関東騒乱(七)

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関東騒乱(七)

 この永禄八年は日本全国でも様々な事件が起こっていた年でもあった。  駿河の今川家から独立していた松平家康が三河国を統一し、石山本願寺が徳栄軒信玄と同盟を結んでいる。  また常陸の佐竹義昭が没し、将軍足利義輝も三好義継と松永久秀によって弑逆されていた。  この弑逆事件を受けると義輝の弟、興福寺一乗院門跡である覚慶が幽閉先を脱出。そのまま還俗して足利義秋と改名後に足利家当主になる事を宣言している。  武家政権の総本家、室町の足利家までが下剋上の渦に巻き込まれていた。  そして年が改まり永禄九年も二月に入った頃。  越後から不識庵謙信が三国峠を越えて関東に侵攻していた。  もう幾度目の越山になるのだろうか。 「また関東入りでござるか」  これは越後を立つときに、春日山城の主殿で直江景綱からかけられた言葉である。  謙信の元に上州平井の城を追われた関東管領上杉憲政が転がり込み、村上義清をはじめとする信濃の各将を応援しながらも譲られた関東管領の職を全うしようと、毎年三国峠を越えていた。 「将軍義輝様が弑逆されて後、新将軍となられる義秋様からも協力要請の書状が届いております、もうそろそろ京に目を向けられても良い時期かと」  そうなのだ、景綱が言っていることは何時も正しい。当初は関東管領の職を受け、騒乱の元凶になっていた小田原を攻めれば関東は簡単に治まると思っていた。しかし当時、景綱が助言していたように離合集散果てしない関東の地は今もって治まる事がない。  謙信はどことなく関東平定の熱意を失い始めていた。 「常陸の小田がな、土浦城から兵を上げて再び小田城に入ったのだ。また下野の佐野昌綱(唐沢山城:現栃木県佐野市富士町)が反旗を翻して居る。これは潰しておかねばならん。それに関宿の中務(梁田晴助)も小田原からの軍勢に押されておると聞く」  ふと目線を僅かに景綱から外した謙信。 「儂は関東管領なのだ」  語尾が腑明瞭となりながらも、自らにこの不毛な関東攻めの大義名分を納得させるように言葉を飲み込んだ。 「儂は毘沙門天の代理としても戦うておる。故に正義の為に戦い、救いを求める声が有らば出向かねばならぬ」  外した目線を再び景綱に向けると、それをじっと見ていた景綱が静かに溜息を吐きながら頭を左右に振った。 「御屋形様、いくら仏の代理とは申せ毎年兵を数多失い兵糧を食いつぶし、金銀を湯水のごとくばら撒いたこの関東、一体越後に如何程の実入りがあり申したか?関東の列公が参集したは小田原攻めの時のみ。この時諸手を上げて我が方に参陣しておりながら、我らが越後に戻らば手のひらを返したように小田原に尻尾を振り申した」  景綱は荒くなった言葉を鎮めようと一度深く息を吸い、そして静かに続けた。 「以後は我らが関東に入らば参集し、戻れば小田原に靡く。これでは関東攻めで死んでいった将兵が浮ばれませぬ」  謙信は景綱を手で制すると、「分かっておる、しかし今はまだ山を越えて行かねばならんのだ」そう言い残して景綱から逃げるように越後を出て来ていたのである。  上州厩橋城の城域にある望楼矢倉の狭間から利根の流れを見ている謙信、独り直江景綱との言葉のやり取りを思い出していた。  どのくらい望楼矢倉に佇んでいただろうか。 「儂が国境を越えれば小田原は兵を引きおるのも事実」  存念を振り払うように独りごちると、ふっと溜息を一つ吐いて望楼矢倉から降りて行った。 「是より出陣する、行く先は下野の唐沢山城じゃ」  矢倉下に居合わせた諸将にそれを伝えると、出陣に合わせて常州佐竹氏に援軍要請の使者を立て、自らが小田城に赴くときに同時に軍事行動を起こすように申し送らせた。  この後、厩橋城を出陣した越後勢は佐野昌綱の籠る下野は唐沢山城攻めが始まる。  しかし関東七名城で知られる堅城唐沢山城は越後勢による総攻めでも簡単に落ちる気配はなかった。  関東でも珍しい石垣の城に手間取った謙信は下野に釘付けになることを恐れ、数日間だけ城を囲んだ後、常州小田城に向けて移動する事とした。  そして常陸小田城へ向けて行軍したその夜、集散何れともつかない下野の小山、下総の結城を警戒して南へと一気に五里を進み、広田氏の居城である武蔵の羽生城まで軍を進めている。地理的にはこの城から一里程の所に、先年の松山城後詰に間に合わず、腹いせに落とした私市(騎西)城がある所だ。  見渡す限りの関東平野の中原に陣営する事になった謙信、城主の広田氏を含め本陣内で各将参集の中軍議をはじめた。  越後軍では諸将口角泡を飛ばしての軍議と言うよりは、謙信からの上意下達が正直なところである。内容は、常陸の小田城攻めに合わせて軍を二分し、一方はそのまま小田城へ、もう一方は下総の臼井城(現千葉県佐倉市臼井田)に進めると云うものであった。 「下総の臼井城でございまするか?」  軍議の席でそう謙信に確認したのは柿崎景家である。  今回の関東仕置きの行軍でも一手の大将として軍勢に加わっていた。  越後を出た時に聞いていた目的は、佐野攻めと小田攻め、そして下総の梁田を救援するためと聞いていた柿崎、何故原胤貞の籠る臼井城を攻めるのであろうかと疑問が脳裏に過ったのだ。 「小田を攻めた後の行き先は下総の関宿ではありませぬので?」  この問いに若干の憂いを含んだ表情を見せた謙信。 「原胤貞の籠る臼井城が目標である。小田原兵は儂が越山したことを聞き恐れをなして関宿を去っておると聞く。ならば領地から動けぬその眷属共に打擲をくれてやる心算ぞ」  決戦が好きな謙信としては全く誘いに乗ってこない北條が歯がゆくて仕方がない。  押せば退き、退かば押してくる小田原万松軒の戦術。せめて一太刀はと毎回どこかの城を攻めているのが現状であり、殆ど北條家支配を立ち切るまでには影響を及ぼせなかった。 「なるほど、小田原支城の者共に一泡吹かせてやるのですな」  しかし自らの主に心酔している柿崎景家を始め、越後の家臣達はそれを悪くは受け取ってはおらずに、毎回の出陣で勝ちを収める我が主は軍神であると思い込んでいる節がある。  でなければ、江戸時代以降に思想的発展を遂げた武士道的忠節・忠心がない限り、自らの領地恩賞の見込みのない関東攻めに好んで従軍する越後の在地領主はいないであろう。  または離反することによる謙信からの報復を恐れたか。  それを知っているのは謙信本人と、今のところ直江景綱だけとも云えた。 「柿崎、その方は儂の名代として小田攻めを指揮せよ」 「名代にございまするか!これは有りがたきお言葉。この景家、身命に代えましても小田城を落として見せましょう」  自分も臼井攻めに呼ばれるかと思っていた景家は若干拍子抜けする思いもあったが、謙信の名代として小田攻めの全権を委任された事に単純に喜んでいた。  柿崎を一手の大将と決定すると、次に謙信は隣に座っていた本庄繁長を見た。 「繁長、今から急ぎ安房の里見に使者を送れ」 「は。してどのような要件にございましょう」 「越後勢これより下総の臼井城に攻め寄せる。これに合わせて里見勢は兵糧を出来るだけ集めて安房を出陣し、我が方が囲む臼井城に後詰に参れと申し送れ。また参陣途中で良い機会に恵まれたときは、小田原に押えられている上総・下総の各城を道々落としながら参っても良いぞ。と伝えよ」 「ならば早速に申し送りましょう」  本庄繁長が安房の里見に急使を発した翌日、謙信は羽生城から軍勢を二手に分けて常陸・下総に其々兵を進めて行った。  小田侵攻部隊と別れた臼井侵攻部隊には、館林の長尾新五郎顕長、小泉の富岡主税介重朝を先陣とし、本庄繁長、北条丹後守、新発田治長、沼田の本庄秀綱、三上兵庫介正秋、石毛平馬持之、森下三河守、守谷の相馬治胤が差し向けられ、これに本陣として謙信も出陣している。  そして三月初旬、越後勢は下総の小金原に入り小金城を攻めた。しかし越後勢は唐沢山城に引き続いてこれも攻めきれず、数日の間城を囲んだのみで兵を退き、そのまま臼井城まで侵攻して行った。  この越後勢の侵攻を臼井城からの急報で知った千葉胤富、居城としていた小弓城から急ぎ兵を纏めて原上野介胤貞の籠る臼井城に援軍として入城している。  また原上野介は亥鼻城(いのはなじょう又は千葉城:現千葉県千葉市中央区亥鼻)、本佐倉城(もとさくらじょう:現千葉県佐倉市酒々井町本佐倉)へも使者を送って救援を頼んでいるが、恐ろしく足の速い越後勢である。  もしかすると臼井城を素通りして亥鼻城に一気に向かってしまう恐れもあると考え、居城臼井城では攻守どちらでも対応できる備えをさせた。  それと同時に椎津主水正と椎名孫九郎に兵五百を預け、亥鼻城から一里北にある本佐倉城へ送り出すと、自らは大和田(現千葉県八千代市大和田か)の砦に加勢に向かおうと手勢を集めて城を出て行った。  上野介が臼井城を出発して志津城を越えた頃、大和田砦に向かう道中で黒具足の一群が此方に向かってくるのが見えた。  その集団の先頭には、ひときわ鮮やかに朱色の具足に金の鹿の角を打った兜を頂いている騎馬武者がいる。  この赤武者に上野介は見覚えがあった。 「そこにおられるは松田殿ではないか?」  この上野介の声が聞こえたらしく、その赤武者はゆるゆると手を振り、一騎、さっと馬を走らせて上野介の前まで寄せてきた。  金の鹿の角を打った兜もまぶしいその騎馬武者、朱の面頬の下にある口髭を揺らしながら、「原殿、越後勢がやって参ったと聞き及んだので臼井の後詰にやって参ったよ!」そう嬉しそうに声を出した。  松田孫太郎秀郷が手勢百五十余人を引き連れて臼井城に駆けつけて来る途中だったのだ。  これは心強かった。  松田孫太郎は先年の里見攻めの時から大和田砦に駐屯している小田原北條家の家臣である。  戦場では派手に目立つ朱色の具足を好んで着け、数度の合戦でもおくれを取った事が無い剛勇の武士。その働きは北條家の赤鬼とまで異名されたと関八州古戦録にある。  此方から援軍に駆けつけるはずの大和田砦から、反対に松田孫太郎が援軍に来たのであれば、小田原からの援軍も期待できるとの思いを持った上野介胤貞、松田の援軍を臼井城に案内すると直ぐに自兵をその主要な支城である小竹城(おだけじょう:佐倉市小竹)、先崎城(まつさきじょう:佐倉市先崎)、志津城(佐倉市上志津)、師戸城(印西市師戸)、岩戸城(印西市岩戸)を固め、臼井城周辺に置かれた洲崎(佐倉市八幡台)、仲台(佐倉市八幡台)、宿内(佐倉市臼井田)、手繰(佐倉市南臼井台)、稲荷台(佐倉市稲荷台)の各砦に人数を詰める事にした。  小田原の後詰を期待した結果、各城・砦に人数を振り分けた為に本城臼井城には僅か二千程の兵が詰めるのみであった。  こんな中、とうとう越後勢の先鋒が臼井城付近に現れはじめた。  謙信は先陣である長尾顕長、富岡重朝の手勢を印旛沼の北側に送り込み、岩戸城、師戸城を取り囲ませると、中備えの本庄繁長、北条丹後守、新発田治長の手勢を印旛沼南岸の西北方面から先崎城に向かわせ、他国衆の本庄秀綱、三上兵庫介正秋、石毛平馬持之、森下三河守の手勢には臼井城南西にある志津城を囲ませている。  城方が固唾を飲んで越後勢の出方を窺う中、越後勢は全て配置につくと、総攻めに入る時と合図を示し合わせる伝令を送った。  同時刻に各城・砦を各個包囲して殲滅する作戦である。  またこの時、謙信の元に安房の里見親子も臼井城付近まで進軍してきたとの知らせが入った。 「丁度良い頃合いだ」  謙信は本陣にいる。その本陣は臼井城西方にある小竹城を押えている。  東に支城小竹城が見える丘に本陣を敷いた越後勢、馬防柵を陣周りにぐるりと施して刀八毘沙門天王の旗を上げ、本陣周りには笹に雀の紋を染めた指物をずらりと並べている姿は壮観でもある。  また本陣周りに居並ぶ家臣其々の陣場にも旗指物が押し並べられ、遠望すれば風にはためく一群の姿は白泡波頭が打ち荒れた、寄せては返す海のようにも見えた。  印旛沼から弥生三月の春風そよぐ下総の地は、冬の寒風も温さを増して湿地や原野には野に咲く花や青葉が咲き乱れ、命の息吹を感じる春がやって来ている。  この美しい自然に柔らかい日差しの注ぐ巳の刻(午前十時)、謙信の座する越後軍本陣に『懸かり乱れ龍』の旗が高々と差し上げられた。  越後軍総攻撃の合図である。  これを確認した貝吹きが一斉に貝を吹きならし、太鼓の打ち手も力の限りに押し太鼓を打ち鳴らしはじめた。  地面がぞろりと剥がれて流れ出るように、青葉の萌え出でる印旛沼周辺にある生命を冥途に送りつける軍団が一斉に動いて行く。  昼の日に当てられ、ぎらぎらと輝く穂先を槍衾として押し並べた越後勢が、津波のように押し寄せて一つ一つ砦を押し崩して行った。  元々人数の少ない臼井城の守りである、津波のような集団に散らばりながら勝てるはずもない。  少ない人数ながらも必死に防戦していた岩戸城であったが、善戦空しく落城。城兵は後方の師戸城へと流れた。  また師戸城も戦火に晒され始めて二日も過ぎた頃、曲輪を一つ一つ剥ぎ取るように落とされて行き、再び原勢は城を逃れて行った。  岩戸城、師戸城を落とした越後勢、臼井城との間にある印旛沼を越えて洲崎砦に入った原上野介の手勢を追うように長尾顕長、富岡重朝の手勢が周辺の漁村から奪い取った船を使い、夜間に印旛沼を越えて来た。  印旛沼対岸でも先崎城から崩された原上野介の兵が仲台砦にばらばらと逃げ帰っており、志津城からも同様に越後兵に追われた城兵が手繰砦に逃げ込んでいた。  謙信本陣もこれを見て陣を動かし、目の前の小竹城に寄せると、これも三月十日までには総崩れとなって手繰砦へと入って行った。 「これは脆い」  謙信は緒戦の圧勝で、越後を出るときのあの憂鬱な気分が吹き飛んでいくのを感じた。 「面白い、面白いぞ。やはり儂は戦が好きなのじゃ」  誰に言うともない言葉を吐きながら馬上陣を進める謙信の元に、三月十日の未の刻(午後二時)、里見勢からの伝令が入る。 「里見勢、つい先ほど臼井城の後詰に到着され、城、南側の稲荷台砦に攻めかかったとの事にございます」 「里見も参陣したか」  他にも様々に伝令が走り込み、攻める越後勢有利の報告をもたらしていた。  また十六日までには洲崎砦も落ち、仲台砦も落ちた。  翌日の十七日も暮れ始めた申の下刻(午後五時)になると稲荷台砦に襲いかかっていた里見勢が是を落とし、守っていた城兵が本城臼井城に逃げ込んでいる。  そして十八日の暮れまでには、城方は遂に手繰砦も手放して総勢で臼井城本城に逃げ込んで行くのが見えた。  この手繰砦陥落によって、臼井城は支城と各砦全てを失って丸裸になった。 「脆い、この城は直ぐにでも落とせますぞ。このまま攻め寄せては如何に」  謙信の馬廻りが連日の好調な城攻めに興奮しているのだろう、顔を上気させている。  確かにこのまま攻めれば落とせぬ城ではないだろう。しかし謙信は城方の討ち取られた人数が気になった。  城は落としているが死傷者は殆ど居ないのだ。 「まぁ待て、もうすぐ日も落ちる。今日の城攻めはここで止めじゃ。退き鐘を鳴らして軍勢に城を囲ませよ」  勢いに乗った城攻めを今取りやめるのは惜しいとは思ったが、何か気に掛かる。  このまま攻め寄せる事はまずいと勘が伝えていた。  謙信の下知に馬廻りは伝令を呼んで、素早く軍勢の引き上げに掛からせた。  この数日に亘る原上野介の退却戦は、城方の軍師と呼ばれた白井入道浄三(じょうみ:胤治)の考案した作戦だったのだ。謙信の戦場での勘は、中々に鋭いものと言える。  余りにも支城と砦に人数を割いてしまった為に本城の守りが手薄になった事を城主原上野介に聞かされた白井浄三、小田原からは危急の援軍が間に合わない事と、謙信の狙いは本城臼井城のみである事を見抜いて上野介を口説き、退却するそぶりを見せて全軍を臼井城に退き戻していたのだ。  実はこの時、小田原勢は謙信別働隊が常陸小田城攻めを始めた事に合わせて後詰を送っており、氏政を大将として上杉方であった常陸下妻城の多賀谷政経を攻めていた。  このため臼井城援軍の為の兵が割けない状態になっていたのである。  翌朝越後勢は臼井城を囲んだ軍勢の内、本庄繁長と長尾顕長、富岡重朝の三つの手勢を城南側にある追手門に差し向けた。  一挙に追手門を抜こうと押し出して来た。  これを見た白井浄三は、まだ越後勢が到着する前に原式部少輔胤成と高城下総守胤長の手勢を追手門外側にある馬出し曲輪に潜め置いた。  押し太鼓を打ち鳴らしながら寄せて来る越後勢を、まるで風景でも見るように焦るでもなく気負うでもない涼しい顔で見ている。 「越後勢、いよいよ参ったな」  越後兵が追手前馬出し曲輪木戸に殺到し始めたとき、浄三は自らの立つ馬出し奥にある追手矢倉門上から城内に何か合図をした。  すると、追手門の土塁上に建てられている土塀の鉄砲狭間からぞろりと銃口が現れた。  頃合いを見て軍配をさっと振り下ろす浄三に合わせて、各々目当てを付けた射手の鉄砲が火を吹いた。  馬出し曲輪に殺到していた越後兵はばたばたと薙ぎ倒されてゆく。  直ぐに城方弓勢が鉄砲と入れ替わって矢を射掛けて来る。  越後勢は先日までの城・砦攻めとは違い思わぬ反撃を受け、慌てふためき混乱を始めた所で馬出し曲輪の木戸が開くのを見た。  追手矢倉門上では再び白井浄三が軍配での合図を送っている。  この合図を皮切りに、中に詰めていた原式部少輔胤成と高城下総守胤長の騎馬隊がどっと押し出して来た。  原勢に散々切り崩される越後勢、予想外の事が立て続けに起こったせいで城門前は混乱を極めていた。 「やはり戦とは手応えがないと面白くないものよな」  先日までの連戦連勝と違う今日の城攻め、謙信は喜びが身を震わすほどに広がったのを感じた。  眼前で繰り広げられる、追手前での双方入り乱れての乱戦混戦が面白かった。 「本庄秀綱、三上兵庫、石毛持之、森下三河の手勢を繰り出せ!」  城方の原式部少輔胤成と高城下総守胤長の騎馬隊に、この四名の騎馬勢を当てる。  城方が騎馬勢を交代させながら繰り出し、激闘数刻。さしもの越後勢にも疲れが見え始めた。  このとき俄かに空が書き曇り、夕暮れと共に雨が降り出した。  次第々々に強くなる雨足。  これが直ぐに瀧のような雨に変わって行った。 「今日はこれまでじゃな」  あまりの風雨の強さに戦にならなくなった両軍、この日の城攻めは馬出し前での攻防で終了した。  暫くすると兵をまとめ上げて引き上げを開始した謙信。  城方でも寄せ手が退いて行くので一息を入れたのだが、ここで謙信の思わぬ行動に度肝を抜かれる事となった。  なんと謙信は、臼井城追手門目の前一町半程の所に野営用の陣を張っているのだ。  現在ここは謙信一夜城公園として千葉県佐倉市王子台に名が残っている。  北西に京成本線が走っており、すぐ西側に走る道路から見て北にある臼井台交差点が当時の追手門付近であることを考えると、三百メートル程しか離れていないのだ。  これは謙信の胆力を示す史跡としても面白い。  さて、臼井城の攻防戦が始まってから三月二十六日となった頃、ふと謙信は不審に思う事があった。 「この臼井城、こちらが攻めれば掛かって来るが、僅か一町半程に拵えた我が陣に夜討もかけてこぬ。人数も少ない訳では無し」  一度口を結んで何かを考える様な風情であったが、やはり思い当たる所が無かったようだ。 「恥を知る侍も多く居ように、何故あって打ち出して来ぬのであろう」  諸将居並ぶ一夜城の陣幕内で謙信がぽろりと疑問の言葉を出すと、海野隼人正と言う者が進み出てきた。 「城中には白井浄三という軍師がいると聞き及びまする。何か策があって直ぐには打ち出して来ぬのではありますまいか」 「ほう、その白井浄三とは何者か?」 「良くは分かりませぬが、千葉の家臣でつい先ごろ上方から帰ったばかりとか」 「上方と」 「はい、三好日向守長逸ながやすの元に居り、軍略などを師事していたとか聞いておりまする」  謙信はこれがいたく癇に障ったようだ。  一瞬で青筋を立てたかと思うと、床几を蹴立てて立ちあがっていた。 「将軍を弑しいし奉たてまつりたる逆賊、三好などから教えを乞うた軍師などが小賢しき策を弄してこの儂を討とうとは片腹痛い。このような小城何程の事やあらん。唯一攻めに揉み潰し、攻め落としてくれよう」  激怒した謙信によって急遽越後勢の総攻撃が開始される事になってしまった。  急拵えの軍勢は普段に比べると中々足並みが揃わないものである。  陣太鼓、貝の音が鳴り響く中、臼井城では白井浄三が謙信の総攻めを感知する時間を持てたのは好運であった。 「不識庵め、とうとう痺れを切らしたようじゃな。各々、これより越後勢の総攻めとなるぞ。予てからの示し合わせの通り合図を聞き違うな!城門を全て打ち開け!」  越後勢が今日まで寄せても破れなかった追手馬出しの木戸が、城兵自らの手で音を立てて開けられた。  木戸間近まで寄せて来ていた越後勢は一瞬であるが、何かの罠かと警戒して足を止めた時、城方からの押し太鼓が鳴り響いた。 「城方が打ち出して来た」  先陣にいた足軽組頭がぽつりと言葉を吐いた時、打ち広げられた馬出し木戸から原大蔵丞と高城胤辰が手勢を率いて越後勢に襲いかかって来た。  今日の今日まで城方から先手を取られて寄せられる事のなかった越後勢は守りに弱かった。  攻め慣れ過ぎていた為に逆に攻められた時の対応が鈍くなっていたのだ。  城方の総力を挙げた攻撃により越後勢の先陣が崩されて行く。  高城胤辰と原大蔵丞の疲れを見越した白井浄三は、二陣として控えて置いた平山と境の手勢を送り込み、間近に陣を張っていた謙信の本陣までの道筋をつける事に成功。  三陣として打ち出して行った赤鬼松田孫太郎と佐久間主水正の手勢がその道筋を突き進み、謙信本陣の目の前まで雪崩れ込んで行った。  この為に謙信の馬廻りの大部分は討ち取られ、生き残りも四散。  本陣に残る馬廻りは数える程しかいなくなっている。また大将分は其々の持ち場で奮戦するが松田孫太郎の勢いに押され最早本陣の体は為さなくなっていた。  謙信、今までは自らが敵本陣に切り込む事があっても自分が打ち負かされるとは夢にも思わない。それほど自負心の強い男ともいえるのだが、この時ばかりは命の危険を感じた。  本陣周りに掲げられていた笹に飛び雀の陣幕も引き倒され毘の旗も折り引き裂かれている。 「敵の赤武者は何者ぞ!」 「わかりませぬ、それより一刻も早く退却を!ここは最早持ちませぬ」 チッと口を鳴らした謙信、「やむを得ぬ、一旦退却する」  退き鐘が打ち鳴らされ、謙信の馬印が移動した事によって退却を知った越後勢は一斉に城を離れて行った。  城方はここで追い討ちをかけようと一町程越後勢を追い掛けて行ったが、城からも退き鐘が打ち鳴らされ始めると一斉に城内へ引き上げて行った。  一夜城を捨てて西へ一里程も退却した越後勢、仮の本陣をそこに設えて城方の夜討ちを警戒していたのだが、謙信にとってはこの夜討こそ名誉挽回の戦いと思っているだけに、陣幕内でまんじりともせずに城方を待った。  しかし待てど暮らせど一向に攻め寄せて来る気配がない。  謙信は悔しさで目を充血させながらも、それでも現れない敵を待つ事にした。  丑の刻(午前二時)を回った頃、再び謙信は諸将の居並ぶ陣幕内で言葉を吐いた。 「白井浄三と申す者、一体何を考えて居るのだ」  川中島で刃を合わせた武田晴信とは毛色の違う戦いぶりである。  急ごしらえの陣所で城方を待ち受ける謙信は、生まれて初めて本陣に切り込まれた事もあって焦りを覚えていた。 「もしかすると」  再び海野隼人正が口を開いた。 「日が変わった本日は千悔日と言われ、先に動くと敗れると言われる日にございます。おそらくそれを知る軍師の指図ではありますまいか」  当時は、一日は夕方から始まり夕方に終わるとされていた。故に日が暮れれば翌日となる。 「またしても小賢しき真似をするか」  焦りが怒りへと替わり、動かぬ敵に業を煮やした謙信、日が昇った翌朝、再び臼井城への総攻撃の命を下した。  しかし不思議な事に先日あれほど頑強に抵抗していた城方だったのだが、越後勢の先陣である長尾顕長が攻め寄せると、今度は易々と追手の馬出しに侵入することができた。  このため周りに張り巡らされていた柵を引き倒した後、外曲輪に侵入し、木塀を打ち壊して堀を越える事ができた。  予想外の手応えの無さである。 「よし、本庄秀綱、三上兵庫の手勢も繰り出せ!」  下知を受けた秀綱と三上の手勢も、先に向かっていた長尾顕長の手勢と一緒になり、二の曲輪の土壁を越えようと土塁に取り付いた。  そして滑り易い土肌に苦労をしながらも、遮二無二土塁を這い上り始めた時、二の曲輪の土塁上に造られていた土壁が凄まじい音を立てて一斉に落ちて来た。  この為に土塁に取り付いていた寄せ手の兵二百余人が一瞬で下敷きとなって死に絶えてしまったのだ。  一瞬の大量虐殺を目の当たりにした謙信は言葉を失った。  唖然としながらも、しかし直ぐに自らを奮い立たせると、「やむを得ぬ、この先どのような仕掛けがあるかもわからぬ故一度退かせよ!」  謙信の悲痛な叫びも空しく響いた。  越後勢が退却を始めようとした直後、是を二の曲輪の正楼矢倉から見ていた松田孫太郎と佐久間主水正、手勢を率いて退却をはじめていた越後勢に討ちかかって行った。  松田孫太郎が大長刀を持って越後勢の中軍にいた沼田衆を六、七人を薙ぎ倒す程の働きを見せた頃、これを頃合いとした白井浄三が総攻撃の合図である押し太鼓を再び打ち鳴らした。  臼井城二の曲輪から濁流のように流れ出て来た原勢、これに対して雪崩のように崩されてゆく越後勢。  もはや撤退する以外にないと悟った謙信は、ここで全軍の撤退命令を出した。  無残な敗戦である。追撃も激しかったが北条丹波守長国や新発田因幡守治長らがなんとか殿で守りきれた事で、越後勢総崩れながらも無事に臼井の領地から退却することに成功した。  この臼井城攻めで大量の死傷者を出してしまった謙信。  軍神との異名を取る者としては余りにも酷い惨敗のためか『謙信公御年譜』と呼ばれる越後の記録書にはこの敗戦の記録がされなかったのだとか。  その後下総を離れて厩橋まで退却すると、小田城攻めに向かった別働隊と合流した。  別働隊は佐竹氏、真壁氏との共闘で小田天庵を再び土浦城に追い落とす事に成功、またこのとき北條氏政の軍勢が小田天庵の援軍に来ていたのだが、下妻城主の多賀谷政経が軍勢を引き連れてこれを破って勝利したと報告を受けた所で漸く留飲を下げたようだ。  ちなみにこの時の小田合戦であるが、岩付の太田資正も佐竹氏の一武将として参戦している。岩付城を追放されて宇都宮氏を頼っていた三楽斎だったが、一度娘の嫁ぎ先である武州忍城を頼った後に常陸佐竹氏の元を訪れてそこで保護を受けていたのだ。  永禄九年から三楽斎は、常陸片野城(現茨城県石岡市根小屋)を与えられ佐竹氏の食客となっていた。
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