甲斐武田家の使者として使わされました山本菅介にござる、あ、いや、今は主晴信と共に入道致しまして、道鬼斎と号しておりまする」 「菅介、そうか、道鬼と申すようになったか。よくぞ参った。懐かしいのう」 「氏康の大殿様に置かれては、我が醜悪な面を覚えておいでにございましたか」  これを聞いた氏康は屈託なく笑うと、「そちのような面、忘れようもない。よくぞ参った。まずは中に入れ」そう親愛の情を交えながら菅介を指し招いた。  菅介が小腰を屈めながら板の間に入り、小姓に差し出された床几に腰かけるのだが、それを待ちきれぬように氏康が話しかけた。 「晴信殿も入道されたと云ったな。何時の事じゃ?」  下がってゆく小姓に、すまぬと礼を言った後氏康に向き直り、「二年前の永禄二年の年にございます。徳栄軒信玄と号しておりまする」そう床几を尻の落ち着きが良いように直してから答えた。 「信玄殿と申されるようになったのか」  氏康も笑顔を絶やさずに頷いて見せた。 「信玄殿には此度の援軍、まことに感謝しておる。また軽井沢の地に陣を構えて越後勢の牽制をしてくれた事、これにも礼を言う」 「いえ、此の度の越後勢の関東乱入による小田原攻めに援軍を送るは先の三国同盟による道義を果たしたまでの事、礼には及びますまい」  また、と云うと、菅介は甲斐武田の現状を話して聞かせた。 「こう申してはどうかとも思われるが、この謙信の小田原攻めのおかげで我ら甲斐武田家は信濃と西上野攻めがやり易くなっておりまする。まさに同盟の効用にございます」 「なるほど、信濃と西上野か。いま武田ではどのように進めて居るのじゃ」 「今年に入り信濃では海津城(別名茅津城、松代城:現長野県長野市松城町)を築城して千曲川、川中島の押さえを手に入れることが出来申した。また西上野では長野業正の籠る箕輪城を攻め盗る為に国峰城を伺い、松井田城にも攻勢をかけておりまする」 「相変わらずだな。その抜け目のない動き、菅介の知恵であろう」  氏康は呆れたように笑うと、それに合わせたかのように菅介も笑いを返してきた。 「滅相もござらぬ。これは我が主、信玄公の知恵にございます」 「まぁ良いわ。謙遜するところがそちの奥ゆかしさだな」  二人共に笑いだし、それを治めたあと、「そちらに居られるは御曹司にございまするか?」と、氏政を見た。 「うむ、新たなる北條の当主じゃ。見知り置け」 「左様にございまするか、ならば氏政様にございまするな。氏政様におかれましては初めてのお目通り恐悦至極にござる」  深く頭を垂れる菅介に氏政も初めて声をかけた。 「その方がカンスケであるか、中々の異相よ」  菅介の貌かおに少々奇異の目を向けた氏政に気が付いたが、それに気づかぬ風を装い、「して、お隣の僧形の御仁は幻庵宗哲殿ではござりませぬか?」そう幻庵に言葉を振った。 「菅介とは両人とも初めての顔合わせになるな」  ここで再び深々と頭を垂れた。 「一度幻庵殿とは会うてみたいと思うておったところ。今日はその願い叶い申した」  隻眼から放たれる眼光は北條の軍師と思われていた幻庵を見抜こうとしたものであったのだろう。  しかし幻庵は相変わらずの間の延びたような話し方で菅介に同調するのみだった。 「菅介殿、儂も一度、甲斐の軍師殿をこの目で見たいと思うておりました。できればこのように物騒な時期ではなく、茶でも飲みながら話をしてみたいものでございますなぁ」 「まことに。この謙信との戦が一段落しましたら、一度甲斐の我が屋敷へご招待申しあげましょう。茶の湯に精通された幻庵殿をお持て成しするのは聊か緊張致しますが」 「それは楽しみじゃ」 「ところで」と氏康は幻庵との茶飲み話の腰を折り、今日の使者の本題を問うた。 「信玄殿からの使者の用向き、如何なることかな」  菅介もこの氏康の問いに、先ほどまでの幻庵とのやり取りで見せた柔和な笑みを引っ込めて、事務的な顔つきに変えた。 「氏康の大殿様に申し上げまする。今年に入り我が武田は信濃に海津城を築き上げそこを拠点とする事が叶い申した。これより弘治三年に越後方の物となっていた旭山城(現長野県長野市)を急襲し、合わせてその支城の栗田城(堀之内城とも:現長野県長野市栗田)にも攻め入る心算にございます。あわよくば善光寺平の先にも進み越後を伺う事にもなり申そう」  菅介はそこで一度息を付き、そして少々声を落として続けた。 「ただしこれを推し進めれば謙信、本国越後が危うくなると考えて小田原包囲を解き越後に戻るは必定。そこで謙信が越後に退去した所で我が武田と示し合わせて越後に寝返った関東勢を一々揉み潰して頂きたい」  なるほどこれは北條家にとっても悪い話ではない。  いずれ越後に帰って行かなければならない謙信ではあるが、信濃計略を進める武田家と敵対して信濃善光寺平に釘付けになれば再び北條は関東計略がやり易くなる。  また武田家でも今謙信が小田原で釘付けになっている通り、関東で動けなくなれば信濃は疎かになるのだ。  一方に掛かりきりになっている間に着実に地盤を固める事さえできれば何れ謙信は信濃も関東も抑えられずに越後に押し込められてしまう事になる。  一人で八方に手を伸ばそうとする謙信の弱点を付いた実に効率のよい作戦であった。 「流石に菅介じゃ」  氏康の言葉に再び頭を横に振った菅介。 「それがしの知恵ではございませぬよ」とにこやかに笑ってみせた。 「菅介殿が今川家に士官されておったら義元殿の不幸は無かったかもしれませぬな」  幻庵の言葉に「まさか」と続けた。  菅介が甲斐に戻った永禄四年三月十日は、山には桃と桜が咲き誇り吹く風も温くなりだした頃だった。  八幡山奥へと続く山並みにも新緑が萌え出て新しい息吹が感じられる季節となっているのだが、相も変わらぬのは人間のみのようで、謙信率いる小田原包囲軍十万はどうしても蓮池門をも打ち破る事が出来ずに未だ包囲を解いていない。  このため謙信は蓮池門を攻める関東の諸将の求めに応じて大磯の宿河原から小田原城門前まで再びやって来たのだが、そんな時、安房から海路で運ばれてきた里見からの兵糧が大磯の港に荷揚げされ始めた。  これを待ち受けていた大磯の伏せ勢、松山吉右衛門と野村源佐衛門、更に甲斐の援軍である初鹿野源五郎と青沼助兵衛の手勢が謙信の居なくなった本陣を目指して蜂起し、港に繋がれていた全ての船から兵糧米が荷揚げされた事を確認すると、そこに一気に襲いかかって行った。  越後勢本陣に残った者はこれに対処できるほどの人数もなく、襲われている里見の兵を救出することもできずに指を咥えて見ている事しかできなかったようだ。  この大磯の殲滅戦で里見の護衛を港で討った北條勢は、船に逃げ込んだ者をも追いかけて討取ると船に火を放って焼き払ってしまった。  この知らせが小田原を囲んでいた謙信の元に届いた。 「直江、やはり敵地では地勢が不案内故全てが後手に回ってしまうな」  本陣で小田原城蓮池門を見ながら近臣の直江実綱と報告を聞き、そう諦めに似た言葉を吐いた。  完全に越後勢の糧道を断たれていた事を現実として知らされた様なものであった。 「里見の小荷駄も北條に絡め取られてしまったぞ」 「まさか我らの本陣があった大磯に伏せ勢があったとは思いもしませなんだ」  直江も先日の強気が消えうせたようで、肩を落としている。 「御屋形のご推察の通り、この地はまごう事なき敵地でございました。これで我が方、ひと月も持たなくなり申した」 「まだ負けてはおらぬがこのままぐずぐずと長陣を続けて居れば必ず負ける。ならば当月末日を持って陣を払う事としよう」 「それが良いかと思われまする」  しかしその時、その判断すら許さぬ知らせが越後からの早馬に乗って本陣に到着した。 「御注進!御注進!」  そう叫びながら芭蕉の指物を靡かせた伝令の騎馬武者が『毘』の軍旗を目指して馬を走らせて来ると、近衛の足軽に阻まれて馬を下りた。  しかしその伝令武者の脚は歩く事をせずにそのまま走り寄り、この知らせが只事でない事を周りに知らせている。 「何事があったのでございましょう」  そう云う直江の言葉が謙信に届いたとき、伝令武者が目の前に倒れ込むように片膝を付いた。 「何事じゃ」  ただ事ではない事を悟った直江が早速用件を問いただすと、その伝令武者も直江の返事を待つ時間も惜しそうに慌てながら報告を始めた。 「甲斐の武田勢、先月末、善光寺平に城を築きましてございまする。また千曲川、犀川を越えて旭山城、栗田城に物見を多数出し、更には越後国内までも伺い始めた様子にございまする」  この報告に越後の諸将は一斉に立ち上がった。 「これはまずい、善光寺平を越えればそこは越後。急ぎ引き返して武田に当たらねばならん」  柿崎景家が、そう咄嗟に口に出していた。 「ぐずぐずしてはおられぬ、このままでは近隣の城に武田からの調略が入る恐れがある」  宇佐美駿河守定行の一子、宇佐美定勝もこれに同調した。  他に居並ぶ家臣も口々に越後への退き陣を支持すると、その意見を取り入れる形で謙信が退き陣を全軍に下知したのは三月の十四日も夕暮れ時になってからであった。  日暮れと同時に粛々と小田原城包囲軍を退却させてゆく謙信。  この攻城軍は結果として氏康の糧道断絶の兵糧攻め、更に信玄の信濃侵攻の両面作戦に挟まれて五十日も持たずに陣を払う事になった。  しかし謙信は閏三月十六日、焦る家臣たちを尻目に一度軍勢を鶴岡八幡宮に押しとどめると、北條勢の奇襲を警戒しながらも関東管領補佐の綸旨と山内上杉家の家督を受けたことへの拝礼参賀を済ませる事にした。  古き権威に傾倒している謙信ならではの行動である。  ここで長尾の姓を改め関東管領職を兼ねた越後守護職、上杉輝虎と正式に認められる事になる。  戦国大名上杉謙信の誕生であった。  しかしここで事件が起こった。  思うに関東管領職とは関東騒乱の火種を絶やさぬようにする役職なのであろうか。  自らの関東管領就任の拝賀の礼を果たした謙信によって同行させていた足利藤氏の古河公方就任の義を執り行い、その為に関東各地から同行した諸将に公方拝賀の礼を採り行ったのだが、同時に自らの関東管領補任の披露をする事とした。  これは関東が京の内裏まではほど遠い土地なので、この宮で公方が拝賀の礼を執ることが通例となっていたためなのだが、拝賀を済ませた謙信が藤氏より先に惣門に下って来た時である。  その惣門に馬を止めて馬上で武州忍城城主、成田長泰が待ち構えていた。  これは成田家の家格が高く古くは伊予守頼義や八幡太郎義家の頃からのしきたりで、大将とは共に馬を下りてそこで互いに礼をとる事が通例だった為だ。  成田長泰も古式に則りその礼を執ろうとしていたのだが、幼いうちから仏門に入れられ十五の年までは政治にも古式にも通じる事が出来なかった謙信である。  あまつさえ漸くを持って山内上杉の養子となり関東管領となった事で冷静さを欠いていた事もあったのだろう。  馬上で待ち構えていた成田長泰を見て一気に頭に血が上ってしまい、自らの馬を長泰の馬に近づけると手に持った鞭を振り上げて衆人環視の中、長泰の頭を目がけて打擲を加えたのだ。  この衝撃で長泰の頭上にあった侍烏帽子は無残に吹き飛び、何が起こったのか分からぬままに、鞭を捨てた謙信によって胸倉を掴まれて馬から引きずり降ろされてしまった。  地面に膝で這いつくばるような格好になった長泰を冷たく光る眼で見降ろした謙信には、このとき周りが一切見えていなかったのであろう。  悪い癖である激情が一気に噴き出していた。 「関東管領に任じられ、更には上杉家の家督となったこの輝虎を馬上で迎えるとは。古今これほどの無礼を働く者があったろうか。管領に対しての成田家は古くよりの家臣である。ならば家臣が主人に対し馬上で出迎えるなど、主従の作法にこのような事は許されぬ」  関東における古式典礼をまるで知らない謙信。  この驚愕の事件を目の当たりにした関東諸将も目を見張り愕然としていた。 「ふん」と鼻を鳴らした謙信は、随伴していた近臣と共に自らの陣へと帰って行ってしまったが、残された成田長泰は治まるものではない。  鞭で打たれた額から血を滲ませて歯を鳴らしていた。 「おのれ越後の若造め、今し方管領の職に就いたからと云って逆上のぼせ上りおって」  成田家の直臣である別府、玉井、奈良、酒巻の人数に囲まれて立ちあがった長泰、ざわつく関東諸将の見守る前で自陣へと戻って行った。 「これは新しき管領殿とは恐ろしき人物であるのぅ」 「本当に猛々しい大将だ。上杉家の旧臣にもかかわらず、あれほどの扱いをするとは」 「我らも今後、どのような扱いを受けるかわかったものではないな」  関東諸将が、次は自らがこう扱われるのではないかと疑心暗鬼に陥るほどの侮蔑的な謙信の行動であった。  此の事件が謙信の関東における人気に冷水を浴びせる結果となるのだが、謙信本人のみ気づく事は無かった。  また一方の長泰は怒りを爆発させていた。  顔を赤く紅潮させ怒りで肩を震わせながら自陣としていた近くの寺に戻ってきた長泰、即座に家臣一同を近くに呼び、この後の身の振り方を伝える事になる。  陣幕内に入っても、用意された床几に座ることももどかしげに家臣達に振り向いた。 「我が成田家は源氏の家祖、八幡太郎義家様の頃からのしきたりで御大将と共に馬を降り、そこで互いに礼を執る家柄であった。これを越後長尾の小倅が知らぬでも仕方のない事ではある。しかし儂は小なりとは言え武州忍領を治める者である。それを衆人の見守る中で恥を加えられた。これは返す返すも無念である」  そう自らの胸の内を言い並べるのだが、この言葉に現場で主人を辱められた家老達は取り成す言葉を持たず、それどころか主長泰を支持している。 「こうなったからには直ぐに忍に帰り、小田原と手を組みこの恨みを晴らそうと思う」 「殿の言葉、尤もにございます。謙信公の行いは我が成田家を愚弄するもの。最早従える人物ではありませぬ」  家老の一人、酒巻靱負さかまきゆげいが真っ先に同意すると、居並んだ家老達も否やは無く、みな頷き合い同意していた。  この日、成田家は即座の陣払いをして一族郎党千余人が月に三ツ引き両の旗を靡かせながら全て武州忍領に帰陣して行った。  しかしこの事件は成田氏のみに留まらず、一部始終を見ていた他の関東諸将も謙信のこの行動を疑いの目で見るようになっている。  始まりは小田原を鎧袖一触に屠るかと思っていた越後勢だったが、予想以上に小田原城を攻めあぐね、あまつさえ糧道を断たれ荷駄隊を奪われる体たらくを見せた。  また小田原を包囲している間に自領越後が危険に晒されたと知るやさっさと包囲の陣を纏めて退却。その失敗を隠すためなのか帰り道の八幡宮拝賀で威を見せたかと思うと余りにも暴虐な態度を顕わにしたのである。 『これは頼むに足る御大将とはならぬ』  これが関東諸将の謙信像であった。  成田家が鎌倉から帰陣するのを見計らうと、我も我もと越後勢のみを鎌倉に残して関東諸将のほぼ全てが自領に帰って行ってしまった。  幻庵の予想していた事が現実になった。  残ったのは越後勢と合わせても僅か二万の兵のみ。  しかし謙信、ここで何を思ったのかこの二万を率いて鎌倉を発行、北條常陸介氏繁の籠る玉縄城を攻撃目標とした。 「御屋形、関東諸将が散ったこの時に何故玉縄城を攻めるのでございますか?」  さすがの直江もこの謙信の動きに納得が行かなかったらしい。  信濃越後境も緊張が走っていると云うのに、関東の協力者の粗全てを失った今、何故玉縄城攻めなのか。 「御屋形」  直江の問いに謙信は答えない。鎌倉の鶴岡八幡宮から玉縄へと向かう行軍中、只管馬上で盃を呷っているのみだ。  八幡宮から玉縄城までは一里程しかない。それこそあっという間に到着するのだが、それだけが攻撃理由だったのだろうか。  実は謙信、まさに帰陣の手土産欲しさに玉縄城を攻めたのである。 「ただで越後に帰るのは面白くない。儂はこの小田原攻めで北條の血に連なるものが籠った城をまだ落としてはおらぬ。故に手近なこの玉縄を落としてから越後へ戻ろうと思う」 「御屋形、それは本心から言うておらるるのですか?」 「左様である。直ぐに城攻めに取り掛かれ」  最早謙信は何かに憑かれたかのような行動を取り始めていた。  しかしこの玉縄城も小田原攻めの初日より籠城の為に武器弾薬、兵糧も充分に備蓄した城である。堀も深く穿ってあり塁も高く盛り上げられ、全てに土塀、逆茂木が植え込まれた堅城なのだ。  越後の遠国からやって来て小田原攻めで疲れきった、兵糧を失った二万の兵にそんな城が落とせるはずもない。  二日ほど城を囲んではいたが、城門に攻め寄せた兵を鉄砲玉で数多く失うだけであった。  結局は何の結果も得られぬままにこの陣も払い、太田三楽斎と長尾義景、三田綱秀を先陣に付けて武蔵府中方面に退却していった。  この関東攻め程謙信の面目を失った合戦もなかったであろう。  そしてこの越後勢退却を知った忍城主成田長泰、面目を施すはこの時と使者を急ぎ小田原に遣わし、離反した詫びを入れてから再び北條氏の傘下に入る事を伝え、退却中の越後勢の追撃を言上。  これを受けた氏康は、中条出羽守と茂呂太郎を差し向けて退却中の殿を受け持っていた柿崎和泉守景家の部隊に攻撃を加えて数百騎を討取った。  しかもこの柿崎隊は残り少なになっていた兵糧を積んだ小荷駄隊だった為、結局謙信は一粒の米までをも失い、府中の百姓の家々を襲って米を奪いそれで糊口を凌いで上州厩橋の城まで去って行く事になった。
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