関東騒乱(五)

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関東騒乱(五)

 謙信が私市(騎西)城の囲みを解き厩橋城に引き上げてから数日過ぎた頃、甲州本国に残して来た武田勢を動かして信濃越後国境を伺う動きをさせた信玄の策に、さしもの謙信もこれの警戒のために厩橋城を退去して春日山に去る事になった。  厩橋城に放っていた三つ者から謙信退去の知らせを受けた信玄は甲州に帰陣を決定、北條勢も松山城に上田朝直を据えると長蛇の陣列を組んで小田原へと退き陣する事となり、松山城周辺には久しぶりの平穏が戻っていた。  大石源三氏照は青梅に戻り勝沼城攻めを再開。北條綱成は先に落とされた国府台城を取り戻すため万松軒の下知で手勢と共に江戸城に差し向けられていた。  また松山城での手配を一通り済ませた小田原では、二度目の謙信関東入りの時にもその先鋒となった太田三楽斎に対して急ぎ対策を練っている。  毎回謙信の手先となって働く三楽斎、居城が上野の外れの方にでもあれば良いのだが、岩付という江戸から古河までの中間を扼す位置に蟠居する領主では面倒この上ない。  今後関宿城の梁田と事を構えるに至っても、拠点となる河越城や松山城、滝の城から見てもやはり中間に存在する。  この地理条件にある岩付城は、最早小田原にとっては目の上の瘤であった。  しかし越後の謙信、安房の里見、常陸の佐竹、下総は関宿の梁田などと密接な関わりをもつ太田三楽斎、これを力攻めしても利があるとは思えない。  そこで万松軒は朝廷を巻き込んだ策に出た。  手元の鎌倉に居を構える甥の古河公方足利義氏を間に入れて去年の古河落城の時に洛中へと去った近衛前久を使い朝廷を動かし、岩付の太田三楽斎になにがしかの官位を受けさせるのだ。  同時にその倅資房へも官位を受けさせる。  結果、これは古河城から落とされた近衛前久にとっては屈辱と思われるかもしれない行為だったが、そもそも岩付の太田家は前久が古河城在城の折りに味方として参じており、謙信に擁立された古河公方藤氏の奉公衆に継ぐ関東の有力領主だった事もあって、その太田家の人間を叙任するのであればと直ぐに動いている。  日も無く三楽斎は民部大輔に任じられ、倅資房も大膳大夫に任じられた。  これに初めの内は喜色満面の三楽斎だったが、北條家が関与していた事を聞くと一転、越後の謙信への誠意を問われかねんと渋い顔になるのだが、一方の倅資房は元々親北條方でもあったので、感激し一層北條方に傾く事になった。  この為太田家では父と子の仲が不穏なものとなると幾日もしない内に家中騒動となって嫡男資房は廃嫡、弟である梶原氏の跡を継いでいた政景を家督とする事を三楽斎が決定したようだ。  これを機に資房は急遽出家し、岩付城を退去している。  万松軒の太田家懐柔策は別の顔を持って世の中に現れてきていた。  そして永禄六年も半ばを越えた頃、青梅の三田綱秀は源三氏照に攻められていた勝沼城と楯ノ城・西城を放棄して辛垣城に籠城、手勢を二手に分けて一方を辛垣城の守りである枡形山城に籠めた。愈々三田綱秀も詰め城へ押し込まれた形となり、この城攻めも後幾許も無い内に終焉を迎えるだろう。  更に十月に入った頃には上州で信玄が動きを見せている。  昨年の合戦で真田氏の持ち城となっていた長野原城(箱岩城とも:現群馬県吾妻郡長野原町)を、岩櫃山城主斎藤越前守憲弘が奪い返そうと挙兵したのだ。  農繁期でもあったので城兵が少ない所に攻めかかって行く斎藤勢は、無人の野を行くごとくに侵攻を続けた。  長野原城に留守居役となっていた常田隆永は、この知らせを受けると少ないながらも人数を集めて斎藤憲弘を迎え撃つ為に兵を繰り出したのだがあえなく討ち死に、奪われた長野原城には羽尾幸全と海野幸光が入った。  しかし敵側であるはずの海野幸光は既に信玄の調略を受けている。  信玄による調略戦の妙である。  この長野原合戦を聞いた信玄は甲斐の軍勢を引き連れて斎藤越前守憲弘の本拠、上野の岩櫃山城(現群馬県吾妻軍吾妻町)に押し寄せた。  岩櫃山城では斎藤憲弘の家老である斎藤則実、海野幸光の弟、輝幸が武田家に内通していた為、城攻めに合わせて内応を打診するとこの二人は即座に内応を確約。  信玄の率いる甲州勢に城が囲まれた所で城に火をかけ城兵を混乱させると、信玄はその混乱に乗じて岩櫃山城を落とした。  またそれに合わせて長野原城にも出兵。城代となっていた二人のうち、海野幸光が信玄に内応したので長野原城もあえなく落城し、その後両城共に真田幸隆が城代として入った。  この両城の更に東にある箕輪城と倉賀野城も、これでじわじわと孤立を始めて行く事になる。  また信玄、今度は小田原に出兵の協力を求めて倉賀野城(現群馬県高崎市倉賀野町)攻略作戦に出た。これに答えた万松軒は武田への合同軍として軍勢を上野に出陣させている。  その間信玄の調略も休む事が無く、高崎城(現群馬県高崎市高松町)の和田業繁を武田に寝返らせると甘楽・多野方面を攻めさせ、そこを押えさせてから武田・北條の合同軍に参陣させた。  これにより合同軍の勢いを止める勢力は箕輪城の長野業盛のみとなり、援軍を頼めない倉賀野城は風前の灯となって行った。  しかし、信玄が上野で快進撃を続けていた同じ十月、北條属城である江戸城では一大事とも云える謀反が発生していた。  江戸城香月亭詰めであった太田康資が謀反の旗を挙げたのだ。  これは江戸城乗っ取りまで進める事が出来ず太田康資は岩付に落ちて行く事になるのだが、太田康資の謀反が余りに不自然に見えたために万松軒は江戸詰の遠山綱景に康資が謀反に至るまでの動向を逐一調べさせてみると、どうやら岩付の三楽斎が康資に調略をかけていた事が分かった。 「三楽斎、どうしても手懐ける事はできぬか」  小田原城の奥座敷で万松軒は溜息を吐いた。なるべくならば太田三楽斎は手懐けたかった。そのため数ヶ月前には万松軒自ら手を砕いて官位を受けさせたのではあるが、それにも関わらずこの度の康資への調略である。 「最早放って置く訳にも行くまいな」  知らせを持って来た小姓の前でふと独り言をつぶやいていた。 「評定衆を集めよ」  急遽開かれた小田原城評定の間では、評定衆と江戸詰の遠山・富永を含めた人数で、岩付の太田三楽斎をどう扱うかの軍議が始まった。  評定衆の思惑と江戸衆の現状を照らし合わせ、決議が決定したのは十一月に入ってからの事である。  江戸を去り岩付の太田三楽斎を頼った太田康資を追い、この大義名分を持って岩付城を攻める決議がなされた。  作戦決行は師走十二月。  倉賀野城攻めで武田・北條勢が上野にいる限り謙信は越山しても関東平野の真ん中までは来る事が出来ない。また季節がら越後は雪に閉ざされる冬ともなる。丁度良い加減なのである。  岩付攻めが決まってからの江戸城では合戦の準備が始まり、農閑期の今、手の空いている近在の百姓の次男三男に募兵をかけ回っていた。  そして作戦決行当月の師走に入ると、小田原からの援軍も江戸城に到着して一斉に岩付に向かって出陣して行った。  同じ頃謙信は、倉賀野城救援の為に越山して厩橋城に入り、そこを本陣として和田城を攻めている。  この謙信の動きに合わせて倉賀野城を囲む北條武田合同軍は和田城を囲む謙信を攪乱するかのように倉賀野城の囲みを解き、謙信方であった太田金山城の横瀬成繁を攻め始めた。  すると合同軍の思惑通りに金山城の横瀬成繁からの救援依頼が謙信に入る事になり、謙信は和田城攻めの軍勢から一部を割いて金山城の後詰に向かわせている。  これで和田城攻めと太田金山城の後詰の二方面作戦を行わなければならなくなった謙信、見事に合同軍の術中に嵌まり上野で足止めを食らうと、岩付救援までは手が回らなくなった。  思う壺である。  これを横目に江戸城を出陣した北條勢だったが、謙信は自らが三楽斎の救援に駆け付ける事が出来ない事を理由に安房の里見に太田三楽斎の救援依頼を手配。  依頼を受けた里見義弘が急ぎ一万二千の軍勢を催して翌年の永禄七年一月四日、国府台城に入り岩付に進軍しようとしていた北條勢の脇腹を扼してきた。  万松軒はこの里見勢を押える為に千葉胤富に出陣を要請するものの、千葉胤富は人数の違いで単独では押えきれないと知らせを寄こしている。 「里見のやることよ。致し方なし。岩付攻めの軍勢を急ぎ葛西の城に戻し、里見勢の籠る国府台城に当たらせよ」  そう小田原城で万松軒が岩付攻めの軍勢に新たな令を下すと一月六日、岩付攻めの北條全軍は下総の葛西城に入っている。  また北條勢から岩付城を攻められる恐れが無くなった三楽斎も手勢を引き連れて里見義弘の籠る国府台城へと入って行った。  そして翌七日、国府台城の里見の主力を千葉胤富の軍勢と北條勢で挟み、直接対決する事が決定した。  岩付城攻めから国府台城攻めに目的を変更した北條勢は、ほぼ小田原北條家の主力部隊とも言え、その顔ぶれは錚々たるものだ。  本陣に当主氏政を置き、北條佐衛門大夫綱成、その倅常陸介氏繁、弟福島頼季、伊賀守勝広、松田佐衛門佐憲秀、その子左馬介、松田兵部大夫秀植ひでのり、大道寺直宗、垪和綱可はがつなよし、伊勢員運かずのり、多目長宗、笠原能登守、山角四郎佐衛門、荒川豊後守、内藤備前守等他にも数十名の大将分を含んでいる。  北條軍大将には北條綱成、二陣には松田憲秀、後詰は幻庵宗哲の子・北條新三郎氏信(綱重)と大道寺駿河守であったと関八州古戦録は伝えている。  この大部隊が下総の葛西城に入り、翌日の国府台城攻めを控えた其々が合戦準備を始めていた頃、先陣に組み込まれていた江戸衆の遠山綱景が富永直勝の陣を訪ねていた。 「弥四郎殿(富永直勝)、ちと、良いかな」  陣幕を捲って入って来た遠山綱景はどこか顔色が冴えないように見える。 また覇気も無く俯き加減にやって来たところに、どうにも何時もと違う様子だと富永は気が付いたようだ。 「これは丹波殿(遠山綱景)、どうされた?顔色が優れぬようじゃが」  この江戸詰の二人、年齢が近い為か気心の知れた仲でもある。  ちなみに今年、遠山は五十二歳、富永は五十六歳を迎えている。 「この度の我が婿殿の不始末の事じゃが」  この言葉に、富永はやはりな。と遠山がやって来た理由が分かった。 「まぁ待たれよ、このような陣の内では息も詰まって思うように話も出来ぬ。ちと肌寒いが延命寺まで戦勝祈願ついでに畔でも歩きながら話さぬか」  富永が気を使ったのだろう、遠山が言った『婿殿』とは、遠山の娘婿になっていた江戸城香月亭詰であった太田康資の事なのだ。  身内が起こした謀反も討伐出来ず、またそれを原因とした里見迎撃戦とあっては北條勢の先鋒にあっても非常に肩身が狭いことは容易に推察できる。  富永は颯と床几を立ちあがると、遠山を誘いざなうように陣幕から出て行った。  葛西城に設えられた陣幕を出て数十歩も歩くとそこは中川の畔になる。  現在の中川大橋のかかる河川敷から南に300m程の所にある川岸付近のことだ。  月の光に照らされた川面がきらきらと輝いては移ろっている。  そこから北に歩を向け、葛西の陣から四町程先にある延命寺に向かって二人は歩きだした。 「ここなら無用な人の目も届くまい」  この富永の心づくしに遠山は心の中で深く感謝した。 「弥四郎殿(富永)、忝い」 「何を言われる。儂と丹波殿(遠山)の仲ではないか。同じ江戸詰の者同士腹を割って行きましょうぞ」  中川を渡る冬風は日が落ちてからは更に凍える寒さとなり、甲冑に吹き付ける冷風は様々な色で染められた糸で威おどされた鉄くろがね造りの板さねからじわじわと体温を奪うほどである。  しかし何故かこの二人には、今日に限って葛西城の外廓に所々並べられた篝火と、遠くに見える延命寺境内の篝火が目に届き妙に暖かくも思えた。 「康資の叛意を知る事が出来なかった儂の目は節穴だったのかもしれぬ」  遠山綱景はふと独り言のように漏らした。 「叛意、でござるか。確かに良う気を付けて居ればそれと無う気付く事もあったやも知れぬが」  富永直勝は右手に持った鞭で川岸に生えている蘆を打ち払った。 「されど康資の謀反に気が付かなかったのは儂とて同じ。儂も江戸詰の責任がござる故なぁ。それを節穴と申されれば正にその通りじゃ。ならば明朝の里見攻め(国府台城攻め)で手柄を挙げ、その後岩付を攻めて節穴の汚名を返上しようではないか」  二人は川岸から延命寺の境内に辿り着くと、境内の周囲を回って山門正面にやって来た。  そこで一度本堂に向かって深々と礼拝し手水舎で手を洗い口を濯ぐと、本堂前で今一度礼拝し、合掌して簡易な戦勝祈願とした。 「弥四郎殿、ちと頼みたい事がある」  山門から出て本堂に向かい礼拝を済ませた遠山綱景が、悲壮な決意を秘めた表情で富永直勝を見た。 「どのような事ですかな」  優しげに問う直勝に、遠山は明朝からの国府台城攻めでの行動を共にしてもらいたい事を告げた。 「本隊とは別に、我ら二人の手勢を持って里見勢の出鼻を挫くのでござろう」  思いを知られた綱景は、すまぬと絞り出すように声を出して直勝に深く頭を垂れた。 「丹波殿、頭を上げて下され、儂にも三楽斎から康資への調略を見抜けなかった責任もあるでな。もちろん共に戦いましょうぞ。行く行くは憎き三楽斎を血祭りに上げてこの恨みを晴らそうではありませぬか」  遠山は忝いと繰り返すばかりであった。  そして翌朝、北條勢は全軍を持って中川を渡り、現在の柴又を抜け当時は『がらめきの瀬』と呼ばれた矢切りの渡しを越えて国府台城へと侵攻して行くのだが、葛西城から中川を越えて江戸川の矢切りの渡しまでは凡そ半里程の道程。  そこから里見勢の籠る国府台城までは東南に向かって凡そ半里と、合わせても一里程度の両軍は指呼の距離である。  当然ながら北條勢の動きは里見勢の物見で察知されていると考えられる。  しかし、この綱成の率いる北條軍本隊が出陣する半刻程前、大将綱成に大物見(強行偵察)と称して先行させて欲しいと申し出た者がいた。  遠山綱景と富永直勝の二人である。  大将綱成も二人の腹を薄々は読んでいた為、北條勢本隊と極端に離れなければ良いとし、「先陣を望むからは遠山、富永も生涯かけての粉骨であろう、いやしくも綱成、その発する心を奪いたくない」と言葉を添えて送り出していた。  事実上の先陣としてがらめきの瀬を越えた遠山と富永の二部隊、功を焦るあまりか本隊が江戸川を越える前に深々と国府台城付近まで侵攻して行ってしまった。  無論里見勢はこれを物見の知らせで受けているために、まずは国府台の東にある森に手勢を置き、これ見よがしに遠山、富永の二人に挑発を仕掛けた。  強行偵察の大物見だった二人であったが、この挑発に動きを止めて森に潜む里見の手勢に対して布陣すると、これを見た里見勢が一斉に国府台城方面に兵を引き上げて行った。 「丹波殿、里見方が退いて行きまするぞ!みすみす逃がしてしまっては先陣を承ったものの恥になる、寄せて行って先ずは一当り致そうぞ!」  富永の声に答えた遠山、二人は手勢を纏めて江戸川の水面に囲まれた国府台城東南の曲輪に寄せて行った。  しかしこれは里見義弘に巧みに施された罠なのだ。  城の東南にある大手口手前の森に敷かれる道の左右に、里見義弘は鉄砲隊を伏せていた。  また寄せて来た遠山、富永の手勢と正面から衝突させるように正木大膳亮時綱、正木弾正佐衛門親子を駆け出させ、まずは騎馬勢同士の乱戦を造り上げた。  そしてどちらが優勢ともつかぬうちに引鐘が打ち鳴らされ、一斉に正木親子の騎馬勢が引き揚げて行く。  これに追い縋った北條勢、「今ぞ!里見勢が引き揚げた、追い討ちをかけよ」そう自らの有利と思い一目散に正木親子を追わせた。  その時、不意に道の両側から濛々たる白煙があがり同時に渇いた轟音が響き渡った。  道の両側に伏せてあった里見方の鉄砲が一斉に火を噴いたのだ。  寄せ手の遠山、富永勢は正木親子を追い討ちしようと部隊を縦に長く伸ばしていた為、鉄砲隊の良い的となり、ばたばたと馬から撃ち落とされた者多数。  鉄砲が火を噴き終わると今度は後ろに控えていた弓勢が立ちあがり一斉に矢を射かける。  繰り返し次々に射掛けて来るこの矢玉には、如何血気に逸る両隊でも一溜まりも無く押し崩されて全滅かと思われた。  しかし遠山、富永に遅れてがらめきの瀬を越えて来た本隊も、ここに至って漸く国府台城に到着。  遠山と富永の危急を知った北條本隊の内、垪和綱可はがつなよし、清水太郎佐衛門、多目長宗、内藤備前守、山角四郎佐衛門の手勢が小田原方鉄砲隊の援護の元に救援に駆けつけて来た。  これで形勢が一挙に逆転、里見の鉄砲隊も射崩されて正木親子が不利になったかと思われた時、国府台城からは岩付の後詰である黒川権衛門、浜野修理亮、川崎又二郎等が正木親子の救援として押し出して来た。  この為に両軍混戦となり激闘五刻(十時間)に及ぶ一進一退の攻防が続く事になった。  先の里見鉄砲隊の虎口を脱した遠山綱景だったが、混乱の極みの中で伴廻りの家臣とも逸れてしまい単騎で里見勢の中で槍を振るっていたその時の事。  岩付の三楽斎と共に国府台後詰としてやってきていた太田康資と馬上でばったりと出くわした。 「おのれは新六郎(康資)!」  太田康資がこの声のする方を見たとき、一瞬であるが目を見開いた。  しかし直ぐに得物の六尺の樫の棒をくるりと振り回すと冷静さを取り戻したかのような落ち着いた表情になった。 「これは舅殿ではないか、このような所で何をなされておられる」  綱景も敢えて笑って見せた。 「我が身内に戯けがおってな、親の代からの旧恩を忘れて寝返った者が居ったのじゃ。それの退治にこうして出向いておるのよ」 「それは苦労な事にござる、したがその親の代からの旧恩とは如何なるものぞ。約束を違え江戸城代を取り上げたまま子の代になっても約状を果たそうとせぬ小田原殿に恩を見出すことは甚だ難しき事にはございませぬか」  綱景はこの婿である康資の言葉を聞いて謀反の元を知る事になった。  父資高が扇谷朝興の頃に万松軒の父、氏綱と気脈を通じて江戸城を奪ったのだが、その後の手落ちで今に至るまで江戸城主の約状を果たされていなかったのだ。  当時からの念願である江戸城主になれない事に康資は不満を強めていたようだ。  なるほど。と納得した綱景だったが、康資に一抹の哀れを感じた。 「弓矢取る身の習いなれば親子兄弟婿舅、何れも敵味方となるは致し方なし。この上は雑兵の手にかからんよりは我が手にかかれ。さすればその功により汝の旧領を安堵なさしむべし」  康資の乗馬は興奮しているのか前足を掻いている。落ち着かせる為にくるりと輪乗りさせて綱景に向き直った。 「かかる大事を思い立った以上何で命を惜しもうぞ、命を塵と晒す事、もとより覚悟の上。小田原に降るよりはこの地に芥と捨てる事を望む。ただ、今の御芳志忝い。今生の暇乞いにその槍をこうむらん」  太田康資の言葉を最後に、両者一気に馬を駆けた。  蹄の上げる土小砂利が高く舞い上がる。  綱景の繰り出した槍が康資に届くかと思えたそのとき、康資はそれを寸前でかい潜り六尺の樫の棒を力任せに振り抜くと、兜を付けていたとはいえこの樫の棒で打たれた綱景、落馬してもんどりうって深田に倒れた。  この様子を見ていた者の話では遠山綱景の兜は砕け散り、首は胴へめり込んでいたと云う。  遠山綱景は娘婿に討たれ国府台で散る事となった。  これに対して北條勢は、裏切り者の太田康資と知ると血相を変えて追いすがって来た。  康資と同じく綱景にとっては婿である川村修理亮、高城治部少輔等が討ちかかるが、里見勢もこれを討たすなと人数を繰り出すと敵味方十字卍に馳せ違い、再びの大混戦に陥った。  正月七日のこの日、日が昇ってから沈むまでの実働五刻が過ぎた頃、北條勢は武士百四十人、雑兵九百余人が討たれている。  またこの合戦で遠山綱景と富永直勝は両人とも討ち死した。  江戸城香月亭詰の江戸衆、太田康資の謀反を見切れなかった責任を重く感じていた二人は、自らの命を引き換えにその責任を全うしたのだろう。  日が暮れて部隊を粛々と引き揚げて行く北條勢を城内から眺める事になった里見勢、正月早々の緒戦に大勝して気を大きくしたのか、城将里見義弘は痛手を受けた北條勢は二、三日は攻めて来る事も儘なるまいと考えたようで正月の祝いも兼ねて将士兵卒其々に酒を振舞い始めた。  戦勝の祝い酒である。  国府台城での酒宴が始まると、あとは止めど無く酒が振舞われ続け、城兵は張り詰めた気が抜けたように亥の刻(午後十時)を過ぎても未だ酒宴の最中であった。  誰かが踊っているのか囃す声が方々からあがり、ささらを鳴らし、今日の手柄を自慢している声もあがっていた。 「里見勢は今日の勝に気を大きくしたか、戦場を忘れたかのように酒宴を開き、今もって呑めや歌えの大騒ぎをしておりまする」  引き上げの際に残して来た物見からの知らせが入って来た北條方本陣では、大将綱成に松田憲秀、氏政、笠原、清水、多目、萩蔵人等が詰めていた。  物見の報告を受けた松田憲秀は早速にも国府台を攻撃するべきとの意見を諸将の居る本陣で展開している。 「国府台城は城の北東側が切り立った険阻な崖になっておりまするが、東南はやや緩やかになっておりまする。今のこの城方の油断を突いて追手のある東南の森と、南にある井戸の曲輪の二方向から攻め寄せれば勝利は疑いない事にござる」  これに否を唱える者が居るはずもなかった。  里見もこの闇夜をおして北條勢が再び現れるとは考えていない。  宴は今なお続いている。 「絶好の好機ではあるかな」  本陣で一言漏らした氏政も自らの人数を率いて綱成と盛秀の本隊と合同で出陣。  各隊が、がらめきの瀬を越えたあたりで小雨が降って来た。  城方の目から隠れるには丁度良い天の恵みでもある。  暗くそぼ降る雨の中、大将綱成は軍勢を静々と国府台城の南東の裾まで押し寄せ、人数を追手前とその周りの空堀手前の森の中、また南の空堀を周りと、さらにそこを江戸川方向に降ると出て来る井戸周りへと人数を潜ませた。  また今の城内を探るために大橋山城守と横瀬忠兵衛を忍ばせると、まもなく二人は駆け戻って来た。 「城方は雨避けのために軒下や梢の下に入っておりますが、今もって酒を喰らい兵の殆どが泥酔しているように見受けられまする」  知らせを受けた綱成、憲秀と共に頃合いは由と異口同音に叫んでいた。  綱成が颯っと合図の旗を上げると、城を囲むように布陣していた北條勢が一斉に時の声を上げた。  北條勢は周囲から一斉に走り寄って空堀を渡り、土塁上に立ててあった土塀を引き倒して乱入する。  また南の井戸曲輪からも鬨の声をあげて追手門と井戸曲輪の二方向からどっと人数を押し寄せると、酒に酔っていた里見方の兵は急な北條勢の攻撃に対応できずに得物を取る事も忘れて敗走を始めた。  一部の心得のある者は手勢を二手に分けて追手門と井戸曲輪へと兵を差し向けたが、酔って縺れた足は如何ともしがたく次々に北條勢の槍の錆となって行った。  しかし大将里見義弘がこれに気が付き、太田三楽斎、太田康資、正木親子、真里谷等の人数を従えて態勢を立て直すと、手勢を纏めて北條方がなだれ込んだ曲輪に一斉に討ちかかってきた。  これに北條方先手も二十余人が討たれ、大将綱成も黄八幡の旗が折れる程の窮地に落ちいったが倅氏繁が急ぎ馳せ向かって事なきを得ると、その時、城の奥から馬に乗った者が数騎追手曲輪に現れた。  里見義弘である。  何を思ったのか、 「我こそは房州の陣将、里見右馬頭義弘なり!」  と大音声に名乗りを上げて北條勢に挑みかかった。  馬蹄を轟かせて突進してくる義弘。もう少しで槍の穂先が届こうとした直後、いきなり乗馬が竿立ちになった。  何事がおこったかと北條勢が固唾を呑んだとき、義弘は馬上で笑っていた。 「さらばじゃ」  一言おめいたかと思うと、前面に居並んでいた北條勢の目の前で向きを変え、さっと横切って行った。  義弘が打ちかかって来るとばかり思っていた北條勢だったが、いきなり目の前で逃げた。  余りの逃げっぷりの良さに北條勢が呆気にとられた。呆気にとられているうちに、義弘はそのまま城を落ちて行ってしまった。  どうやらそのまま上総へ落ちて行ったようだ。  また直後、義弘に続いて太田三楽斎も馬上姿で現れ、これも血路を開いて城を落ちようとしたのだが、こちらは運悪く北條方の清水又太郎と組み会いになってしまった。  既に身に数か所の傷を負っていた三楽斎、暫くは揉み合うものの腕力で勝る又太郎に競り負けて落馬すると、清水又太郎が三楽斎の背中側から馬乗りになった。  三楽斎は手柄首である。  この快挙に、つい又太郎は周りが見えなくなった。三楽斎の首を欠こうと小刀を抜いた時、二人の後ろに放れ馬が暴れ込んできた。  これに驚いた又太郎は慌てたせいか三楽斎の首に中々刃が通らなかった。 「何をうろたえる!我が首には喉輪が嵌まっている、早く外して我が首を欠け」  三楽斎の声に我に返った又太郎、そうかとばかりに三楽斎の喉輪を外している最中に、同じく叫ぶ三楽斎の声を聞いた三楽斎の近習である舎人孫四郎と野本与次郎に気が付かれ、馬乗りになっていた身を逆に押し倒されて胸に刃を差し込まれてしまった。  危急を救われた三楽斎は、立場を逆にして又太郎の首を欠くと近習二人と城を抜け出し、居城岩付城への道を逃げ帰る事になった。  さしもの里見勢も、城将義弘と三楽斎を失った為に算を乱して敗走をはじめ、結局この夜戦で里見勢が失った兵で首を取らずに打ち捨てられた者の数は三千七百六十人、首を上げられた者の数は五千三百二十余級にも及んでいた。  この合戦を後年第二次国府台合戦と呼ぶのだが、この合戦の直後、国府台城の残った土塀に落首が書かれていた。 曰く、 『よし広く(里見義弘)、たのむ弓矢の威は尽きて、からきうきめにおうた(太田三楽斎)身の果て』  この異常なまでの城方の油断を皮肉った歌なのであろうが、それにしても盛大に油断をしたものでもある。
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