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関東騒乱(一)
謙信が小田原を退却した永禄四年四月、越後勢本隊は上州厩橋の城に無事に戻る事ができた。
また一方で下総の古河城に詰める関白近衛前継、近頃は名前を改め前久と名乗っているようだが、これをそのままに鶴岡八幡宮から同道させていた足利藤氏を入れると、その支城の関宿城には梁田晴助を北條家の押さえとして入れる事にした。
これとは別に動いていた太田三楽斎と三田綱秀の一隊は、当時神宮寺じごじ村と呼ばれた現東京都八王子市元八王子町に入っている。
ここは北條方武将大石氏の籠る松嶽城(浄福寺城とも)がある下恩方村に近く、元々は管領上杉家の旧臣である大石氏の領地である。
大永年中木曽義仲の苗裔大石源佐衛門尉道俊がここに居城を構えたとあるのが松嶽城だが、そこはまた三田綱秀の居城勝沼城(現東京都青梅市)に進む道程を厄するものでもあった。
その大石氏を牽制しての勝沼城入りで、松嶽城は太田三楽斎と三田綱秀によって焼かれ籠っていた大石親子は氏照の寄る滝の城へと退却して行った。
松嶽城を焼き払った三楽斎と秀綱は大石氏からの巻き返しを受ける事も無く、無事に勝沼城に入るとそのまま三田綱秀を勝沼城の抑えとして残し、三楽斎は単独で行軍。北に進路を取り上杉憲勝の籠る松山城で一旦休息したのち、自城岩付城へと戻って行った。
また三田綱秀は、焼き払ったとはいえ何時松嶽城跡に砦が再構築されるか分からないために、そこからの攻撃に備えて詰め城辛垣からかい城と楯ノ城、枡形山城等の築城を始めている。
これは北條氏に対する備えではあるのだが、しかし武蔵国多摩郡方面で越後に続く将はおらず三田氏は孤立する事となった。
今残る上杉勢と言えば里見は安房の地に遠く、常陸の佐竹とは折り合いが悪くなったのは先の通り。
箕輪の長野業正は病床に伏して今日明日とも分からぬ病状となりながら武田の軍勢と鎬を削っている最中で、嫡子業盛は未だに若い。これは謙信の勢力として力にはなれぬ。
下総の古河の地に公方藤氏と関白近衛前久はいるがこれは権威のみ。実働戦力は関宿の梁田晴助を筆頭とする公方奉公衆なのだが、晴助以外は殆どが日和見となってしまっていた。
上州では白井長尾氏と総社長尾氏等の、地理的にも越後に近く管領上杉家とも血の近いものが残る程度に縮小している。
謙信の関東での勢力は小田原退去を境に一挙に崩壊していたと言っても過言ではない状態になっていた。
関東列侯は既に謙信に魅力を感じなくなっていたのだ。
この不運は謙信自らが招いたとも云えるのだが、小田原から厩橋に帰って来ると直ぐに、小田原攻めの盟主であった上杉憲政が病気で倒れると言った謙信の責に帰さない不慮の不運も続いた。
また北條家が小田原城を包囲されたとはいえ重要な支城は落とされてはいない事も要因の一つであったろう。
さらにこの厩橋城でもあまり統制が取れていなかったと思われる逸話もある。
謙信が厩橋へ戻る一日前の事、『謙信公が城に戻られたら、二心した成田の人質が殺されるだろう』との噂が城内に流れた。
厩橋城には成田長泰の一子若王丸とその家老、手島美作守が人質として謙信に取られていたのだ。
ところがこの関東攻めで恩賞に有り付けなかった夜回りの足軽がいた。
これが謙信に討たれるとの噂を聞き及んだ成田の人質、手島美作守と交渉し、忍領に戻ったら自分を三十貫の知行取りとして仕官させてくれれば御身を助けると手引きして、無事に脱出させている。
この脱出の時に長泰の三男、若王丸は追手から逃れるために川に入ったがそのまま溺れて死んだ。これは後に成田氏のお家騒動にも繋がっている。
そして永禄四年六月。
小田原城では謙信が去ってから二ヶ月後、既に隠居の身である氏康が剃髪して入道し、万松軒と号する事となった。
これは急な病発症の為に国政の任に耐えない為、今後は仏に帰依し以後国政を家督氏政に譲ると内外に発表したものなのだが、本来の理由は祖父早雲が腐心して攻略し、父氏綱が関東の鎮護の城として手を加えた北條家の本拠小田原城を、軍略の一環とはいえ曲がりなりにも越後勢に城門を踏み荒らされた事の責任を取る為であった。
「大殿様、まことに髪を下ろされるのですな」
導師役となった叔父幻庵宗哲が、そう氏康に言葉をかけたのは城内位牌の間。
八間四方(八坪、十六畳)の板敷きの間に、彫刻が施され金銀などで飾られた重厚な仏壇が置かれている。
また日々の掃除も行き届いており床には塵一つ無く、仏間自体の襖絵、欄間の透かし彫りに至るまで装飾も美しく施されていた。
そこに座している二人の前にある仏壇は内側全体に金箔を押して中央に釈迦如来の像を祭り、隣に祖父早雲、父氏綱の位牌を並べてある。
手前の香炉からは煙がたゆたっていた。
一通りの読経を終えて香を焼べ、深々と位牌の前に頭を下げた氏康、姿勢を戻し幻庵に向き直った。
「この越後勢の小田原攻め、結果はどうあれ世間に取沙汰されるは城を囲まれたこの氏康の不甲斐なさにございましょう。なれば頭を丸めて入道し、国政から身を引く頃合いかと。また新九郎の後見をして今後の関東調略を為さば、新九郎は父を越えたとの評判も上がりましょう。謙信の退いた関東を骨抜きにするには今がまさに丁度よい時にござる」
幻庵は柔和な顔を崩さずに氏康の言葉を聞いていた。
「御覚悟はできておられるようにございまするな。」
そう云い唱文を唱え始めた。
二人のみの得度式である。簡易に進めて戒文を授けると、愈々剃髪となる。
「ならば、これよりお頭つむりを剃り毀ちまするぞ」
幻庵は用意された剃刀を持ち、氏康の頭を丸めて行った。
髪を下ろし終わり、受戒を済ませた後に氏康を改めて見た幻庵、
「大殿様、これで儂と同じ仏弟子になられましたな」
そういって青々と剃りあげられた氏康の頭を愛おしげに見た。
「これは涼しいものにござる」
氏康は自らの丸めた頭に手を置いて、感慨深げに撫で回していた。
さて、これで氏康も法号を得たので、この物語の中でも今後は氏康を万松軒と呼ぶ事にしよう。
その万松軒、位牌の間を出るとそのまま広間へと移動していった。
今後の関東における指図をするためである。入道後の初仕事だ。
広間に移動する万松軒に侍る小姓は頭を丸めた我が主人を見て目を丸くしていたが、それには構わずに氏政と小太郎・風間出羽守を、また小田原に出仕している江戸衆の遠山綱景と富永直勝を広間に呼びだすよう命じた。
桜の花も満開の時期をこえて葉桜がぽつぽつと現れだしたこの時期、大した戦火に見舞われなかった伊豆相模は落ち着きを取り戻した事もあって武蔵と下総、上総、上野をどう取り返すかに思惑は移っていたようだ。
永禄四年のこの時期、北條家にとっては謙信に荒らされた関東を、再び地均しするための鍬入れの年とも云えた。
万松軒の呼び出しに応じた氏政が、広間までの廊下を、足音を立てながら現れると、少し遅れて小太郎もやってきた。
「父上、お呼びにございまするか」
普段着の素襖姿の氏政が広間の縁で座り軽く頭を垂れると、大柄な体を窮屈そうに屈めた裃姿の小太郎も縁で平伏する。
「新九郎、まずはこちらに座れ」
顔を上げた氏政にそう手招きして自らの横に呼ぶ万松軒。小太郎も入るが良い、と風魔の棟梁も氏政の後方に招き入れた。
「新九郎、今日そちを呼んだは他でもない。そちは北條の棟梁である。これよりは我が傍におり政の全てを儂と共に見る事を命ずる」
氏政のガラス玉のように光る眼がころりと動いた。
「それは父上と共に政を執る事を許されたという事にございますか」
「うむ、まずは我が傍らに居って学べ」
この思いもかけぬ言葉に氏政の顔は輝いた。
北條家を継いで初めて当主としての仕事をこなすことを命じられた事が余程嬉しかったのだろう、喜々とした表情で万松軒の隣に座った。
「新九郎、そちもこれから儂の言う事を良く覚えておけ。今まで儂は北條家に評定衆をおいて様々な政や戦の評定をさせてきた。これはその家を治める主の下に、評定を行える衆を置いたものであるが、これは主が後見をするのみで領地全域を全てこの衆で采配するための下地としてきたものである」
つまり万松軒は、北條家の政治を主人の単独采配ではなく、衆における官僚政治組織としての雛型を作っていたのだ。
これは後年、織田信長が作ったとされる官僚制度の先取りとされ、北條家のこの組織を徳川家康が倣って作り上げたものが江戸幕府における官僚機構だったとも言われている。
「これより後は更にこれを分けて分国にも置き、在地領主の自儘を許さぬものを作ろうと思う」
万松軒は先ず、と文箱から筆と半紙を取りだし、そこにすらすらと暫く文字を書き並べていたが書き終わると氏政に手渡した。
「これは今まで在地家臣を衆としてまとめたものである」
そこには、西郡代・中郡代・北郡代・奥郡代と書かれ、一段下に家老と書かれていた。
更に一行を置いて玉縄衆・江戸衆・河越衆・伊豆衆・津久井衆・諸足軽衆・他国衆と書かれており、また少し間をあけて御家門衆・小机衆・御家門方とも書かれていた。
各衆の所には一手役と書かれており、そこには各支城の城代が、また大指南との項目にはその支城から他国に使者として赴ける取り次ぎの者の名が記されている。
さらに今まで氏康の馬廻りとされていた者は小指南と書かれており、本城小田原から派遣され、各支城での奉行や臨時の城代となる事が明記されていた。
ちなみに軍事に於ける北條五色備えは白備えを笠原康勝、黒備えを多目元忠、青備えを富永直勝、赤備えを北條綱高、黄備えを北條綱成としているが、これは各国衆に含まれている。
「これは?」と目を白黒させる氏政を尻目に、
「儂は今より、国衆の結びつきを更に強固なものとするため、衆を作る事にした」
そう北條家の家臣官僚化を宣言していた。
「まずはこれを覚え、慣れ親しませて家臣に従わせる。それを新九郎にまかせるぞ。関八州を抑える為にはこの衆と云うものが必要になって来る」
広大な領地を支配下に治めるには一人の英雄だけの切り盛りでは間に合わない。また在地土豪等は中央の制御から離れると直ぐに独自の動きを始める恐れがあるのだ。
これを防ぐためにはどうしても官僚機構が必要になる。
万松軒は祖父早雲から御由緒家・駿河・伊豆・相模・御家門方に分けられていた家臣機構を、更に細分化し具現化しようとしていた。
「それぞれの衆を分限、貫高を持って分け、しっかりと治めてみよ」
氏政は手渡されたその半紙を見ながら、この父の遠大な計画と威に打たれたかのようにその隣で畏まって返事をするのみであった。
倅氏政から正面に畏まる小太郎に目を移した万松軒、氏政に出した指示とはまた別な命を下した。
「小太郎、その方にちと頼みたい事がある」
大きな体を小さく折りたたんだ小太郎、大きな鉤鼻が床に触れそうなほど頭を下げた。
「何なりと仰せ下さりませ」
体は小さく折りたたんでも小太郎、声は大きいようだ。
「今よりその方の手勢を使って信濃・越後境、また箕輪方面に素破をばら撒け。武田と上杉の動きと箕輪の長野を調べ上げるのじゃ」
上背のある小太郎が更に岩のように丸まった。
「中継ぎも多く忍ばせて逐一子細漏らさず知らせを寄こすように」
「畏まりましてございます」
小太郎が返事をしたとき、丁度風間出羽守も広間にやって来た。
「遅くなりましてございます」
広間の縁に座り一度平伏してするすると広間に入り、濡れ縁近くに座る。
「出羽、近くに寄れ」
万松軒が自らの正面に座るように促すと、出羽守は一度頭を下げて正面に躄いざり進み小太郎の脇に着座する。小太郎が脇に座を空けて出羽守に譲った。
「お呼びにございましょうか」
「うむ、その方の配下を持って久留里の里見、岩付の太田、古河の藤氏とその奉公衆全て、また石戸と松山の城に素破を送れ。それと厩橋、沼田にも人数を送って謙信が動向を逐一知らせて寄こすように。合わせて日和見な態度を取る者には再び北條傘下に戻すために内応の間者も送れ」
「畏まってござる、では早速に」
そう云うと、風間出羽守と小太郎は揃って万松軒と氏政の前を辞して行った。
直後、入れ替わりで遠山綱景と富永直勝が広間に到着し、二人共に並び広間の縁に着座して万松軒と氏政に挨拶を始める。
「景綱、参りました」
「直勝、参上いたしました」
二人は先程まで風間出羽守と小太郎が座っていた所に着座すると直ぐに万松軒が声を掛けた。
「二人共にこの度の江戸城詰め、苦労であった」
遠山綱景は万松軒の言葉を聞いた後、再び深々と頭を畳に擦りつけるように平伏すると、
「此度は誠に面目これなく、申し訳の次第もございませぬ」
そう詫びを入れ始めた。
これは遠山綱景が江戸城に詰めていた折り、里見方の綱城大炊助に葛西城を攻め取られていたためなのだが、一斉に押し渡って来た連合軍を江戸の城で支えなければならなかった江戸衆に、葛西の城も無事に押さえよと云うのも酷な話ではある。
しかしこの為に下総の橋頭保である葛西の城を守りきる事が出来なかったのだ。
「十万を超える軍勢で寄せて来たからのぅ、江戸の城を守り切っただけでも良しとせねばなるまい」
幻庵の言葉が綱景を救い、場の緊張を少なからず和らげてくれたようであった。
「左様、過ぎた事は気にせずとも良い。しかし奪われた城をそのままにする事は許さぬ。これより江戸衆の遠山、富永、太田の総力を挙げて下総の葛西城を攻め取る事を命ずる。そして遠山は再び葛西の城代として入れ」
万松軒の恩情とも取れる措置に深々と平伏し、早速葛西城攻めの支度の為に遠山と富永は広間を去り、江戸城へと帰って行った。
「さて」
遠山と富永も去った広間で、倅氏政に問いかける様に声をかけた万松軒。
「はい」と返す氏政に岩付をどうするか、謎をかけてみた。
「岩付の三楽斎じゃが、あやつは中々に強情である。謙信が関東入りすると直ぐに北條を見切りおったわ。家柄からも義氏様付きにして様子を見てみたが、最早三楽斎を我が方に引き込むのは無理であろうと思う。ならば新九郎、そちならばこの三楽斎をどう攻略するが良いと考える」
氏政が数瞬の沈黙の後にガラス玉の目をころりと光らせた。
「三楽斎の子に資房(後の氏資)、政景(梶原)、資武、景資、資忠等が居りますが、この内の資房は我が北條との誼が深こうございます。父資正とは我が方に付くか越後に付くかで親子が不仲になっておるとも聞くところ。また、資房には妹が室として入っておりまする」
「うむ、して、それをどう利用するが最も良いと考える?」
「まずはこの資房に人を送り我が方に付くように懐柔するが良いかと」
「では父の三楽斎はどうする?」
ここで氏政は急に冷たい表情に変わった。
「幾度も我が北條に反旗を翻す三楽斎は何れ滅ぼさねばなりませぬ。ならばここはその三楽斎の知らぬ間に子を離反させ、あわよくば亡き者とする事ができれば岩付も治まるのではありますまいか」
冷たい表情の片方の口角をにやりと上げた氏政だったが、その腹を見透かすようにガラス玉をじっと凝視する万松軒を見たとき、これは何かまずい事でも言い放ってしまったかと背筋に冷や汗を流した。
「新九郎、その考えも良いものである。資房への調略、まずは進めてみよ。しかし三楽斎の人望と影響を甘く見るでない。在地の土豪等にはまだまだ影響力のある三楽斎じゃ、倅と父、合わせて懐柔できる事が望ましい」
事実、三楽斎が発給した判物は一部ではあるが現存しており、この永禄四年に比企左馬助へ、勝呂(現埼玉県坂戸市石井)の西光寺分と河越庄内小室矢沢百姓分を安堵すると書かれた書状等が記録として残っている。
「しかし三楽斎は幾度も我が北條と刃を交えておりまする。そう易々とは従わぬかと」
「わかっておる。しかし事を拙速に運ぶことは良しとせぬぞ。闇討ちなどすればそれこそ岩付は従わぬであろう。資房も例外ではあるまい」
「まずは外堀から埋めて行く。と云う事にございまするか」
「三楽斎は公方義氏付きとなった事もある故、儂が推挙して親子共々に義氏から官位を賜われるように取り計らってみよう」
「なるほど官位」
まだこの頃の関東には、権威の象徴である官位を古河公方に賜る事が褒美の一つとなっていた。また官渡名を名乗れる年と判断された地方の有力豪族等にも懐柔策とされていたようである。この時期からやや後年になる天正期にも下総の地侍に宛てた官渡状が何通も残っているのだが、まだまだ実力は無くなっても室町幕府の権威は絶大な効果があったのだ。
関東でいえば古河の公方がその官渡名の発給者になる。
「また闇討ちを我が北條が唆そそのかすなど以ての外ぞ。そちの祖父、春松院様(氏綱)の五ヶ状の訓戒を忘るるべからずじゃ」
これは五ヶ状の訓戒の一、大将から侍に至るまで義を大事にすること。を言っているのだろう。
「畏まりました。では手始めに太田親子を我が方に引き入れる為に手を砕いてみましょう」
「手を尽くしても従わねば、その時は武力を持って攻めるが我が北條の常道と心得よ」
氏政は得心したように頭を垂れた。
「それと外交じゃ。まずは河越に援軍を差し向けてくれた駿河の氏真殿の家臣に対して感状を認めてみよ、それはそちの名のみ認めれば良い。また働きが目覚ましい者には新しく領地を宛がわねばならぬ。これは儂との連名によって書状を発給する」
こうして氏政は、万松軒から外交の手ほどきを受けはじめた。
この時に発給した書状で、今川氏真の家臣で河越籠城衆となった畑彦十郎や、小倉内蔵助宛てに送った感状なども発見されている。
さて、氏政が万松軒に手解きを受け始めてから幾日か過ぎて六月に入ると、甲斐の軍勢が行動を起こし始めた。
越後方であった割ケ岳城(現長野県水上郡信濃町)が落とされ、さらに信玄が扇動した一向一揆が越中で蜂起したのだ。
越後国境に近い川中島付近で動き出した信玄に対し何らかの措置をとらねば国元が危うくなった為、越後に戻りたがる家臣の言を入れた謙信は六月に厩橋城を退去して越後へ去って行く事となった。
また八月に入った頃、上州箕輪の城主で管領上杉家の要でもあった長野業正が死んだ。跡を継いだのは未だ若い十七歳の嫡男業盛。
この若い嫡男には、無情な運命がこの父により定められる事になる。
業正の臨終の際に、主人を見守る家臣達共々に遺言を残しているのだ。
曰く、
『我が葬儀は不要、遺骸は菩提寺に埋め捨て一里塚と変わらぬ墓を建てよ。敵兵の首を一つでも多く墓前に並べることが最大の供養である。降伏はするべからず、力尽きなば城を枕に討ち死にせよ。これが孝徳と心得べし』
この遺言には業正の死を隠し、攻勢をかけている武田勢に隙を見せるなとの意味も込められている。葬儀をするな、墓石を一里塚と変わらぬものにせよという言葉が、まさに死を秘匿せよと言っているものであろう。
この遺言を守った業盛は、前年の永禄三年に小幡憲重・信貞親子を追い落として手に入れていた国峰城(現群馬県甘楽郡甘楽町)の城代小幡景純に対して城の補強を命じている。
また松井田城(現群馬県安中市)の諏訪氏へ、武田に対して共同戦線を張る旨使者を出していた。
しかし此の頃、信玄は三ツ者を大量に動員して逸早く業正の死を察知しており、抜け目なく調略の手を伸ばしている。
先の国峰城の前城主、小幡憲重、信貞を使い景純を支持していた家臣の切り崩しを内々に進めさせると、諏訪氏に榎下城(現群馬県安中市)に押し込められていた元松井田城主、安中氏にも使者を出している。
これは松井田城が安中氏の基盤を持つ事を考慮し、松井田城の諏訪氏を攻略する下地にするためであった。
さらに岩櫃山城(現群馬県吾妻軍吾妻町)の斎藤越前守憲広の臣下で、同城に入っていた斎藤一族の斎藤則実、海野一族と言われている海野幸光・輝幸へ調略をかけると、その三人が武田への内応の意思を匂わせはじめた。
また斎藤氏の近隣領主である鎌原城主、鎌原宮内少輔幸重を狙い、丁度この頃領土争いで仲がこじれていた二人の間を見計らうと、真田幸隆を使者として差し向け鎌原氏を斎藤氏と反目させる事に成功している。
いよいよ信玄による上野侵略多方面作戦の始まりでもあった。
そして謙信は、信玄との対決準備の整った永禄四年八月、越後から一万八千の人数を率いて川中島へと出陣して行った。
第四次川中島の合戦である。
謙信は全兵力のうち荷駄隊と五千の兵を善光寺に残し、自らは一万三千を率いて犀川、千曲川を渡ると八月十六日、武田勢の高坂昌信が籠る、善光寺平を北東に見る妻女山に陣を置いている。
謙信来襲の知らせをその日の内に甲府で受けた信玄は、軍勢を引き連れて出陣、二十四日に妻女山の西半里にある塩崎城(現長野県長野市)に陣を置いた。
しかし合戦初日の睨み合いが始まると両軍はそのまま膠着していた。
これは妻女山から見ると信玄が西の塩崎城に入っており、北東の海津城に高坂勢が居たことから謙信が動く事が出来なかったためである。
迂闊に攻めれば高坂か信玄のどちらかが背後に寄せて来る。
この膠着を嫌い最初に動いたのは信玄だった。
謙信が妻女山上で気づかぬ内に塩崎城から海津城に全軍を入れる事に成功した。
だが、信玄の海津城入りでも謙信が妻女山から動く事はなく、謙信と信玄の腹の探り合いが始まった。
そのころ、小田原の万松軒の元から小指南とされた横地氏が武蔵は滝の城(現埼玉県所沢市)に使者として使わされていた。
滝の城とは柳瀬川を南東に堀とした城で、現在は一の曲輪に城山神社が鎮座している。
またその一帯が『城』と地名が付いているのが面白い。
その柳瀬川対岸に氏照の居館があった為に使者を迎え入れたのはその居館の方であった。
「小田原よりの使い、苦労であった。して、父上の御下知は如何様なものじゃ?」
この氏照、大石家に養子に出されて後、本領を由井領に持ったために由井源三を名乗る事もある氏康の三男である。
丸顔で髭が濃く、眉が太く跳ね上がる骨相は中々に武者魂が宿る顔であった。
しかし意外な事に常に冷静であり外交による政治に興味を持っているようなのだが、この時はまだそれは現れていない。
甲冑姿でやって来た小田原の使いは、小指南に指名された横地氏なのだが、この横地氏は元々氏照の養子先、大石氏の治める滝山衆の一人だったので氏照とも面識はあった。
兜を背中にはね上げた横地は庭先で片膝を付き、砂の上で氏照を見上げた。
「氏照の殿、お久しゅうございまする。此の度はそれがし、小指南の役目を仰せつかりまして、こうして殿にお目通りが叶いました」
「よくぞ参った。小田原の状況はどうなっておる?」
「最早小田原攻めの傷も癒えましてございます。いえ、そもそも傷も付かなかったかと」
これを聞いた氏照は大声で笑った。
「ならばこれよりは越後勢に靡いた関東の諸公を平らげよとの父上からの下知であろう」
「如何にも左様にございまする。大殿様よりの御下知でこれより直ぐに兵を集め、まずは勝沼の三田を攻め、成敗が終わり次第毛呂要害を攻めよ。との事でございました」
この毛呂要害とは現在の埼玉県入間郡毛呂山町にある龍谷山上に残る龍ケ谷城である。
要害ようがいが龍谷りゅうがいに訛ったものだと言われている城だ。
「心得た、して父上は御出陣なさるのか?」
「はい、小田原勢も今日明日のうちに出陣し、四月に焼かれた大石殿の要害、松嶽城に本陣を移すとの事にございます」
「父も来られるのだな」
「はい。また大殿様は築城の御下知もなされましてございます」
「ほう、何処へ城を作れと申された?」
「滝山の地に」
「滝山か、我が所領の由井にも近く、また謙信が越後より上って来る時の要害としても使えるかも知れん。なるほど良き所に目を付けられたものよ」
氏照は暫く築城に付いて考えていたようだが、ふと顔を上げ小田原の使者となった横地を見た。
「大義である。小田原に帰ったら直ちに氏照は勝沼の地に攻め寄せるとお伝え申してくれ」
そう伝えると、翌日氏照は動員できるだけの兵を集めて電光石火、三田氏の籠る勝沼城へと寄せて行った。
この氏照からの返事を持ちかえった横地の報告を聞いた万松軒と氏政は、即座に小田原の兵を率いて松嶽の要害に向かい出陣、二日後には下恩方村へ入った。
村人を動員して焼けた松嶽要害を地均しし、逆茂木や塀を土塁上に作り、簡易な屋敷と兵の居所となる寝小屋を城下に多く並べ、そこを勝沼攻めの本陣として短期間で作り上げたこの城、後年には氏照が作る八王子城の搦め手を守る北方の支城、浄福寺城である。
さて勝沼城に籠っていた三田綱秀だが、この小田原方が攻め寄せる事を考えて勝沼城を退去すると、小田原包囲から引きあげた直後に縄張りを始めていた三城の内、最も西にある山城辛垣城へと本拠を移している。
これは西北最奥にある辛垣城を本拠とし、順を追って枡形山城、楯ノ城、西城、勝沼城を要害として連続させ、これを持って北條氏に対抗させたものだ。
大石氏照の寄る滝の城がある所沢方面と、小田原から攻め寄せる道筋にある松嶽城の両方から遠ざかるように青梅街道沿いに要害を並べた計画的な要害の配置とも云える。
青梅の雄、三田氏が北條氏と全面対決を考えていた証でもあったろう。
万松軒の下知を受けて滝の城を出陣した氏照は、勝沼城手前にある今井氏の籠る今井城(現東京都青梅市今井)、を攻略してそこを本陣とすると、翌日には勝沼城に先陣を差し向けて今にも城を攻め落としそうな勢いであった。
そんな中、今井城本陣で床几に腰掛けていた氏照、楯の台を斜めに挟んで座る義父大石定久に話しかけた。
「義父上、義父上のお力で三田綱秀を降す事、叶いますまいか?」
この大石定久は、娘比佐の婿養子として氏照を大石に迎えたあと、武蔵守護代の座と滝の城を譲り、隠居・入道している。
現在は心月斎と号して法名を道俊と称し、戸倉城(現東京都多摩郡五日市)に隠居していたのだが、謙信小田原攻めの折り氏照に譲っていた旧領下恩方村の松嶽城に入っていた。
しかし先の通り小田原攻めから退去してきた三田氏と太田氏の攻撃により心月斎の詰めていた松嶽城は落城、氏照の居城となっていた滝の城に退去していたのだが、この勝沼攻めには氏照の一翼となって参加していた。
「綱秀殿は中々に一本気な御方じゃ。北條殿に一度は靡いたとはいえ、そもそもは管領上杉家の旧臣の家柄。餌を撒いてもそうそう食いつく事はありますまい」
心月斎は剃りこぼした頭の代わりに白い豊かな髭を生やし、皺も頗る深く刻まれた老境に入っている人物である。若干目の周りが落ち窪み始めているが、しかしその眼光は、やや怪しい光を伴っているようにも見えた。
「左様でございまするか。しかし義父上と三田殿との間柄なれば我が方に付かせる事もできるのではありませぬか?」
この言葉に、一瞬だが何故か心月斎は声も立てずに笑ったような表情をした。
「どうされた?」
氏照は少々不快な気分になりながら義父の所作の意味を探ろうとした。
また氏照としてはこの青梅を地盤とした三田氏が大石氏と共に北條に靡いてくれることを願っている。もちろん自領の由井が荒れるのを嫌っての事でもあるが、三田は大石と並んで管領上杉氏の家老の家柄、この影響力を手放すのは少々惜しいとも思っていた。
「無理でござろうなぁ。今は謙信殿が越後に戻ったとはいえ、毛呂要害の顕季殿や岩付の三楽殿、松山の憲勝様が居られる故」
「三田殿の救援としてその者たちが馳せ集まると申されるのか?」
「綱秀殿が移られたと言われる山城(辛垣城)、これは攻めるに骨が折れましょう。落とすまでに何年かかるか、この間に再び謙信が寄せて来ぬとも限りませぬ」
「義父上の申される通りにござる。それ故小田原の父上は腰を据えて掛かれと暗に言われたのかも知れぬ」
本来であれば短兵急に攻め寄せ三田氏を軍門に降そうと考えていた氏照だったが、この義父の言葉を怪しみ、万松軒の下知の一つである滝山城築城を絡めて長期の戦を考え始めた。
「小田原の大殿様は何と申して来られたのでござろう」
「滝山の地に城を築け。との事にござる」
この言葉に心月斎は一瞬だが目を見開き顔が紅潮した。
「義父上、どうされた?」
「い、いや、なんでもない」
この後氏照は家臣を呼ぶと滝山城築城の為の奉行を任命し、急ぎ現地に派遣して縄張りをはじめさせている。
合わせて三田氏の要害攻撃が始められ、まずは勝沼城が戦火に包まれる事になった。
現在は東に妙光院、西に光明寺が建つ土地の北側にある小高い丘上に各曲輪が施されている勝沼城(師岡城)ではあるが、当時はその西にある楯ノ城のように山頂を削平しただけの簡易な要害で、日頃の居住地は山裾にあった。
これを城主三田綱秀が西へ二里半ほど行った山塊の頂上にある辛垣城に退去した後に要害の砦として改変させ、反北條の出城の役割を持たせた。
また、辛垣城と勝沼城の間にあり、勝沼城から西へ半里ほどにある楯ノ城・西城を勝沼城と連携させて援軍を繰り出し、勝沼城に寄せる氏照の軍勢を悩ませ始めた。
狭い山間を自領とした三田氏の、地に有利な条件もあったのだろうが、この有機的な迎撃にはもう一つ原因があった。
実はこの氏照の義父心月斎は三田綱秀に誼を通じており、氏照勢の行軍等を逐一知らせていたのだ。このために自城松嶽城と勝沼城の間を東から扼すと思われる滝山城築城に良い顔をしなかったのだろう。
氏照の元に入る情報にも勝沼攻めの最中に接収した今井城の陣内にある義父の仕寄り場から、人目を避ける様に幾人かの徒歩の者が勝沼方面に走りぬけていくといった知らせを受けていたのだが、その使いが追手を撒く為に途中で山間に消えてしまいどこへ行ったのかも分からない。
証拠も掴めぬままに義父を断罪する訳にもゆかぬため、氏照は心月斎を泳がせるしか手の打ちようがなかった。
そもそも大石の家の家督を、時勢がそうさせたとは云え北條家に譲らねばならなかった心月斎、意地を貫く事を決めた上杉家時代の盟友三田氏に羨ましさと潔さを見たのであろうか。
坂東武者の華を見せようとしている旧上杉家の家臣に対して幾許かの協力をしたようだ。
この心月斎内応のために左程大きくもない勝沼城と楯ノ城、西城の三城に手を焼いた氏照は遅々として攻略が進まなかった。
その氏照の城攻めを見ていた万松軒は松嶽城本陣で軍議を開いた。
勝沼城を抜く為にはどうすればよいか。
松嶽城築城の為に泥まみれになっている諸将の中で、まず口火を切ったのが大藤秀信であった。
「我が手の者の知らせなのですが、楯ノ城と西城からの援軍、勝沼攻めに時を合わせてやって来るとの事」
この秀信、諸足軽衆の一人で足軽大将でもあり、父に金石斎と号し法名を栄永えいえいと称した大藤元信を持っている。
この父は北條の軍師とされた根来金石斎の名の方が通りが良いかもしれない。
「もしかすると」
「秀信、何か思い当たる事でもあるのか?」
床几に腰掛けながら万松軒と氏政に対して軽く頭を垂れると、氏照の籠る今井城から流れて来た噂を披露した。
「これはまだ噂の域を出ぬ事にございまするが、源三様の義父殿、大石定久殿が綱秀殿に内通をしているのではないかと漏れ聞こえて参ります」
この噂をここで初めて聞いたであろう者は思わずざわついた。
「その噂、氏照から儂の元にも入っておる。しかしそれがまことかどうか、今一つわからぬとも聞き及ぶ」
この万松軒の答えに緩さを感じたのか、伊豆衆の一人で評定衆でもあった白備えの大将、笠原綱信と、同じく評定衆で御家門方の伊勢貞運さだかずが声を荒げた。
「大殿様、それでは落とせる城も落とせますまい、急ぎ定久殿に詮議の使者を立てて黒白こくびゃくを付けるべきかと」
「いかにも、このままこの地に釘付けになれば、如何に川中島で信玄に足止めされていようともまたぞろ謙信が越山して来ぬとも限りませぬ。ここは早め早めに手を打つ事が肝要ではありますまいか」
これに尤もであると頷く万松軒ではあったが、相手は大石と同郷の三田氏である。
政情不安とも云える今、事を荒立てれば大石も寝返らないとは限らないのだ。
「二人の言う事も尤もと思う。しかし大石を疑う事が物事を上手く運ばせるとも限らぬぞ」
「しかし」と食い下がる笠原綱信を手で制すると、万松軒は氏政に振り返った。
「新九郎、そちを一手の大将として楯ノ城、西城に遣わす。見事ここを押さえて氏照の軍勢に手柄を上げさせてみよ」
「では大石殿は如何されまするので?」
定久に対する処置を口にしない万松軒に綱信が疑問を挟んだ。
「綱信、その方も新九郎とともに出陣せい。そして今井の城から出て来る定久の使いを是が非でも足止めする事を命ずる」
「そこで大石殿が尻尾を見せれば処分されるのでございまするか?」
「大石は捨て置く。この三田攻めが終われば源三の力は大石家で更に大きくなろう。ならば定久を誅して旧臣共を動揺させるより、捨て置き旧主を忘れさせる方が利に叶うと云うもの」
「そのような寛大なご処置でよろしいので?」
伊勢貞運が、この処置が腑に落ちぬといった風情で言葉を投げかけた。
「先の不識庵の苛烈な処置を見た関東勢、これが元で不識庵から離れて行った事もある。少々手ぬるいのは百も承知であるが、まずは関東勢を手中に収めなければ関東計略も危うい」
「しかし」
「一罰百戒という言葉を知っておろう」
この思いもかけぬ言葉を聞いて何を言い出すのかと、軍評定に集まった諸将は万松軒の口元を注視した。
「この三田攻め、北條家に靡くものは寛大に許すが背くものは根切りにすると知らしめる戦にする。各々、この三田攻め日数はかかっても良い。但し三田の胤を根絶やしにするつもりで懸かれ。良いな」
この万松軒の言葉に真意を汲み取った諸将はなるほど尤もと、漸く合点が行ったようである。
万松軒は軍評定の後、直ぐに氏政と綱信の軍勢を楯ノ城と西城に向かわせ、氏照の手勢を勝沼城へ集中して当たらせた。
これで三城の連携を断ちきられ後詰を期待できなくなった勝沼城は孤立、合わせて孤立した楯ノ城・西城も、其々全て単独で北條勢と当らねばならなくなった。
この城攻めの後、自軍の動きが三田氏に読まれていた事を義父の内通と疑いを持っていた氏照により、心月斎は滝山城築城の指南として滝山の地に送り出されていた。
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