関東騒乱(二)

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関東騒乱(二)

 縄張りの指南とは響きが良いが戦場に程遠く、使者を遣わす事のないように監視するためには体の好い名目とも云える。これで大石氏と三田氏の連結は崩された。  また氏照は滝山城築城の最中に勝沼城と楯ノ城、西城に其々付け城として仕寄場を構築して直接の抑えとし、滝山城と松嶽城の二城で勝沼城の外殻の抑えとして長期戦に構えた。  そんな中で松嶽城から大殿万松軒の下知が氏照と氏政に届いた。  三田綱秀の籠る四城は付け城と滝山城、松嶽城を使って押さえとし、新九郎と源三の隊は小田原の本隊と合流して毛呂要害(竜ケ谷城)を攻めよとの知らせである。  進退のはっきりしない毛呂氏を先に落として三田氏を更に孤立させる作戦にでたのだ。  松嶽城を発行した万松軒の軍勢に合流してきた氏政と氏照の軍勢が毛呂の要害に近づくと、毛呂氏はあっさりと恭順の意を示して小田原方に靡いてきた。  三田氏を押し込めたまま毛呂に入って来た北條勢の武威行為がモノを言ったのであろう。  また万松軒は、鉢形城に籠っていた四男の藤田乙千代(氏邦)にも出陣を下知している。  謙信の越山に伴って岩付の太田三楽斎が挙兵した事に合わせて秩父郡の在地領主も挙兵しており、高松城(現埼玉県秩父郡皆野町)に籠城していたのだ。  これを落としてから軍勢を進め、謙信の家臣、毛利丹後守の籠る石戸城(現埼玉県北本市)を攻めるよう準備をさせた。  これは三楽斎の籠る岩付城と、上杉憲勝の籠る松山城を分断するために、丁度直線上の中心にあったこの城を盗って連絡を遮断するためでもあった。  また万松軒は毛呂氏を靡かせると軍勢をそのまま東進させて河越城に入った。  そのころ江戸衆は葛西城に籠る里見方の綱城大炊助を攻めており、これを見た小金城の高城胤吉、胤辰たねとき親子は再び北條氏に恭順を示している。  河越城を出た万松軒は石戸城を掠めて私市城(騎西城:現埼玉県北埼玉郡騎西町)を囲み、城主の小田助三郎を北條方に寝返らせた。  また一里程しか離れていない公方奉公衆の金田氏が籠る菖蒲城も北條氏の俄かな出兵に驚き城を開いて寝返っている。  これは古河公方奉公衆が分裂し、その一角が北條方に動いた事を表していた。  万松軒はこの恭順の意を示した金田氏と小田氏を使って、謙信方になっている羽生城の広田氏と栗橋の野田氏と関宿の梁田氏を牽制するように下知した。  これで岩付の太田三楽斎をじわじわと孤立させて行くのだ。  万松軒は北武蔵の公方奉公衆の切り崩しを済ませると、三楽斎の籠る岩付の城を掠めて江戸城に入り、二日ほど休んだ後に小田原へと凱旋して行った。  そして九月も半ばに入ると、当月は刈入れの時期。  城下では昨年の不作の影響も多少はあったが、それなりの収穫を見込める実りがあり、秋祭りも開けると百姓たちが浮かれている時期でもあった。  そんな中、信濃川中島へ放っていた風魔衆の素破の報告が小太郎から上がって来た。  御殿作りの屋敷の奥にいた万松軒の元に、倅氏政が足音も激しくやって来ると、口角から泡を飛ばしてけたたましく報告をはじめた。 「父上!川中島に放っておりました風魔衆からの知らせが参りましたぞ」  この氏政の只ならぬ雰囲気に、少々気圧されたが、まずは落ち着けと倅を嗜めることから始めた。 「いやしかし、これが落ち着いてなぞおられぬのです」 「どうしたと云うのだ」 「九月十日に晴信殿と謙信が、川中島で不意に衝突し、双方兵を三千以上失う大戦になったようにございます」 「なに?信玄殿は無事なのか?」 「信玄殿はとりあえず無事のようにございます」  この報告に万松軒は安堵のため息を漏らした。  信玄が討たれては越後牽制が無実に帰すからである。 「甲斐勢は兵を二手に分けて妻女山に籠った謙信を討とうとしたようにございますが、これが前もって知られたらしく、軍勢を分けた所に押し掛かられたようにございます」 「左様か、詳しく話して聞かせよ」  氏政は広間脇の廊下に突っ立ったままで父に報告をしていた事に気が付き、直ぐに広間に入って父の前に腰を下ろした。 「これは、取り乱してしまい面目もございません」 「よい、続けよ」 「信玄殿が塩崎城から海津城に入ってからは暫く睨み合いが続いていたようにございまするが、あまりにも謙信が動かなかったために甲州勢を二手に分けて別働隊を持って妻女山に攻め寄せる心算であったとか」  ここで万松軒は何か腑に落ちないものを感じた。 「妻女山を前に二手に別れたと?」 「如何にも」 「その山には軍兵の通れる道はできておるのか?」 「いえ、そこまでは分かりかねまするが、只の山故に山賤やまがつの通る道があるくらいではありますまいか。それが何か?」  万松軒は前半に指してあった扇を抜き取ると、ふむふむと声を出しながら右手で弄ぶように開閉を繰り返していた。 「どうされました」 「いや、なんでもない。続けよ」 「はい、ここで信玄殿は本隊を千曲川を北に越えさせ八幡原に布陣させたそうにございます。別働隊をもって妻女山に攻め寄せて、謙信が山を降りてくる先の八幡原で待ち受ける心算だったのでございましょう。ところが謙信は、妻女山に別働隊が押し寄せる前に八幡原に下りてしまい、濃い霧がかかった九月十日の早朝、思わず両軍が鉢合わせして大戦になったそうにございます」  万松軒は弄んでいた扇をぴたりと閉じた。 「なるほど、それは信玄殿が痺れを切らすのを謙信に読まれたのであろう。軍勢の足が遅くなる妻女山の行軍、別働隊が再び本隊に戻るまでには時が掛かる故な」  再び扇を弄び始めた万松軒、そうかそうかと声に出して繰り返したあと、ふと氏政に質問した。 「ところでこの戦、どちらが勝ったのじゃ?」  この質問には氏政も詰まってしまった。甲越両軍、どちらが勝ったとも言い難い結果でもあったからだ。 「それが、この戦どちらも勝っており負けております」 「なんじゃそれは?」  呆れたように倅を見つめた万松軒だったが、氏政も再び説明を始めた。 「この戦は午の刻を境にして、午前を越後勢、午後を甲斐勢が勝ったとも申せましょうが、討たれた重臣の数をみると甲斐勢が負けたとも見受けられまする」 「甲斐の重臣は誰が死んだ?」 「信玄殿の弟である典厩信繁殿、諸角虎定殿、先の謙信小田原攻めの折りに後詰となってくれた初鹿野源五郎殿、そして山本菅介殿」 「……そうか、菅介も死んだか」 「この作戦を立てたのは馬場信房殿と山本菅介殿だったとか。この失敗で信玄殿の倅、太郎義信殿が窮地に追い込まれてしまい、その事に責任を感じた菅介殿が救援に向かったとの事。太郎殿は無事に戻られたようにございますが」 「そうか、武田も惜しい人物を亡くしたな」 万松軒は今年の初めに小田原にやって来た菅介を思い出していた。 「菅介は叔父上との約束を果たせずに逝ってしまったようじゃ」 菅介が幻庵に茶を馳走すると言っていた事を思い出したのだろう。 「して新九郎、越後勢はどのような痛手を被っておる?」 「越後勢の重臣達に手負いはあっても討たれた者はおらぬとか。また謙信は信玄殿の本陣にまで切り入り信玄殿本人に三太刀まで切りつけて肩に傷を負わせたとも聞き及びまする」 「信玄程の者が本陣まで寄せられておるのか」  これには驚いた。あの何事にも利に聡く慎重な信玄の本陣を突いたとは。  そもそも信玄は、本陣を敵に明かさぬのが常道であり、弟逍遙軒信綱をも景武者として使い、常に本陣と思しき陣を四つも五つも押し並べている程なのだ。  それなのに本陣を突かれたと云う事は余程の混乱があった大合戦だったのであろう。 「謙信の鬼神の如き振る舞い、敵ながら大したものにございますなぁ」  氏政は謙信の武者ぶりに感じ入っている風でもあった。  しかし万松軒が感じた謙信像は、後先を考えずに遮二無二敵陣に討ちかかってくる神懸かり的な猪武者であり、このような人物にまともに当たる事はこちらの手傷が増えるのみであるとの思いを新たにする事となった。 「新九郎、越後勢の重臣達が無傷であらば再び三国峠を越えて関東に現れる事もあろう、その前に軍勢を整えて松山城を攻めねばならぬ。まずは三田綱秀を攻め滅ぼして松山城攻めに取り掛かれ」 「畏まりましてございまする」  この氏政からの川中島合戦の報告を聞いた後、万松軒本人は隠居宜しく小田原城にて裏方の内政と外交を担当し、表向きの外征は当主となっている氏政に任せる事にした。  この後、永禄四年も師走に入った頃、秩父郡の騒ぎも一段落したようだ。 高松城に籠っていた在地領主に対して投降を呼びかけた乙千代(氏邦)、後々の恨みを買うよりはと本領安堵を約束したところ、これが覿面てきめんに効いたようで十二月に入った所で高松城が開城自落、秩父郡の制圧が一通り完了した。  更に年が明けて永禄五年に入ると、下総の葛西城攻めも江戸衆太田康資配下の本田氏が遠山綱景と共に攻撃、四月二十日に葛西城を落としている。  また秩父郡を制圧した乙千代も自領が安定してきた夏を過ぎた頃、武州鉢形の城から秩父勢を率いて石戸城に攻め寄せる事になった。  この石戸城、現埼玉県北本市にあった城で、そもそもは太田道灌が築城し、扇谷上杉氏の家臣、藤田八右衛門が居城したと伝えられている。  築城の謂れも河越城、松山城、岩付城の繋ぎとして築かれたともある城だ。  永禄五年の今は岩付と松山の支城として上杉謙信の配下にあり城将に毛利丹後守を置いていた。  また石戸城の造りは西に荒川を天然の堀として北と東に沼沢地、唯一地続きになっている部分は南側のみである。  南の曲輪から先を堀で切り落とし、追手門を抑えるのみで鉄壁の守りを誇る砦でもあった。  鉢形からやって来た乙千代はこの城の追手門である南に兵を置いて城兵の出入りを制限すると、その石戸城の内側を俯瞰できるように東の沼地を挟んだ反対側の小高い丘に本陣を置いた。  そのとき乙千代の陣幕から馬廻りの声が上がった。 「危のうございます、いま外で身を晒される等鉄砲玉の的になるようなもの」 「今の石戸の城兵に鉄砲を放てる者があるものか。大事ない」 陣幕の一端を掴みあげて外に出て来た乙千代、止める馬廻りを手の平を振って下がらせると、石戸城を対岸に見渡せる崖の上まで歩いて来た。  ここは対岸の石戸城から一町半(約160m)ほども離れているだろうか。  鉄製の甲冑を着けていれば鉄砲玉に当たっても問題ない距離ではあったが、この時の乙千代は兜と胴を外した小具足の形である。 眉間等に当たれば大怪我は間違いないために馬廻りの家臣達は気が気ではない。  そんな家臣を尻目に悠々と石戸城を見まわしていた。 「これが石戸の砦であるか」  気を揉む家臣の心配を余所に、端から端まで舐めまわすように石戸城を見まわしながら歩き回った乙千代。 「やたらに歩き回られては危のうございます。どうぞ陣幕へ御戻り下さいますよう」 「城方の毛利丹後守も俄かに寄せた儂の出方を探る為か動きを見せずに黙したままじゃ。そんな者共が儂を射殺せるものかよ」  そう嘯きながら不安の色を隠せない馬廻りの衆に笑って見せた。  しかし乙千代の本来の目的は、これから攻める城の縄張りを見ておかねばならぬと考えていたからに他ならない。  それを知ってか知らずか、乙千代の後を付いて歩いている者がいた。  乙千代の養父、用土新佐衛門尉康邦である。  石戸城攻めに一手の大将として参陣していたのだ。  この用土康邦は、娘大福おふくと乙千代を娶せて藤田家に養子として迎えると、家督を譲って自らは用土城(現埼玉県大里郡寄居町用土)を築きそちらに転居しており、それに合わせて用土姓を名乗るようになっていた藤田重利である。  用土康邦には実子も二人いたが、その両人共に用土城に移り住んでおり用土の家督は長子重連が継いでいる。 「思ったよりもしっかりとした造りの砦にござるな」  脇に控えた義父に話しかける乙千代だったが、康邦は乙千代に一瞥もくれないばかりか特に何も口には出さなかった。 「義父上は無口にござる」  乙千代はこの無口な義父を見てふっと鼻で笑った。  実は乙千代と康邦、余り仲が良くない。これは兄氏照と定久との間でも言える事なのだが、北條家が管領山内上杉家を押し込めてから強引ともいえるやり方で、この上杉家の中でも有力な家の家督を奪った事が原因である。  家を奪われた方にすれば不満が鬱積するのも当然であろう。 「まずは先年の恨みを晴らすとしよう。このような砦は一揉みに揉み潰してしまう事が肝要。義父上、寄せ手の一翼を預けましたぞ」  言葉が聞こえたのかどうか、康邦は頷くでも無く陣幕に去ってしまった。  やれやれと云った風情で義父を見送った乙千代、康邦が去ってからも暫く崖上を歩きまわり、石戸城の縄張りを半刻ほども確かめると陣幕に戻って行った。  陣幕の一端を跳ね上げて中に入って来た乙千代を一斉に見た各将、既に敵城の目の前とあって緊張が漲っているのか其々の目が血走っているようにも見える。  一人沈黙を保っているのは義父康邦のみだ。 「各々、待たせた。これより各人持ち場に付け。寄せるぞ!」  乙千代の大音声に応の返事を一斉に返すと、具足の音も騒がしく各将が石戸城追手前に備えた寄せ手の陣に走り出ていった。 「貝を吹け!」  法螺貝の音が鳴り響くと、追手前に居並んだ寄せ手の人数に一斉に緊張が走る。  これから城攻めが始まるぞとの合図だ。  数段に構えた寄せ手が城攻めに移る機運を見計らって総攻撃の合図に移る。 「押し太鼓を打ち鳴らせ!総攻めじゃ!」  乙千代の攻撃命令に本陣から滔々と打ち鳴らされる陣太鼓の音が石戸城一帯に響き渡ると、それに合わせて寄せ手の鬨の声も上がり、弓勢ゆんぜいが追手前に居並び矢戦が始まった。  城方からも矢の応戦がはじまると、双方相手を射倒した弓兵からは矢叫びが聞こえる。  この寄せ手の弓勢を援護として城壁、逆茂木に取り付く足軽達。  鉤縄や梯子を使って城内に攻め寄せようとするのだが、城内からも必死の抵抗を見せた。  正面から寄せて行く攻めの兵に対して城の正面で守る弓勢に加え、側面に設えてある馬出しから槍の穂先を揃えた足軽勢を一挙に押し出してくる。  これに追手門攻めの兵は側面からも攻撃を受ける形となり中々に門を破れなかった。  幾度かの波状攻撃にも耐えた石戸城、意外なほどに粘る城兵だったが、中に籠るのは越後兵であり主将の毛利丹後守も越後の将である。  ここが落ちれば後がないために必死の守りを見せているのだ。  国元の越後も川中島で屋形謙信が痛手を負って帰陣している。おそらく失った兵の傷も癒えてはいないだろう。そんな本国から援軍を求める訳にも行かず、さりとてここを落とされる訳にも行かないとの思いが石戸城の堅い守りとなって現れた。  一方、この乙千代による石戸城攻めが始まってからの本国小田原では、上杉憲勝の籠る武州松山城攻めと、下総古河城攻めが評定衆の総意として決定されたようだ。  越後の傷が癒える前に武蔵の粗方と、謙信に擁立されている足利藤氏を抑えておかねば後々面倒になるとの予測が立った為に最大限に兵站を広げたのである。  永禄五年のこの時期、北條家ではまさに関東の地均しが始められた年となった。  青梅の三田氏、秩父の地侍、再び下総まで伸長してきた里見氏、武蔵中央部に居を構えた上杉憲勝、岩付の三楽斎、古河の足利藤氏の奉公衆等を悉く切り崩し兵火に晒している。  これに脅威を感じた秩父の地侍が帰服した事は先に述べたが、下野の唐沢山城に籠る佐野昌綱も北條方に靡いている。  これは上杉方である上州金山城の横瀬成繁を牽制するには丁度良いものでもあった。  またこの中で久留里の里見氏が足利義氏の避難していた佐貫城に攻め寄せており、義氏は急遽鎌倉に避難した事が基で緊張が最大限に高まり始めた。  各地へと兵を分散させているこの時期の古河攻めと松山城攻めであるため、万松軒を古河攻めの本陣として、また松山城攻めでは再び青梅の三田綱秀攻めの真っ最中であった大石源三氏照の人数を頼み、更に江戸衆と共に葛西城攻めが一段落した北條綱成の手勢を本城の新九郎氏政が率いて松山城へと向かう手筈となった。  八月になってから先ず動いたのは万松軒。古河攻めに分けた小田原の軍勢を率いて江戸城に入ると、江戸衆の一部を引き連れて志村城、蕨城、河越城を経由、河越衆の一部とも合流して菖蒲城、私市城を掠めて利根川南西の岸に着陣。  この利根川の陣の近く、西に三里程には越後方の羽生城があったが、これはそこから南に二里半程の私市城と西に二里程の忍城の成田氏に抑えさせた。  利根川の水も温いこの時期、万松軒自らは利根川を挟んで布陣を済ませると対岸にある鴻巣御所と古河城の物見を始めている。  その古河城を見渡す利根川縁での北條軍陣幕内の事。 「小太郎、手の者を使って栗橋の野田、逆井の常繁、関宿の梁田を探れ。この古河城攻めでその三家が出張れるのかどうか、それを見極めたい」  信濃越後境の川中島方面に入っていた小太郎だったが、川中島での戦が一段落したことで上野方面の風魔衆を残して小田原に戻ってきており、この古河攻めに同行していた。 「畏まりました。ならば手勢五十人程を使って探って参りましょう」 小太郎が大きい体を窮屈そうにしながら頭を垂れると、続けて松田憲秀に声をかけた。 「憲秀、その方を使いとして小山城と結城城に向かえ。小山秀綱と結城晴朝が我が方に付くならば、城にて一歩も動かずにおれ。さすれば領地は安堵すると伝えよ」  さらに大道寺政繁にも使者となる事を下知した。 「政繁、その方栗橋城の野田と逆井城の常繁の元へ参って我が方に参陣せよと伝えよ。歯向かうならば攻め滅ぼすと伝えても良い」  また古河城への使いは、足利藤氏の血縁でもある芳春院周興を充てた。  其々へ使いと密偵をだしてから約三日程が過ぎたころ、初めに芳春院周興が帰って来た。  その報告では、古河城に籠るのは近衛前久と上杉憲政、足利藤氏である事、在城する兵は少ない事、藤氏には北條家に降る意思がない事の他、関白近衛前久はこの関東の現状に気を落として京に帰りたがっている事等を知らせて来た。  次に戻って来たのは松田憲秀である。 小山、結城共に北條に歯向う心算がない事。また万松軒が伝えた、城に籠って討ち出さない事等の確約を得て来た。  同じころ大道寺政繁も戻って来たが、こちらは野田、逆井両氏に門前払いを食らったようだ。  小なりとはいえ公方奉公衆の意地を見せたのだろう。  そして最後に戻って来た小太郎の報告を受けて万松軒は古河攻めを決断する。 「栗橋、逆井共に兵数これ少なく其々凡そ二百、また関宿の梁田も人数を集められず、東の守谷城に籠る相馬治胤に援軍要請をしたようにござるが、これも守谷北方の小田天庵が我らに内通した事から国境を警戒せねばならず、関宿への援軍を出す事叶わなくなったようにございまする」  この報告を一々聞いていた万松軒、最後に満足げに頷くと、すっくと立ち上がって陣幕内に侍る重臣達を見まわし、 「機は熟した。これより古河城に攻め寄せる事とする。各々出陣の支度をせい」  そう出陣の令を下した。  俄かな出陣の下知により利根川縁の北條軍の陣は騒がしくなり、各所の陣幕が畳まれると直ぐに利根の流れを渡り始め、さらに利根川の支流となっている渡良瀬川を渡る。  それを越えた所にある鴻巣の公方屋形を落とした後は、渡良瀬川に沿って北伐しながらの城攻めとなった。  古河城攻めは古き権威と新しき権威の交換と云った意味合いが強い。愈々関東の下剋上が北條家によって完成される時が来た。  公方を頂点とした古き権威が万松軒を頂点とした新しき権威、小田原北條家に討たれるのである。  まさに下剋上ではある。  これに対抗でき得る古き勢力は、最早越後の上杉家以外に無くなっていた。  そして間もなく古河城は落ちた。  人数が少なく後詰が期待できない権威の象徴では、関東を席巻する北條勢の敵とは成りえなかったようだ。  まさに『赤子の手を捻る』かの様な、抵抗も殆ど無かった城攻めであった。  古河城が落ちた八月、城に詰めていた謙信の盟友である関白近衛前久は、謙信に連絡も取る事も無く失意のうちに帰洛して行った。  同じく上杉憲政も北條勢の威勢に恐れを成して城を抜け出し、謙信の勢力下にあった厩橋城に退去。再び北條勢に城を追われる悪夢を見たようである。  また足利藤氏は里見義堯・義弘親子を頼って上総方面へと敗走を企てたが、途中で北條勢に捕縛されて伊豆に幽閉。これにより藤氏勢力は消滅した。  北條家に擁立されて、現在は鎌倉で保護されている万松軒の甥である義氏が唯一公方の地筋として残るのみ。  古河の不安材料を取り除いた万松軒は、関宿の押さえの為に古河城城代に松田憲秀を残し、自らは小田原へ凱旋して行った。  さて、万松軒が古河攻めから凱旋して三月ほど過ぎた頃、松山城攻めが開始される事になった。  氏政率いる北條勢が出陣し、途中の岡崎城(小磯城:現神奈川県中郡大磯町)を経由、また内藤景豊の寄る津久井城(現神奈川県津久井郡津久井町)を通過して松嶽城、滝山城に入った。  ここで氏照勢の一部と合流し、河越に行軍。  葛西城から江戸城を経由して河越城に入っていた北條綱成と合流した。  更に軍を進めた氏政が松山城に到着したのは霜月十一月の事。  松山城の周りにある刈入れが済んだ田や畑の一面には霜が降り始めていた頃であった。  武蔵松山城の外堀となっている市野川の畔に枯れる葦原も、朝日に輝き一面銀世界となっている風景は一幅の墨絵を見ているような、まさに光の濃淡で現わされる世界であり合戦前の一時の眼福。  この時の松山城には一の曲輪に城主上杉新蔵人憲勝、上杉憲政が越後に走ったときに共に走った三田五郎佐衛門、二の曲輪に高崎利春、広沢信秀が入ったとされている。  古河を攻めた兵と、氏照と綱成の兵を纏めた氏政は松山城攻めに公称で三万騎とも云われた軍勢を引き連れていた。  これを見た城主上杉憲勝は恐れをなしたのか、一切城から討ちだす事はなかった。  また、城をぐるりと北條勢に取り囲まれたために越後にも岩付にも連絡が取れずに難渋していたのだが、ここに面白い逸話が残っている。  岩付の三楽斎は、周りから虚けであると言わしめるほどに犬好きで通っていたようだ。  しかしこの犬好き、ただの動物愛護ではなかった。  幾度も訓練を重ねてどのような遠くからでも三楽の飼い犬は岩付に戻るように仕込まれていたのだとか。  平時は笑って相手にもしていなかった事なのだが、この大事に至り、藁をもすがる思いで犬に頼ってみる事にした憲勝。  まさか犬が捕まるとも思えないが、万が一を考えて墨を用いずに水で濡らすと黒く浮き出る調合薬を用いて危急の知らせを何通か認めて竹筒に差し込み、犬の首に巻き付けた。  また昼間では城内から出て来た犬として怪しまれる為に日が落ちるのを待って城から出すと、この犬、難なくその日の内に岩付城に帰って見せたのだ。  日本初の軍用犬と言えるかもしれない。  岩付城の濡れ縁でこの書状を受け取った三楽斎、白紙だったものを傍らの手水石に溜まっている水に漬けてみると予想通りに文字が浮かび上がって来た。  そこに書かれていた意味を読み取った三楽斎、飛び上がらんばかりに驚いた。 「これは一刻を争う事態じゃ。しかし如何したものか」  応援を頼める里見は安房から海を隔てた三崎城へと攻撃を加えている最中と聞くし、越後の謙信はこの時期雪に埋もれて国から出る事も叶うまい。よしんば後詰に来れても相当な遅れが予想された。  しかし一応はと里見と謙信に応援を要請し、自らは松山城を遠巻きに兵を繰り出してはみるものの兵数の違いは如何ともしがたく、城主憲勝の健闘を祈るのみであった。  ところが三楽斎の心配をよそに、城主憲勝は良く戦い、城門を堅く閉じて北條勢三万を寄せ付けなかった。  この間に安房の里見は三崎攻めを中断、一度久留里城に戻り松山城の応援の軍勢を纏め始めたようで、謙信も同様に、雪深い越後から後詰の兵を出そうと兵を募り、翌春に向けて出陣の支度を整える事を約束し、三楽斎に知らせを寄こして来た。
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