関東騒乱(六)

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関東騒乱(六)

 第二次国府台合戦が終結を迎える前後、岩付の城では騒ぎが起こっていた。  国府台城に後詰として入っていた父三楽斎と弟梶原政景の留守中に、入道して城を出ていた三楽斎の長男、前年に入道して道也どうやと名乗っていた太田資房が俄かに還俗して城を乗っ取ってしまったのだ。  親北條派の家臣に擁立されて岩付城主に治まった資房。これによって国府台城から敗走してきた父の三楽斎と弟梶原政景は岩付城に戻る事が出来ず、下野の宇都宮広綱に救援を求めて宇都宮城に庇護される事となった。これは万松軒の採った三楽斎親子への懐柔策が表面に現れたものでもある。  また急使を持って小田原に知らされたこの事件により岩付城が北條方に靡いた事を知った万松軒は、国府台城の背後からの脅威を気にする必要が無くなった事をよろこんだ。  即座に国府台攻めの軍勢をそのまま上総・安房攻めに向かわせる事ができるからだ。  この功績によって資房は、万松軒氏康の名から『氏』の偏諱を受けて『氏資うじすけ』と名乗るようになっている。  岩付城の寝返りを持って北條方は更なる勢いを持ち始めた。  里見攻めで国府台城を落とした北條軍が近隣の無人となった相模台城、松戸城等を次々に接収して行き、その勢いを持って小弓城を落とすとそこに原氏を入れ、更に軍勢を進めて池和田城を囲んだ。  ただしこちらはかなりの人数の籠る池和田城である。  無理攻めをすれば思わぬ痛手を被る事もある。ならば調略で落とそうと城将多賀倉人の目を盗んで忍を送り込み、威嚇のために全軍を持って城を囲む。  すると城を埋め尽くすほどの人数に囲まれている池和田城では最早顔色も無い家臣達で溢れていたようで、呆気なく内応者を出すと、左程抵抗も無い内に城は落ちた。  池和田城を落としても北條勢の勢いは留まることなく上総を突き進み、主要な里見の城である佐貫城、造海城等を怒涛の勢いを持って攻め落としながら上総を席巻。  半年に満たない間に里見の本城でもあった久留里城までをも攻め落としていた。  この時に小田原北條氏は上総・下総の殆どを手に入れ、万松軒時代の最大の版図となったのである。  また源三氏照が取り掛かっていた青梅の三田攻めも永禄四年からの三年越しで漸く終結、枡形山城と辛垣城を攻め落とす事ができた。  辛垣城に籠っていた勝沼城主の三田綱秀は夜を日に継ぐ氏照の攻撃に遭い、最早もたぬと観念すると身一つで辛垣城を脱出。  再起を図るために岩付の太田三楽斎を頼って城を落ちて行った。  しかし三楽斎は国府台合戦での敗北後嫡男氏資から城を追放されていた為にこれに頼る事が出来なかった。この為、三田綱秀は岩付城にすら入る事無く自刃することになる。  また綱秀次男喜蔵はこの合戦の前後に病没しており、嫡男十五郎は配流先の伊豆で元亀年間に自刃した為ここに青梅の雄、三田氏の直系は滅亡する事となった。  源三氏照は接収した勝沼城を北條方の城に改修すると、城主に三田綱秀の旧臣であった師岡将景を置いて治めさせて自らは築城後間も無い滝山城を主城として入城。  また上州での武田の応援に赴いている藤田乙千代も今年名を改め、藤田氏邦と名乗りはじめた。  武州鉢形城の藤田(北條)氏邦の誕生である。  この武田勢と攻守を共にした北條勢は、謙信との戦いの最中に松井田城、安中城を相次いで陥落させると、越後方の長野業盛の居城箕輪城とその支城になっている倉賀野城を孤立させる事に成功している。  武田・北條勢に攪乱されていた謙信は攻めていた和田城の囲みを解いて全軍を太田金山城に移動させ、城を囲んでいた武田・北條の軍を追い払う事ができたのだが、結局は和田城も落とせずに厩橋城に退却していった。  その直後、下総・上総を手中に治めた北條勢に誼を通じ、上杉勢から離反した事を公言した小田天庵(氏治)がいたのだが、これを謙信は許せぬとして長躯小田天庵の居城、常陸は筑波山の麓にある小田城を攻めるために軍勢を纏めて山王堂(現茨城県筑西市山王堂)に向かって出陣している。  この小田城は、現在の茨城県つくば市小田にあった城で、国道125号線を挟んで南に小田城、北の山裾に前山城を配置している平城である。  筑波山の南の麓にある小田城跡は旧関東鉄道筑波線によって城址中央を斜めに分断されており、在りし日は学生やサラリーマンを乗せて上下繁雑に活躍していたのだろうが、時代の波に飲まれて廃線となり今はサイクリングロードとして再利用されている。  さて、この小田城攻めで上杉方に加担するよう常陸の佐竹義昭に申し入れた謙信、越後勢の寄る山王堂に両陣の兵を集め、一斉に小田領に侵攻し小田城を囲む事になった。  これに対する小田天庵は下総の結城晴朝と北條方に援軍を受けており、小田城を北から窺う佐竹勢に迫る勢いを持っていたのだが、佐竹義昭が結城晴朝の後背を突くように宇都宮広綱と手を組み、上杉謙信の軍勢が小田城間近まで迫ると一挙に形勢は逆転。  天庵は小田城を守り切れずに城を脱出して家臣菅谷すげのや氏の寄る土浦城に退いて行った。  しかし謙信は関東計略をどう思っていたのだろう、この小田城に城代を置くのみで再び信濃方面を信玄に扼されたと聞くや自らはさっさと越後に戻ってしまったのだ。  直後の八月には信州の川中島で、五ヶ度合戦の最後となる塩崎での対陣が行われている。  謙信が越後に帰った今、勢力を盛り返した小田天庵の軍勢によって小田城は取り返された。  関東各地で起こった騒乱が風雲急を告げた後、強大な暴風を伴って坂東の地を吹き荒れた永禄七年も改まり永禄八年となると、不識庵謙信の関東での影響力は更に輪をかけて縮小して行くのである。  まずは謙信が先の松山城攻めで扇谷憲勝の子を手討ちにしていた事もあって、扇谷上杉勢力の在地領主にも協力を求める事が難しくなってしまった。  しかもその扇谷の主、上杉憲勝は小田原北條家の庇護の元にあるのだ。  また謙信の擁立していた古河公方足利藤氏は小田原方の領国である伊豆に幽閉中であり、万松軒が擁立している古河公方足利義氏も小田原方の領国である鎌倉に居を構えている。  これは謙信が持っていた公方勢力と扇谷勢力を扱う為の手札が、全て北條家に移った事を示していた。  今の謙信には越後の手勢を除くと、手元にいる憲政と繋がりのある山内上杉氏の旧臣にしか影響力が無くなったと言って良い状態だ。  武州松山城後詰の時に三楽斎が抱いていた杞憂が現実のものとなってしまった。関東での風雲は、北條家有利の状況に変わり始めたのだ。  長年喉に詰まった魚の骨の如く東武蔵を扼していた岩付の三楽斎を追い落とし、安房から上総・下総を窺い続けていた里見も安房一国に押し込める事に成功し、また勝沼の上杉氏の旧臣三田綱秀も滅ぼしたのである。  目下の北條家の目的は上州厩橋を含めて北を盗るか、下総から下野に至る肥沃の大地を盗るかになっていた。  万松軒の発案で氏政が評定を開き、評定衆の総意を得て下総・下野侵作戦が採択されると、 「下総は関宿の梁田晴助を討つべし」  そう口々に叫び、関宿攻めの軍勢が催されたのは永禄八年正月の事。  最早公方奉公衆に気を使う時期は過ぎ去っている。  下総侵攻のための総大将を滝山城主の大石源三氏照とし、大道寺政繁、北條綱成、倅氏繁、松田憲秀等の大将分が、其々の国衆を引き連れて東武蔵の岩付城に集合、岩付の太田氏資を先鋒とした北條勢が、公方奉公衆の一人である豊前左京亮を案内役として三月朔ついたちの早暁、関宿城に向けて押し寄せて行った。 「これはいかん!」  そう関宿城内で叫び声を上げたのは今年五十九歳になる梁田晴助であった。  晴助はそもそもの北條家嫌いであったが、自らの甥である藤氏が伊豆に幽閉されてからはそれが顕著に現れていた昨今。  未だ藤氏が存命中に義氏を公方と認めることは出来ぬと左右にも漏らしていた。 「謙信殿に急ぎ知らせを送れ、北條が関宿に寄せて来たと。また越後では危急に間に合わぬ故、上州の横瀬成繁殿にも援軍を差し向けてくれるように合わせて使者を送るのじゃ」  知らせを寄こした武士が平伏したまま火急の用件を伝えると、傍らの廊下に控えていた晴助の供の侍が一目散に走り出て行った。  またここには今年十七歳になった嫡男持助も共に屋形内に居たのだが、まずはその倅にも軍事を掌握させる修行にと軍勢を集める様に指図している。  この晴助嫡男の持助、先祖に同名の持助がいるのだがそこから数えると玄孫やしゃごにあたる。  火急を聞いて三々五々集まってくる侍分を広間に集めた晴助は、其々の寄親と寄子を纏めて組織し一群を城詰に、一群を城外の仕寄場にと、数で勝る北條勢に対抗するために策を授けた。  軍勢を其々小部隊に割り振り、城の周りの藪や小高い土地に仕寄場を構築させ、そこに兵を置くのが目的である。  大部隊に対する野伏せりの策で戦おうとしていた。  当然関宿城に主力を置くのだが、未だ北條方には降っていない栗橋城の野田氏と逆井城の逆井氏とも連携を取り、各城を其々の本城として急ぎ軍勢をばら撒くように指示。  これによって関宿城、栗橋城、逆井城近辺には急仕上げの仕寄り場が構築されて行き、また古い要害をも新たに修築していった。  他にも近在の百姓達に協力させ、渇いた田に水を引き入れる事を指示している。  これは渇いた田を泥田に変貌させて大軍が一斉に押し渡れない様にするものである。  梁田晴助が、さあ源三(氏照)ござんなれと、一応の布陣を終わらせたのは三月二日の早朝。北條勢出陣の急報を聞いてから僅か一日の事であった。  仕寄場構築はまだまだ続けられていたが、北條勢を待ち受ける布陣は大凡が完了している。何時でも討ち出す準備は整った。  対して岩付城から出陣した北條勢、北條甍の指物と五色の旗を押し立てて粛々と五里の道程を進軍して行く。これは大軍である事の示威行動でもあり、進軍する間に北條勢に敵方が降る事を望んでのものでもある。  そして最初に両軍の先鋒が刃を合わせ始めたのは梁田晴助が急ぎ布陣を終えた三月二日の事。関宿城は僅か一日の差であわやの北條勢による蹂躙を受けるところだったのだ。  北條勢が関宿城に接近すると共に行動を開始した梁田勢、至る所に造った仕寄場を有機的に連絡させると北條勢の先鋒の思わぬところから鉄砲を射かけ始めた。  関宿周辺に不案内な北條勢は急ぎ道案内の豊前左京亮を呼ぶが、急拵えの仕寄場の位置が分かるはずも無い。  数町進む間もなく藪や小高い丘か等、様々な場所に造られた梁田の仕寄り場からの攻撃に出くわし始め、先鋒が僅かに進む度に不意に現れる鉄砲に悩まされ出した。  北條勢が関宿に侵攻する道すがら梁田の伏兵が現れて前衛が崩されるのだ。  初めの内は梁田の伏兵が現れる毎に梁田本隊が現れたと思い、軍勢を整えて攻撃の態勢を整えたのだが、直ぐに梁田の鉄砲隊は逃げ散る。  再び行軍の態勢を整えて進軍を始めると、また何処からか現れた梁田の鉄砲に扼され始めた。厄介な野伏せりの戦術である。 「梁田め、厄介な戦立てをしおる」  氏照はそう言うのだが、この野伏せり戦に有効な手立てがある訳でもなく、力押しに関宿の地まで進む以外方法がなかった。  しかし夏の蚊のような小部隊による攪乱作戦は神経を消耗するため、これを嫌って関宿城への別の道を探す為に斥候を何人か放つのだが、その斥候は悉く梁田兵に捕えられてしまう。  それほど梁田方は各所に仕寄場を構築し兵を潜ませていたのだ。 「斥候が戻らぬ所を見ると、梁田め至る所に兵を忍ばせておると考えねばなるまい」  三月三日の夜、日が落ちてからの進軍を諦めた氏照は関宿城から僅かの距離に陣幕を張って本陣とし、そこで一夜を明かす事にした。 「関宿への道は細く狭い。また両脇はこの時期にも関わらず泥田になっており一度足を踏み入れれば中々抜け出す事が出来ぬ程深いようにござる。大軍を擁して進むにはちと不向きな地ではありますな」  陣幕の内で綱成が髭をさすりながら氏照に直答していた。 「しかしこのまま進むのも夏の蚊を追い払うようで如何にもうっとおしい。何とかならんもんかのう」  大道寺も野伏せりに嫌気がさしているのであろう。 「どうにもなるまい。相手はこの関宿の地を知りつくした土地の者なのだ。数で押し渡り藪蚊共の本城を一挙に潰すしか方法はありますまい」  結局はこの松田憲秀の言葉が採用され、翌日から再び北條勢は、梁田兵と云う名の夏の蚊に悩まされながら進軍して行った。  一歩一歩進むごとに数を減らしていかなければならない北條勢、大軍勢を幾手にも分けて進軍させる事も考えたが一大湿地帯となっている下総のこの一帯では、見渡す限りの深田が存在しており全ての道が細く造られている。  領主晴助の意を受けた在地の百姓達が総出で水を抜いていた田に水を引き土をこね、短期間の内に見渡す限りの深田・泥田に仕上げているのだ。  迂闊に畦道を歩こうものなら周りの藪から再び梁田の兵が現れて泥田に落とし込まれぬとも限らない。  このような中、足を取られる泥田を迂回し川を渡り沼に足止めされている間に、地勢を知りつくしている梁田・野田・逆井の兵がいつの間にか寄せて来ており鉄砲を射かけて来る。  これを追いかけようと、梁田の兵が飛び込んだ藪を目がけて切りこむ兵を待っているものはその先の深い泥濘であり、勢い余って飛び込んでしまった兵が足を取られている隙に両側に避けていた梁田兵の矢で射殺されてしまうなど翻弄され続けた。  多数の犠牲を払い、苦労しながらも漸く関宿城下に到着する事ができたのは三月も六日を過ぎた頃だった。  既にこの頃は太田金山城に寄る上州の横瀬成繁の軍勢が派遣されている。  関宿の町屋一帯から湿地と江戸川に挟まれた城を初めて見た氏照、左右に侍っていた綱成、憲秀共々に関宿の城と城下をしげしげと眺めた。 「あれが梁田の城であるか」  江戸川と湿地や沼沢地に囲まれた関宿の地は、船の往来と商業が盛んで一大城下町を形成しているが、この北條勢来襲の知らせを受けていた近在の者は城に逃げ込むか他所へ逃散しており今の町は静まり返っている。 「父が一国にも値する城といわれたが、確かに繁盛の地の様じゃ」  氏照の言葉の後に、大道寺政繁が鞭を持った右手をすっと上げ、町屋一帯をくるりと指差した。  当時の関宿の城下町は内宿・外宿とに分けられており、更にその宿の各町割りは木戸で区画されて、其々が関宿城の曲輪としても機能するように造られている。  また城下の宿に入るには三つの木戸を潜らなければならない造りのようでもある。 「まずは手始めに城下に火を放ち、潜んでいるかもしれぬ梁田兵を炙り出しましょうぞ」 「うむ、ならば政繁、その方に役目申しつける。梁田の兵を見つけたら一人残さず討取るのだ」  梁田の野伏せりに悩まされながらもどうにか関宿城下まで攻め寄せる事ができた北條勢、ようやく梁田に一矢報いる時がやってきた。  大道寺の兵が人の気配の無い関宿城下に散って行き、思い思いに火を放ってから暫く後、至る所で煙が上がり始める。すると間もなく紅い火がちろちろと見えだすと、瞬く間に紅蓮の炎が関宿の空を焦がし始めた。  木造板葺きの家屋はあっさり燃える。少々町から離れると茅葺の農家もあり、こちらは更に火が付きやすかった。 「これで城を丸裸にしてしまえば小勢が出て来て我らを扼す程の働きもできますまい」 「よし、このまま軍勢を押して総攻めじゃ!」  火を点けた事で勝ちを得たと思ったのか、氏照は早々と総攻撃を口にした。 「いや、まだ早うございますぞ!せめて宿の全てが燃え尽きるまでお待ち下され」  大道寺の言葉は尤もなことなのだが、野伏せりに悩まされた氏照は余程鬱憤がたまっていたのであろう。 「勢いのある今こそ攻め時である。軍勢の潜む気配も無い宿に何を恐れることがあるか」  氏照は既に伏せ勢が無い事を見越し、是より後は大軍勢による力攻めでかたが付くと確信していた。  火が点いたばかりではあるが、攻め時と判断した氏照の下知で鬨の声を上げた寄せ手は、城下町から城へと延びる三方向の道筋其々に建てられた木戸に向かって粛々と侵攻をはじめた。  しかし、今まで沈黙を保っていた梁田方が寄せ手に合わせるかのように直ぐに動き出した。  いまだ火勢盛んになる前の城下の宿から、潜んでいた梁田の軍勢が突如として現れ北條勢を挑発し始めたのだ。  寄せ手を窮地に誘い込む為の常套手段とも思えるのだが、氏照はこれを考慮せずに寄せ手が攻め込むに任せた。 「梁田の小勢が出て来たぞ!それ討取ってしまえ!」  足軽小頭が奇声を発して歩卒を叱咤する。  この下知に従って梁田兵を討取ろうと走り出す北條勢。  人数を頼んで其々大戸張・小戸張・新曲輪と呼ばれた三か所の木戸に吸い込まれるように人数を押して行った。  ところがここに、思いもかけぬ伏せ勢がいたのだ。  勢い余って飛び込んで行った北條勢が目にしたものは、各仕寄場に居たはずの梁田の鉄砲隊である。  これが一つ所に集まって、一斉に銃口を向けているのだ。 「あっ」と思う間もなくここでも白煙と共に爆音があがると先鋒の足軽がばたばたと薙ぎ倒され、後続が鉄砲隊に辿り着く前に再び強弓勢が矢を放つ。 北條勢先鋒は、はまさに死屍累々となって行った。  募兵された足軽は自前の甲冑を持たない為に、自らを使役する領主からお仕着せ甲冑を支給されるのだが、これは各人の行動を迅速にするために軽く造られている。  鞣革なめしがわや和紙を重ねた物を漆で固めてこれを胴とする。  槍の穂先や刀等は偶然触れた程度では怪我などをする事は無かったが、鉄砲玉や強弓から放たれる矢などは簡単にすぽりと通り抜けてしまうのだ。  北條勢を待ち受けた鉄砲が火を噴き終わり、思惑どおりに北條方の先鋒が崩れると次は騎馬隊がずらりと現れる。  これが鬨を上げながら鉄砲の餌食となっていた足軽達に襲いかかって来た。  態勢の整う間もなく梁田の騎馬勢に蹂躙された北條足軽隊は混乱を始め、逃げ惑い前後不覚になりながら入って来た木戸に向かい崩れて行く。  西を江戸川、東を沼地に囲まれている為に崩れる先鋒を避ける事も出来ず、北條勢本隊までもが三つの木戸から其々に崩れ出て来た味方に押し戻されると、関宿の城から南に一里程も離れた中戸と呼ばれた地にまで退却する事となった。  ここは現在の千葉県野田市中戸と呼ばれる土地で、浄土真宗本願寺派の寺院である常敬寺がある付近だと言われている。今は西に江戸川が流れ、東に利根川が流れる水郷の町だ。  この押し崩された自軍将兵を見た氏照、本陣を後退させて常敬寺城域を本陣とした。 「伏兵を置いていたのか」  一先ず崩れた兵を落ち着かせ本堂周りに陣幕を張らせると、口を鳴らして床几に腰掛けた。 「城下の家々は伏せ勢を置くには丁度良い目隠しになり申す。政繁殿の申す通り、兵を差し向けるのが早過ぎたのでござる」  押し崩されながらも城下の宿を出た平地で騎馬隊を巧みに操り、梁田の騎馬兵を関宿城に押し戻していた北條綱成が仮設本陣となった常敬寺の本堂に現れて氏照の脇の床几に腰掛けた。 「綱成殿、見事にござる。さすが戦巧者にござるな」  その隣に座っていた大道寺政繁が梁田騎馬兵を押し込めた事を労った。  二人のやり取りを見て渋い顔をする氏照、 「わかったわかった。その方達の申す通りじゃ、勘弁せい」  ばつが悪そうに扇で兜をかく真似をはじめた。  その滑稽とも言える氏照の行動を見た綱成、笑みを浮かべながら次の手を打つ時期を氏照に伝える事も忘れない。 「したがまだこれで終わりではござらん。今見える城下の火は衰えますまい。これで外・内宿が焼き払えたら、その時こそ総攻めですぞ」  内・外宿の要塞となる建物が灰塵と化せば伏兵が置けなくなる。追い落とされた関宿の城下町であったが、北條方は運が良かった。  燃え盛る宿の火を梁田兵は消火する事ができなかったようで、火勢が衰えることなく外宿・内宿共に黒煙を盛んに上げている。  中戸まで退却した北條勢はそこを本陣として、勢いのつき始めた火を絶やさぬように方々に人数を放って関宿城下の宿場の火を更に勢いづかせていた。  そんなとき、伝馬による急報が入って来た。  上州金山城の横瀬成繁の手勢が直ぐ近くまで寄せているとの報である。 「横瀬が関宿の後詰に入ったか。折角の火攻めではあるが致し方ない、今腹背に敵を受ける訳にはゆかぬ。御大将、ここは一度岩付に退却するがよろしかろう」  大道寺政繁の言葉を聞かずに失敗している氏照である、今の北條綱成の言葉に素直に従う以外なかった。 「無念ではあるが、致し方あるまい。東と西を水に扼されておる我らじゃ、ここを挟撃されでもしたら壊滅は免れぬ」  横瀬成繁の手勢が関宿に入る知らせはあったが、あれほど梁田の野伏せりに手を焼いて漸く辿り着いた関宿城である。これを未練も無くさっさと包囲を解いて退却して行った氏照の腹にあったものは、もちろん腹心二人の言葉もあったが、再び関宿を攻める時は足場を固めるために仕寄場を構築してからとの思いを確たるものにしたからでもあった。  この退却までを後年、第一次関宿合戦というのだが、このあと岩付城を追われていた三楽斎がこの関宿合戦を足掛かりとして岩付城を攻めた事があった。  第一次関宿合戦が行われたのは三月、宇都宮の手勢を借りて三楽斎が岩付攻めをはじめたのは五月である。  関宿攻めに失敗した北條勢が油断していると思ったのか、殆ど間を開けずに岩付領に攻め入った三楽斎だったが、岩付攻めに参加していた将が途中で寝返るという事件が起こった。  この為、五月の七日と八日の二日間、城を囲んだだけで已む無く野田氏の寄る栗橋城に退却して行ったのだが、これを見ると最早三楽斎の影響力は岩付城からは消し飛んでいたようだ。倅氏資の統率力と小田原北條家の影響力が岩付付近でも大きくなっていた事を証明するものに他ならない。  また三楽斎の岩付攻めが終了して後の五月初旬、再び氏照は関宿城付近に軍勢を寄せている。  この時は関宿城を目標とせずに野田氏の寄る栗橋城に接近していた。  流石に関宿攻めの経験があるため今回は大量に農民に化けさせた風魔忍を放ち、仕寄場に潜む野田兵や梁田兵を事前に察知してこれを討ち平らげながら侵攻している。  順調に進んでいた栗橋城攻めだった。  しかし、物事はそう上手くは行かないものなのであろう。  今後の侵攻作戦の詳細を打ち合わせようと栗橋城手前に設えた本陣で各将が軍議を開く為に居合わせたその頃、危急の知らせを持った伝令の騎馬武者が、芭蕉の指物を靡かせながら本陣近くまで走り寄って来ていた。  丁度このとき、氏照も陣幕に入る為に陣幕の一端をさっと片手で持ちあげた時だった。 「御注進!御注進にございます!」  騎馬武者の大声は本陣の氏照の耳にまで届いた。  何事かと思う反面、この声に嫌な予感を思えた氏照は、陣幕を片手で持ちあげた格好で動きを止めた。  暫くすると取り次の武者に周りを囲まれた伝令武者が本陣に現れ、氏照の嫌な予感の裏付けをする言葉を言い放った。 「越後の上杉勢、再び三国峠を越えて厩橋に入り、軍勢を纏めて関宿の地に向かって来たようにございます」  これを聞いた氏照はまさに苦虫を噛み潰した様な顔をした。 「また管領殿か」  言葉を吐き捨てると渋い顔から一転、少々呆れ顔になった氏照であったが、片手で持ちあげていた陣幕を下ろして内側に入ると共に居合わせている大将分の綱成、政繁、憲秀等と軍議をはじめる事にした。 「御大将、越後の管領殿がまた三国峠を越えて厩橋に入ったようでござるな。毎度の事ながら一体何をしに関東へ参られるのであろうかのぅ」  大道寺政繁も、毎年関東に現れては騒乱を生み出すのみで越後に去って行く謙信の行動に合点が行かぬのであろう。 「毎度、懲りぬお人よ」  これは松田憲秀、こちらも呆れ顔に近かった。 「関東での領地を求める訳でもなく、居座る訳でもない。一体謙信と云う御仁は何がしたくて関東に参るのか。まさか本気で関東管領の職を全うしようとしている訳でもあるまいに」  綱成も謙信の考えが今一つ分からないと云った風情だ。 「しかし謙信が越山して居れば此方に近寄ってくるのは間違いない。ここは栗橋の囲みを解き、謙信が再び越後に去るのを待つのが良い手であろう」  氏照は、野田と梁田に越後勢が合流する事を嫌った。更に周りにある関宿城、逆井城等が健在な今、自らの陣城を持たぬ北條勢がこの合同軍と当る事は出来ぬとも判断したようである。 「おそらく大殿様でも同じように言われたでしょう」  綱成が氏照の考えに賛同した。 「ならば軍を分け、急ぎ岩付、葛西、松戸、国府台の各城へ入れよう。越後勢は関東にやって来ても兵糧が無くなれば大人しく帰ってゆく。せぬでも良い戦はせぬが良いでな」  こうして永禄八年に起った第一次関宿合戦は、謙信の越山で完全に幕を下ろす事になった。
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