関東騒乱(三)

1/1
前へ
/50ページ
次へ

関東騒乱(三)

 松山城攻めが始まり一月が過ぎ、永禄五年も師走十二月に入っていた。  思いもかけぬ程に城攻めに手間取る北條勢、このため氏政の本陣では、氏政、氏照、綱成の他、重臣が集まって評定が開かれていた。  各将からも、 「城方には全く損害を与えられぬのに、寄せ手の兵は既に百人以上は犠牲になっている」 「矢玉も残り少なくなり兵糧も減ってきている」 「寄せ手は意気消沈している」  こんな声が上がる中、大将氏政までもが覇気を感じられなくなってきていた。 「この堅い守りの松山城、いかにして落とすが良いか」  この弱々しい兄の声と厭戦気分が蔓延し始めた評定衆に、弟氏照は叱咤激励するかのように声を張り上げた。 「兄上、声に張りがありませぬぞ。なに大丈夫、古今落ちぬ城はござらん」  これに合わせたかのように、綱成も大声で笑い飛ばして見せる。 「左様にござるぞ。大将が気弱な声を出して居ればそれに従う将も歩卒も気弱になり最早戦どころではなくなり申す」  この元気の良い二人をガラス玉のような目で見た氏政、片方の口角を上げてにやりと笑うのだがどうにも頼りない。 「まだ城攻めからひと月しか経ってござらん、何を恐れておいでか?」  この氏政の煮え切らない態度を不審に思った老将綱成、腹にわだかまりがあるなら吐きださせて楽にしてやろうと考えた。 「今年の四月、父上は古河城を瞬く間に落とした。しかもその兵力は今儂が預かっておる数より少ない人数でじゃ。儂は三万もの人数を預かっておきながらこんな小城に一月もかかってしまい、父上に何と申し開きをすればよいか」  この言葉を聞いた氏照と綱成、一瞬だったが呆気に取られると、すぐに噴き出して大笑いを始めた。 「その方ら、何故笑う、無礼ではないか」  この笑いが少々気に障ったのだろう、顔を赤らめた氏政が弟と老臣を嗜めたが二人共に中々笑いが治まらなかった。  臍を曲げ始めた氏政が軍配を草擦に打ち当てて口を鳴らした事を見た綱成、これは笑いすぎたかと先ずは笑いを治めた。 「御屋形、それは欲張りと云うものにござるぞ」  そう屈託のない笑顔で氏政を見ていた。 「そうじゃそうじゃ、兄上は如何にも欲張りじゃのぅ」  氏照は未だに笑いを堪えているようでもあった。 「欲張りとはなんぞ」 「兄上、まずは父上に並ぼうとお考えであるならばもう少し時が必要にございましょう」 「時、じゃと?」 「当たり前の事じゃが兄上は戦場に出た数が父上より格段に少ない。それに父上は戦上手で通っておる。これに肩を並べようと焦る兄上を見ると、この源三可笑しくてなりませぬ」  氏照のこの言葉に初めは何か言おうとした氏政だったが、落ち着いて考えると的を射る言葉に怒りも治まって来た。  笑われた事による顔の赤みも引いて来たようだ。 「しかしこれほど城攻めに時をかけては越後の謙信がやって参るかもしれぬ。その為父にお叱りを受けることもあろう」  綱成はこの言葉を聞いて、ああなるほど、氏政の御屋形はまだ子供なのだ。そう思った。 「御屋形は大殿様が怖いのでございますか?」 「怖くはない、したが御下知通りに仕事ができぬ儂をどう見ておられるか、それが恐ろしい」 「なるほど、それでは御屋形、大殿様は源三様を怒っておられまするかな?」  綱成は子供に諭すようにゆっくりと話しかけた。 「いや、それはない」 「でござろう。では新太郎様はどうであろう」 「それもない」 「で、ござろうなぁ」  綱成は軽く笑って見せた。 「御屋形、大殿の器量はそれほど狭くはござらぬぞ。我らのそれぞれに見合った器量で仕事を与え、結果が出るまで粘っている者を邪険には扱いませぬ」 「そうそう、兄上が一月程度でこの松山城を抜いてしまわれたら三田の勝沼城を攻めている儂と、直ぐ隣で懸命に働いている乙千代の立場がござらん」  そういえばと、この氏照の言葉に思い当たった氏政ではあったが、この後の城攻めに良い知恵が回らなかった。 「ならば兄上、ひとつ知恵を授けて進ぜましょう。これならば父上にも咎められず城攻めも手早く済ませる事ができますぞ」 「そのような知恵があるのか」 「はい、まずは小田原の父上に伺いをたて、松山城は堅城。故に直ぐには落ちぬ事、また日を置けば越後勢が寄せる事が考えられる事。この二つを持って父の名で甲斐の信玄殿の軍勢を借りるのでござるよ」  氏政はあっと声を出していた。なるほどそんな手があったのか。 「源三、それは名案じゃ!早速小田原に使いを立ててみよう、お主の配下に良い者はおらぬか」  この言葉に氏照は呆れた表情を作って見せた。 「兄上」  大仰に咳払いをしてみせる氏照。 「ここは兄上の配下を使って父上に知らせねば意味があり申さん。小太郎の配下を幾人か使って一両日中に使いを立てるが宜しかろうと思いまするぞ」  ああそうであるな。と氏政は再び顔を赤くしながら風魔衆の使いを呼んだ。  閑話休題として、ここで氏政の逸話を紹介してみようと思う。  資料の題名は失念してしまったが、それによるとこの三兄弟が幼いころ、氏政は力が弱く年の近い二人の弟である氏照・氏邦に喧嘩で勝つ事が出来なかったとか。  しかし、そんな武勇自慢の二人の弟に振り回されていたのかと思える話しが残っている割にはこの氏政、家族思いの人物であったために弟とも良好な関係を築いたようだ。  それを裏付けるかのように、他家のように家督争いや謀反が起こっていない事は刮目に値する。  また氏康と氏政が家臣と共に会食したときに、飯にかけた汁が足りないと再びかけ足した事があった。これを見た氏康、食事とは一日二度、それも毎日繰り返しているものである。それなのに必要に充分な汁も量れぬとは、北條家も儂の代で終わるか。と涙を流したとの逸話もある。  俗に『二度の汁かけ飯』と言われる話なのだが、あれは江戸期の創作であり中国地方の大名、毛利元就と輝元の間でも同じ話が残っているようである。  北條氏の居なくなった関東に入部してきた徳川氏であるが、そこに住む者が先の支配者北條氏を慕っていた為に、非常に治め辛かった事もあり、前支配者はこれほど愚か者であったと特に宣伝したもののようだ。  これがあたかも本当の事であるかのように広まったのは、人を蔑む事で時分の優位を味わおうとするゴシップ好きの日本人故であろうか。  さて、その松山城の陣から小田原に使いが走り、万松軒の朱印状を持って甲斐の信玄の所に知らせが届いたのが師走も暮れであり、幾日もしない内に永禄六年が明けようとしていた頃であった。  松山城の攻略に甲斐武田家を引き込むと決まった頃、石戸城攻めの藤田乙千代のところに兄氏政から知らせが入った。  ただし、伝令同士の繋ぎからか兄の氏政と氏照が松山城を囲んだ事で、越後の謙信が今日にも越山してくるらしいとの尾鰭付きでの報告となっていた。  この危急とも云える報告で石戸攻め陣内には動揺が広がり、諸将の求めに応じて緊急の軍評定が開かれた。  石戸城と松山城の布陣を考えても地理的に東西に二里半しか離れていない上に、両城を囲む人数は当然ながら松山攻めの方が多い事を考えると、越山した謙信がまず寄せて来るのは石戸を囲む自分の方であろう事は充分に考えられる事であった。  ましてや自軍には進退定かならぬ義父、用土新佐衛門康邦もいるのだ。  この康邦が上杉方に寝返ればそれに続く藤田家旧臣もでてくるであろう。そうなれば最早石戸攻めどころではない、それだけは避けねばならない。  評定の場でも退却論、松山攻め合流論、石戸城力攻め論等など、議論百出していたものの、どれも緊急の課題には向かないものばかりが並ぶ。  退却は云うに及ばず、松山城を囲む兄達の部隊に合流したところで謙信がやってくれば、石戸城の兵とともに前後で挟み撃ちにあう事は火を見るより明らか。  結局は石戸城を力攻めで落とし、自らが城に籠って謙信の兵を松山城とで挟み撃ちにするのが最も良いとの結論になった。  しかし、これも石戸城を落とす為の妙案が浮かばなかったために机上の空論になっている事も乙千代には分かっていた。 「さて、如何したものか」  評定を一時中断して陣幕から姿を現した乙千代、対岸の石戸城を恨めしげに眺めながらすたすたと歩きはじめた。 「なぜこのような小城が落ちぬのだ」 「殿、既に城方とは戦になっており申す、そうそう陣幕の外にはお出でにならんでくだされ」  乙千代の後を馬廻りの士が再び気を揉みながらついて来た。 「かまわぬ、城方の矢玉が届くようならばこちらからも射込めると云うもの、ならばもっと早く城も落とせておるわ」  少々焦りもあったようで、言葉尻が乱暴になっていた。  日も暮れて辺りが薄暗くなり始め、陣の各所には篝火がたかれていたが、やはり師走の日暮れは寒い。  目の前に横たわる沼の水が凍り月の光をきらきらと反射させる美しさは、戦とは程遠い異世界の風景にも見えた。 「この城、攻め寄せる口が南に一つしかございませぬ、せめて搦め手口とは言わぬまでも、柔らかい脇腹を突ける道でもあれば良いのですが」 「道、なぁ」  乙千代に従っていた馬廻りの士が何と無く口に上らせたこの回答、どこか気になった。 「道か」  同じ言葉を繰り返したとき、脳裏に一筋の光明が閃いた。 「水の手に三方を囲まれたこの城ではそもそも無理な話し。戯言とお聞き流し下されたく」  この馬廻りの言葉が耳に入ったかどうか。 「そうじゃ、道じゃ!なぜに今まで気が付かなんだのか。道じゃ道じゃ!」  一人合点が入ったかのように満面の笑みで馬廻りの士の方を叩く乙千代。  何が道なのか分からぬ風情の馬廻りが呆気に取られていた。 「評定に戻るぞ!」  そう言い残すとくるりと踵を返してさっさと陣幕内に入って行ってしまった。  しかし評定が一時休憩となっていた為に各将が持ち場に去っており中は無人。 「某が評定衆の皆さまを呼んでまいりましょう」  乙千代は馬廻りの士を使いとして送り、急ぎ評定の再開を伝令させたのだが、この各将を待つ間も妙案を思い付いていた乙千代には苦ではなかった。  それどころかこの作戦に使う人数を見積もる時間を作っていたのだ。  暫くしてその触れを受けた各将は、持ち場の兵達を労いながらも従者に松明を持たせながら急ぎ足で再び本陣に集まって来る。  そこで一人陣幕内で腕を組みながら目を閉じて床几に腰掛けた乙千代を見ると、座る乙千代が渋い顔をしているように見えたのか、集まってくる将達は一々参集の遅れを謝していた。  乙千代、実は怒っている訳ではなく、考え事をするときにどうらや渋い顔になるらしい。  これは評定の時などは本人が意図しないでも全員に緊張を敷く良い材料となっていた。 「皆よう集まった。今宵これより城攻めに移る。南の門を囲む兵はそのままに、後詰となっている人数は篝火と陣幕を全てそのままに捨て置き、全てこの本陣下、南側の沼岸に集めよ」  これに集まった諸将はざわついた。この本陣南側はなにも無く、石戸攻めとは全く無関係な場所とも云えるからだ。 「なぜにそのような所に人数をお集めになられるのか」  評定衆の一人が疑問を挟んだ。  ここで初めて乙千代は笑みを漏らした。 「もっこで土を運び、今夜この暗いうちに本陣目の前の沼岸から石戸城の対岸まで堤を作るのじゃ。この堤を作っている事を城方に気取られぬようにするため、追手前に置いた五千の兵で城門を攻め、残る四千の兵を二手に分けて一気に築き上げる」  この奇想天外な作戦を下知された石戸攻めの各将、堤を作ってどうなる?との疑問の声もあがったが、冬の夕暮れ申の刻(午後四時)には暗くなり始めて酉の刻(午後六時)には一面が漆黒の闇となるこの時期。  戌の刻(午後八時)を過ぎた頃になると月が雲に隠れてしまえば目の前一尺ほどで何も見えなくなる。  乙千代はこれを頃合いとして一斉に土木作業を開始させた。  同時に早鐘、押し太鼓の音も高らかに石戸城追手付近で城攻めが開始されると、城内から差し出された攻め手を照らす篝火で追手門は煌々と闇夜に映し出された。  比喩ではない言葉の通りの灯台元暗し。  これの明かりのお陰で薄ぼんやりと手元が見える様になった城の脇腹では土木作業も捗るようになった上に、乙千代の思惑通りに城方は関心を寄せる事は無かった。  城攻めと土木作業を開始してから漸く後、辺りが白み始めたころの卯の刻(午前六時)。  石戸の砦東側に横たわっていた沼の中央に幅二間半(約5m)、長さ二十五間(約45m)の見事な堤が出来上がっていた。 「道じゃ」  乙千代の言葉に、自らが何を作っていたのか漸く理解した兵達から歓声が上がった。 「よし、今より軍装を整えてこの道より城攻めに移る。まずは更に正面追手に城方の目を釘づけにせよ。然る後この道を四千で押し渡り、軟い城の脇腹目がけて力攻めじゃ!」  この乙千代の下知のもと、数刻の激戦を以て然しもの越後勢が詰める石戸城も落城、城主毛利丹後守を敗走させ、謙信が越山する前に岩付城と松山城の連絡拠点の攻略を終了させた。  この石戸城攻めを成功させた道は現在も石戸城跡に、北條氏邦の一夜堤として伝えられている。  そして永禄六年も明けて正月に入ると、小田原の万松軒から届いた松山城攻めの協力要請を受けた信玄から、これは渡りに船とばかりに松山城攻めに兵を差し向けるとの意向が伝えられて来た。  正月二十八日に信玄自らが甲府を出陣、嫡男太郎義信・飯富三郎兵衛昌景を従え兵数凡そ二万五千を率いて出陣すると、余地峠(よじとうげ:現長野県南佐久郡にある佐久穂町と南牧村の境にある峠)より西牧村(さいもくむら:群馬県甘楽郡下仁田町の西牧地区か)を越えて松山に進軍してきた。  また信玄は、この松山城攻め援軍の本当の目的である上野は箕輪の長野業盛攻めの為、従えて来た飯富三郎兵衛昌景を途上で箕輪に派遣している。  この時飯富とは別に、和田業繁の元にも使者を遣わしており、永禄四年の暮れに内通させていた和田城(高崎城:現群馬県高崎市)の和田業繁を越後の勢力から寝返らせると、差し向けた飯富の兵と合流した和田業繁、長野業盛の籠る箕輪城に軽く一当りとばかりに攻め寄せた。  しかし思いのほか箕輪の守りは堅く一朝一夕では落とせそうもない事を悟った飯富は、業盛の力量は未知ではあるが、箕輪衆の力は未だ侮りがたいとして和田勢を箕輪の押えに残して松山に引き上げを決定。  また信玄はこの和田業繁に対して倉賀野、甘楽方面の在地勢力に調略を施す事を指図している。流石に万事ぬかりは無い。  そして箕輪から引き揚げた飯富の兵が松山城に到着した事で、松山城攻めの北條・武田合同軍の人数は五万を超える事になった。  松山城下に布陣する北條・武田の本陣では、それぞれに五色と四如の大旗一流を風に靡かせ馬印を立ち上げる。それを取り巻く配下の諸将の旗指物も物々しく風に流れる様は、これを迎えねばならない松山城を一飲みに飲み込むほどの夥しい軍勢に膨れ上がっていた。  甲州勢の到着を以て漸く気勢を上げた北條勢、その当主である氏政が信玄の本陣に馬廻りを幾人か従えて出向いたのは、甲州勢が松山に到着してから布陣を終えた直後あった。  氏政が墨染の武田菱が描かれている陣幕内まで警備の足軽大将に案内されると、中には甲斐の主、徳栄軒信玄と倅太郎義信が座っていた。  入って来た氏政をちらと一瞥した信玄、値踏みするように氏政を暫し凝視する。と、満足したのかふと緊張を解いたかのように柔和な顔になった。  見られた氏政は流石に威厳を感じたようだ。  歴戦の武将である、父の万松軒とはまた若干異なる威圧的な雰囲気が醸し出されているように見えた。 「相模の御屋形、北條左京大夫様をご案内仕りました」  案内役だった本陣警備の足軽大将が信玄にそう伝えると、正面に座る信玄と倅太郎義信の眼の前に氏政用の床几を設えて陣幕後方に下がって控えた。  氏政は軽く信玄に会釈して床几に腰掛けた。 「此の度は松山城攻めの御加勢、誠に忝く存ずる。徳栄軒殿の御厚情、この氏政嬉しく思いまするぞ」 「なに、武田と北條殿との仲じゃ、相互に助け合って行くのが両家の繁栄の道と思うておる。」 「まこと有りがたい。この松山城に籠るは先に滅んだ扇谷上杉朝定の末の弟、七沢七郎との事。これが岩付の三楽斎に擁立されると名を上杉憲勝と変えて、新たに扇谷の家督となったそうにござる」 「その話は手の者から聞いておる。我が方にも北條家の風魔衆と同じく三ツ者と云う忍がおるでな」 「なるほど」  ここで氏政は信玄の渾名、足長入道を思い出した。 「流石にお耳が早いようですな。したがこの憲勝、東陸奥に放浪していたとの事なので戦等はした事がないと思うておった所、意外なほど手強い」 「それは憲勝が戦上手なのではござるまい、一緒に籠っておる三田五郎佐衛門や広沢信秀、高崎刑部等の歴戦の勇士が居るからにござろう」 「さもありなん。しかしこの松山城、一時我が北條の手の内にありましてな、その時に手を加えており守り易き城に作り変えてござる。これがまさか自らを扼するとは思いもよりませなんだ」 「北條殿の築城術、事の他堅固に作られると聞く。ならばこの城攻めも手詰まりなのも納得のゆくところ。したが其のままに放っておく事も出来ぬ故、これより我が方で一手引き受けまずは一当りしてみよう」 「御加勢、宜しく頼みまする」  この挨拶がおわり、氏政が本陣に戻ると信玄と示し合わせた第一波の城攻めを始める事となった。  まずは甲州勢・小田原勢が代わる代わるに鬨の声を上げ、城方に挑発を始めた。  今にも攻め寄せようとするかのようなこの鬨の声を聞いた城方、普通ならば動揺が広がるために城内の厭戦気分を払拭する意味で、一部隊だけでも打ち出してくることが戦の常道なのだが、何を思ってか沈黙を保っている。  この沈黙を不思議に思った甲州勢、再び幾度か鬨を上げて挑発を繰り返した。  ところが何度挑発を繰り返しても城方から打ち出してくる事がなく、一向に戦端を開く為の埒が明かないと思った寄せ手の甲州勢と小田原勢、双方を合わせた五千余騎が、両大将からの下知を待たずに痺れを切らしてどっと突きかかって行ってしまった。 「城方に戦のできる勇者はおらず!皆々城門に寄せて木戸を引き倒してしまえ!」  先陣の足軽大将、自らの配下を引き連れて土塀逆茂木の結い回された城門に走り寄って行く。  その卒たちが思い思いに城壁・城門に辿り着くかと思われたそのとき、城方の土塀狭間や逆茂木の間から、なんと鉄砲二百丁がずらりと並んだ。  この当時、関東地方で鉄砲二百丁を単独で用意できる大名などは皆無である。  これは越後からの数と在地勢力からの借り上げで集められた数だ。  寄せ手があっと気が付いた時には濛々たる紫煙白煙があがり、百束の雷が落ちたかのような大音を発した。  この一瞬の一斉射で寄せ手は百五十人を超える死傷者を出していた。  断末魔の叫びを上げる負傷した兵達、一瞬で骸となった兵達を見ながら、思わぬ鉄砲の数に驚いて慌てふためきながら算を乱して引き返そうと犇めきあっている寄せ手に、弾薬を詰め終えた城方からの銃撃が再び襲いかかって来た。  ばたばたと射殺され、また手負いとなった我が主人を担いで引き上げようとする寄せ手の背中に向かって、次は強弓こわゆみの手練が土壁上から現れて矢を射込む。  これも無駄になる矢は幾本も無いほどに兵の体に吸い込まれ、寄せ手はこの一度の強襲だけで四百余人を失ってしまった。  この思わぬ鉄砲の数に驚いた氏政と信玄、両家の主だった家臣を集めて急遽対応策を練る評議を始める事にした。  評議に集まった中でも、攻め寄せた将の中には自らの手勢の大半を失い顔色を失っている者もいる。  まさかの初戦大敗北であった。 「鉄砲がこれほど揃えられているとは思いもよりませなんだ」  北條綱成が忌々しげに口を開いた。 「城方が静まり返っていたのは、この鉄砲玉の届く所まで我らを寄せたかったからにござろう」  信玄も城方の思わぬ攻撃に驚いている風でもあった。 「しかし下知も待たずに攻め寄せた者共、あ奴らのお陰で城方の考えが分かった事も一つの収穫にござるな」  氏照は下知を待たずに攻め寄せた配下の将を快くは思わなかったのだが、怪我の功名との考えを持ったようだ。 「しかしあの夥しき鉄砲の数じゃ、どうやって攻め寄せるが良いか」  氏政の声を聞いた信玄が咳しわぶきの声を上げた。 「ならば鉄砲玉の届かぬ所で戦をすれば良い。左京大夫殿、この城は北條家の持ち物でもありましたな、ならば水の手はどこにあるか分かりましょう」 「それならば分かり申す。水の手を断たれるお心算か?」 「左様、この松山の城は土地が軟そうに見えるでな」 「何故そう見えまする?」 「ここに布陣する前、城を一廻り見て来たのじゃが、城の西側にある山の腹に幾つかの横穴が掘られていた。あれは古き墓穴であろう、そのような古の人間に掘れた岩場であらば、甲州の金堀衆ならば難なく掘り進めようと思うてな」  信玄は松山城西側にある、殆どが土に埋もれた中で一部だけ地上に顔を出していた吉見百穴を見たのであろう。 「穴を掘るのでござるか」 「いかにも。この城攻め、正面切っての力攻めでは此方の兵が無駄死にするばかり。金堀衆を呼びよせるまで暫し待たれよ」  信玄の、この自信に満ちた言葉に一同は納得し、城攻めを甲斐の金堀衆に任せる事にした。  松山城では金堀衆を甲斐から呼び寄せていた頃、一方の小田原では万松軒の元に里見の侵攻が知らされていた。  この松山城の援軍の為に、安房から義堯の倅義弘が一軍を率いて北上を開始したとの知らせが届いたのだ。  これを受けた万松軒は、千葉胤富と原胤貞に国府台城に出兵を要請、合わせて江戸衆にも国府台城に出兵して里見氏を迎撃する旨を下知。  江戸城から出兵させている。  里見勢が岩付城に入り、三楽斎の軍勢と合流して松山城に寄せて来る事を警戒しての措置であった。  江戸衆は居城である江戸城を出陣後、葛西城の城兵を糾合するとそこから東へ一里程の国府台城へと進軍。  城に到着したところで即座に里見勢を迎え撃つ為の備えを施させ始めた。  この里見援軍の知らせも岩付の三楽斎の元にも知らされたようで、松山城を囲む北條勢を遠巻きに見ていたように出していた兵を纏めて岩付の城に戻っている。  松山城攻めと同時期に、国府台城でも里見・太田三楽斎の合同軍と北條勢との合戦が始まろうとしていた。
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!

66人が本棚に入れています
本棚に追加