関東騒乱(八)

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関東騒乱(八)

 臼井城攻めに敗退した謙信が越後に去ってからの事。  小田原の万松軒は、常陸下妻(現茨城県下妻市は下総と常陸の国境の土地である)での多賀谷戦で敗戦の憂き目にあって帰陣してきた倅氏政に、再び軍勢を預けて上州太田金山城に侵攻命令を下した。  是に合わせて甲斐武田に援軍を依頼し、箕輪城攻めを予定していた武田からの援軍を待って横瀬成繁の居城である金山城を攻めさせた。  謙信出兵に合わせて関宿城にも度々応援を寄こしていた横瀬成繁が今後も関宿攻略に障害となる恐れがある存在だったからだ。  対して横瀬成繁は、前主岩松氏と主従の結びつきの強い在地領主からも信頼を得る為、主家を奪い去ったとの印象が深い『横瀬』の名を捨て『由良』と改名し、元々公言していた武蔵七党の一、小野篁おののたかむらの出と言われる小野氏流横山氏一族から、清和源氏新田氏の流れだった前主岩松家と同じ流れの清和源氏新田流であると改めた。  旧主とは同族であると公言して下剋上で地位と城を奪い取った事を正当化し、北條氏の侵攻を在地領主連合で阻む狙いがあったのだろう。  これは先にも説明したがこの横瀬氏、本来は主家の岩松氏に仕えていた一家臣に過ぎなかったのだが、享禄元年に下剋上を起こして金山城を奪い取っていたのだ。  しかしそれでも在地領主達の不信感は拭い切れず、思うような協力を得られなかったのか遂に北條方の攻勢に膝を屈し、永禄九年の中ごろには越後上杉氏を離反、北條家に属する事になる。大勢力の狭間に生きる小領主の宿命でもあった。  同時期に万松軒は左京大夫さきょうのだいぶから相模守に代わり、倅氏政が左京大夫に任官している。  また伊豆では、幽閉されていた足利藤氏が没していた。これは万松軒に暗殺されたとの噂も立ったが、真相はわからない。  しかしこの藤氏の死は大きな変革をもたらす事になった。  不識庵謙信に擁立されて古河公方となった藤氏が死ぬと言う事は、これを補佐するという名目を持っていた公方奉公衆と関東管領が、その立場で利用できるはずの権威の消滅を意味する。そもそも公方奉公衆とは、公方に対して独立した勢力ではないからだ。  これが切っ掛けで管領謙信と奉公衆達は、藤氏の名前で関東の在地領主達に効果のある命令を出せなくなっていた。原因の一つに、まだ北條家に擁立されているもう一人の古河公方、足利義氏が鎌倉に居る事もある。  この事件を原因として自らの立場が弱くなった事を感じた下総は関宿の梁田晴助、北條家と和睦を求める為に動き出した。  公方奉公衆として、万松軒の擁立する足利義氏を認めても良いと打診してきたのだ。  ただしその条件として自らの配下である古河衆相馬氏の居城、守谷城(現茨城県守谷市)を自らの所領と認めよと寄こして来た。  おそらく梁田晴助は、現在の水郷の城である関宿と合わせて、より江戸湾に近い水郷の城である守谷城を手に入れたかったのであろうが、そもそも守谷の相馬氏は古河公方配下に属しており梁田氏に仕える古河衆の一人なのだ。北條家の属領持ち城ではない。  何を思っての領地委譲なのか分からないが、諍いが起こった所で晴助に責任を持たせれば済む上に、特に自らの懐が痛む訳ではないこの条件、万松軒と義氏は其々に是を認める事とした。  今現在の相馬領守谷城を梁田が手に入れた所でその梁田を支配するのが小田原北條家であれば、誰が守谷城を治めた所で問題にはならなかった。  しかし相馬氏は一方的に城明け渡しを求められるのだ、これをただ見過ごすはずもない。  ただ無暗に戦を起こしても勝てぬ事は重々承知していた相馬氏は、ここで一計を案じる。  城を只で呉れてやる代わりに、この自城守谷城を公方義氏の御座所にするならば宜しかろうと申し送ってきたのだ。  これは主家梁田家を行く行くは凌ごうと画策したものであろうと思われる。  相馬氏も自らの領地に義氏が入座する事になれば、梁田氏より更に北條氏の中核に入れると考えてのことだ。  この和睦の条件と手続きの中、最終的に守谷城は義氏御座所に決定して芳春院周興が入城し、義氏移座の為の公方御座所へと大改修を始める事になった。  また梁田晴助の北條家帰順の意向は、関東だけではなく越後へも事件として波及する事になる。  関東中央部に蟠居する公方奉公衆筆頭である梁田晴助が北條家に帰順の意を見せ始めた事を知った謙信、この後更に関東への興味を失って行く事になったのである。  月日が流れて永禄九年も九月に入った頃、上州箕輪では戦乱の影が忍び寄っていた。  甲斐の徳栄軒信玄が上州箕輪城に籠る長野業盛との最終決戦に臨む為に兵を挙げたのだ。  その数凡そ二万。  秋の刈入れも済み、備蓄していた粟・稗などの兵糧も見渡す程の荷駄隊に運ばせていた。  永禄七年には箕輪城の支城でもあった西南方面にある松井田城、安中城が落城しており、去年の永禄八年には東南にある倉賀野城も落とされている。  今回の武田勢侵攻を扼する箕輪城の支城は、箕輪城西方の鷹留城と南に連なる雉郷城と里見城の三城を残すのみであった。  箕輪城へ連絡できる上州の他勢力には其々調略の手当を済ませていた信玄、余裕を持っての上野侵攻である。  信玄来襲の知らせを受けた箕輪城主長野業盛は、押し寄せて来た武田勢に対抗するべく三千の兵を動員し箕輪城に兵を籠め、支城である鷹留城(群馬郡榛名町下室田)と雉郷城(高崎市中里見町)、里見城(群馬郡榛名町下里見)の四城を連絡させた。このうち西に離れている鷹留城には間に高浜砦を置いて連絡させている。  信玄の攻撃に対抗するための四城での相互援兵・包囲作戦を立てたのである。  これに対して、箕輪城近くまで寄せて来た信玄が先ず目を付けたのが烏川を越えた先にある高浜砦。  この砦は主城箕輪城に近く、攻略している最中に後詰の長野兵に攻撃され安いとも言えるのだが、支城三城のうち最遠に位置し他の三城とは烏川で隔離された鷹留城を孤立させるには、この連絡のために築かれた高浜砦を落とす事が最も効果的とも言える。  まずは足掛かりとなる一城を落としたい信玄。  武田軍の軍評定でそれが決定すると、箕輪城からの援軍を阻止するための別働隊を差し向けながら、高浜砦攻めの先鋒を那波無理之助宗安に命じた。  軍事行動開始の時は九月二十五日の早朝。  明け方まだ暗い内に烏川を渡った無理之助の手勢は、砦方が油断していた所に一斉に攻撃を開始した。  武田勢が先ず攻めるのは鷹留城であろうと思っていた長野方城兵は意表を突かれたようだ。  幾分気を抜いていたのであろう所に無理之助の手勢に攻め込まれ、迎撃する間もなく砦は奪われてしまう。  知らせを本陣で知った信玄はこの好機を逃す事無く武田勢本隊を西の鷹留城に差し向けた。  鷹留城には長野業道が数百の手勢で籠っていたが、箕輪城からの後詰を警戒する必要の無くなった武田勢の本隊相手では如何ともしがたく、激闘数刻の善戦空しく鷹留城は落城。城を落ちた城主業道は吾妻方面に逃れて行った。  鷹留城を落とした信玄、この勢いのままに小宮山に兵を持たせ、次の目標である里見城に手勢を繰り出した。  一方本城箕輪城から安藤九郎佐衛門勝通と青柳金王の手勢が繰り出されると、那波無理之助に奪われた高浜城を奪い返そうと襲い掛かっており、ここでも乱戦が始まっている。  箕輪方はこの攻撃で無理之助を追い落とす事に成功し、再び高浜砦を奪い返す程の攻勢をみせている。  しかし二十六日には信玄に差し向けられた小宮山の手勢に里見城を、更に二十七日には雉郷城を次々に落とされており、周りの支城を落とされたことで高浜砦を放棄。  遂には本城箕輪城を残すのみとなってしまった。  信玄の調略によって他の在地勢力からは援軍が頼めない長野業盛、支城を全て失ったため全軍動員の決戦を決意し、箕輪城を出陣して若田が原(高崎市若田町か)まで兵を進めた。  これに呼応した信玄も全軍を若田が原に兵を進めると、両軍二十八日に激突する事となった。  長野勢の全軍を動員した乾坤一擲の合戦であったが、一進一退の攻防を続けるうちに次第々々に押されていった業盛、日が暮れる前には箕輪城に全軍を退いていた。  城に戻った時の長野兵の総数は千五百余人であったと言われている。  人数が減り支城が全て落城、残るは本城箕輪城のみとなりながらも他からの援軍の見込みは無い。これでは武田勢二万相手に勝機を見出すことは難しいであろう。  そんな中、城の矢倉から外の武田勢を監視していた物見から報告が入った。  武田勢の陣から煙が大量に上がったとの知らせである。  業盛が事の次第を確かめるために矢倉に上がって武田勢を見てみると、何時でも攻め入れるように兵を配置している武田勢であったが、その中軍から夥しい量の炊事の煙が上がるのが見えた。これは明朝の武田勢総攻めがある事の裏付けだ。  これを見た業盛、城内に避難していた在地の百姓を夜のうちに全て落とすと、今まで自分に従ってきてくれた家臣を一の曲輪に集めた。  百姓領民が城から逃れた今、思う所のある家臣も自儘に落とす心算であったからだ。  一の曲輪屋形の濡れ縁に立った業盛、燃え盛る篝火に煌々と照らされる居並ぶ家臣を見渡した。全ての将兵が砂塵にまみれ、激闘を潜り抜けたであろうことを物語っている。  また手傷を負って立てない者は庭の掘立に蓆を敷いた所に横になりながらも、目だけは輝かせながら業盛を見ていた。 「その方達の此度の働き、誠に天晴であった。この業盛、嬉しく思うぞ」  自らの主が言葉を吐いた時、家臣達はゆっくりとではあるが、其々が頭を垂れて行った。 「今日までその方らが我が長野家に寄せてくれた忠心、この業盛、弥陀の元に参っても忘れぬ」  居並ぶ家臣達にそう自らの運命をそっと語りかけた業盛。  主の言葉に、それを察していたであろう家臣達は言葉も無く項垂れ、何処ともなくすすり泣く声が響き出した。 「武田は明朝、ここを総攻めにするであろう。故に我が命運は長く持ってもそれまでであると思う。ならば父業正の遺言に従いここで腹を切ろうと思う」  業盛は一同を見まわした。しかしそこにある顔には、砂塵に汚れて涙を溢してはいるが、誰ひとりとして悲壮な面構えが無い。  これには業盛、内心驚くものがあった。 「故に最早城の守りは不要、各々自儘に城を落ち延びよ。これは命令である」  この言葉に居並ぶ家臣の内から叫び声が上がった。 「勝手に落ちよとは情けなき仰せ」 「殿は我らが忠を何とお心得あるのか」 「我ら兵の数は少なくなったとは申せ、まだまだ戦えまする。殿がお腹を召されるのは明朝武田勢に一矢報いてからでも遅くはございますまい」 「そうじゃ!殿をお守りする儂らも明日までの命と決まった。ならば坂東武者の意地を見せ、信玄入道に一泡吹かせてから殿に最後の暇乞いを願いたい!」 「儂らはまだまだ戦えまするぞ!」  一同の声が一際大きくなっていった。  家臣達の言葉を聞いた業盛は何やら明朝の死出の旅が空しい物ではなく、共々に勇躍して三途の川を踏み砕いて行けるような、そんな気持ちになって来た。 「各々、儂と命日を同じゅうすると申すか」  業盛は言葉を吐いて大きく頷く。 「ならば儂と共に、今宵今生の暇乞いに最後の酒盛りをしようではないか」  業盛の言葉の後には粛々と酒盛りの準備が始められ、居合わせた其々の将が業盛の前に参上し酒を注がれた。またその時、其々に暇乞いを言上する自らの主人の姿を見ていた兵卒も涙を溢しながら持ち場に立っていた。  主業盛と運命を共にしようとした諸将が最後の酒盛りを始めると、その兵卒にも酒のお流れがあったようである。  中には落ちる兵卒もいたが、もちろん快く見送ってやり、当座の凌ぎにと手元に残っていた金銀や銭、米などを其々に持たせてやった。  周りを全て敵に囲まれた城内での宴は、騒がしい鳴り物や賑やかな歌いが聞こえたが、どこか哀れで無情の響きを伴っていた。  翌二十九日の早朝、箕輪城総攻撃を開始した信玄は新曲輪方面から攻め込んだと伝えられている。箕輪城最北端の曲輪だ。  当時の位置関係から見れば一の曲輪から追手門(徳川家康が関東に国替えのとき、井伊直正が箕輪城に入った、このとき旧追手門は搦め手門へと変更されている)を見た時に左手となる曲輪である。  対する城方千五百余の人数は、新曲輪の土塁上に造られた土塀に鉄砲を押し並べて押し寄せる武田兵を攻撃、武田兵の足が止まれば奥の稲荷曲輪から騎馬兵を繰り出し、新曲輪に繋がる馬出しからどっと押し出して行った。  騎馬勢と鉄砲勢弓勢を、退いては繰り出して奮戦していた城方も、時が経つにつれて疲れが見え始めて数刻後には新曲輪を取られていた。  また内側の稲荷曲輪の外側にある外曲輪を回り込まれて水の手曲輪を、その上部の段状になっている曲輪も盗られて行く。  午の刻を回る頃までに残っている曲輪は、一の曲輪と二・三の曲輪だけとなっていた。  この箕輪城決戦で、長野業盛は手勢千五百余人を縦横に走らせ、武田勢六百余人程を討取るなど善戦したが二万の総攻めに堪え切れず、三の曲輪を落とされたときに、残る兵に二の曲輪と一の曲輪を守らせて自らは御前曲輪の持仏堂に入って行った。  永禄九年九月二十九日、亡父長野業正の遺言を守り、長野業盛は降伏を良しとせずに自刃。  同日箕輪城は落城した。  自刃の時に残したと思われる長野業盛の辞世の句が残っている。  曰く、  春風に 梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里  享年二十一歳であった。  業盛が自刃した後に箕輪城に乗り込んだ信玄は、最後まで抵抗した長野親子を骨の髄まで憎んだのであろうか。業盛の自刃した御前曲輪にあった井戸に長野家累代の墓石を投げ捨てさせ、これを埋めている。  平成の世になってからこの井戸の存在が明らかになったようで、発掘作業中に投げ捨てられたと思われる墓石がごろごろと出て来たとの事である。  これ以降、箕輪城は内藤昌豊預かりとなった。  箕輪合戦で西上野を安定させる事が出来た信玄、この後は弱体化していた今川領に目を向け始めた。  翌年である永禄十年十月十九日、信玄嫡男義信が甲斐東光寺で信玄の命によって自刃に追い込まれているのだが、これは正室が今川家の姫であるために、今後今川家を切り取る為には今川寄りの嫡男が邪魔になった為であろう。  一方の小田原では、信玄の箕輪攻めと粗時が同じ頃に里見水軍が海を越えて三浦半島を焼き打ちしているとの報が万松軒の元に入っていた。 「義弘(里見)め、中々にしぶといのぉ」  大店おおだなの主人のような喋り口調の鷹揚さは相変わらずだ。  万松軒は久しぶりに小田原城内にある、玉砂利の敷かれた枯山水の見られる書院に座っている時にこの報告を受けていた。  永禄七年の国府台合戦に敗れた里見氏は、北條方に一時期本城久留里城からも追い落とされており、支城の佐貫城も陥落。また上総東部の在地領主である万木土岐為頼と勝浦の正木時忠も北條方へ靡いて離反するといった情勢の中、安房一国に逼迫して里見氏存続の窮地に陥っていた。  しかしこれが永禄八年から一年の歳月をかけて近隣に働きかけ、永禄九年までには佐貫城や久留里城を北條の城代から奪い取るまで回復している。  本来ならば国力回復のために安房の内政を建て治して現状維持に努めるのが常道なのだろうが、この時の里見氏は安房の在地勢力を押えるだけの力を失っていたようだ。  里見義弘が押え切れなかった在地領主達が浦賀水道を押し渡り、対岸の北條領である三浦半島に略奪行為に及んだのが今回の三浦半島焼き打ち事件の全貌である。  だがそれは、攻められた北條方には預かり知らぬこと。安房の里見を攻める口実が出来ただけであった。 「再び三浦へ攻め込む程の兵を整える事が出来るようになったようだな」  万松軒氏康、当年五十二歳となっている。  額には皺が深く刻まれ、如何にも年輪を帯びて風格も重々しく備わって来ていた。  知らせをもたらしたのはここに同座している松田憲秀である。 「永禄七年の国府台の折りに息の根を止めておければこのような憂いは無かったのでございますが」  濡れ縁から枯山水を眺めている万松軒の背中を見ながら憲秀が相槌を打った。 「うむ、しかし過ぎた事は悔やんでも始まらぬ」  と、遠方の庭木でも見ているのだろうか、視線を遠くに投げながら万松軒は続けた。 「したが不識庵が越後に去った今、手をこまねいてはおられぬ。憲秀、藤沢播磨守と田中美作守に命じて船で浦賀水道を押し渡り、佐貫城の北の三舟山に砦を築かせるよう命じよ」  言葉が終わると同時に万松軒の視線の先にあった木の枝から鳥が羽ばたき飛び去って行った。これを見送ったのか、視線を憲秀に戻した。 「下総臼井の胤貞(原上野介)、真里谷の武田(真里谷信隆)、小弓の千葉(胤富)を久留里と佐貫の城に差し向けて牽制させるのだ」 「畏まりました」 「その間に陣城を築きあげてしまえ」  万松軒の一言で三浦半島の付け根にある玉縄城から水軍を現在の木更津方面へと出帆させて行った。  この北條勢の三舟山陣場建築の間は、里見義弘からは一切手出しが無かったと言われる。  下総からの腹胤貞と真里谷信隆の軍勢に、玉縄衆の軍船及び上陸軍が直近の佐貫城に攻め寄せる様な行動を取ったために、未だに力の無かった里見勢は襲う事が出来なかった。  北條勢の威容に気圧されたと言える。  そして永禄九年も改まり永禄十年となると、万松軒は厩橋城の上杉方城代となっていた北条きたじょう高広を調略により寝返らせ、厩橋城を北條方とする事に成功した。  余談だがこの物語の中では便宜上、北条と北條を書き分けている。  読みは北条きたじょうと北條ほうじょうなのだが、当時使われていた漢字は旧漢字で両方ともに『條』の文字を充てられていた。このため当時から紛らわしいと云う事で北条高広の方は、北條家内部では『喜多条』と書き分けさせていたのだとか。  高広本人はそもそもの氏である『毛利』を使っていたようだ。  ところが厩橋城の北条高広が寝返って間もなくの三月、越後から謙信が再び関東入りしてきた。  先の年に唐沢山城を攻めた謙信だったが是を攻めきれずに敗退していたために、その雪辱を晴らす為と、謀反人北条高広を討つ為あった。  しかし最初に手を付けた唐沢山城攻めは、これも前回同様に緒戦はあえなく追い払われてしまった越後勢であったが、今回は退却したとみせて城方の油断を誘い、隙を突いて再び攻め寄せている。  このため三月までには城を落とす事に成功し、佐野昌綱を降伏させる事ができた。  そして疲れも癒えた四月、佐野攻めの余勢を駆って厩橋城に乱入。謀反を起こして北條方に帰属していた北条丹後守高広を破ってこれを奪還。  上野国の足場を復活させていた。  更に八月に入った頃。  昨年来から静かに拡大して行く北條家の威勢を危惧していた安房の里見義弘は、去年佐貫城の目の前に築城されていた三舟山陣場から相野谷の村を挟んだ対岸に出陣し、奇襲して攻め落とす事を画策して安房・上総から北條家の影響を取り除こうと動き始めた。  これに三舟山山麓の三舟台に築かれた北條方陣場を守っていた藤沢播磨守、田中美作守、磯辺孫三郎、一里程しか離れていない佐貫城よりも更に三舟山陣場に近い虚空蔵山と八幡の森に、いきなり現れた里見勢を見て驚愕した。  里見義弘は先陣を虚空蔵山に向かわせ陣を敷き、正木大膳亮憲時の先陣も八幡の森に布陣していたのだ。  ちなみに正木大膳亮憲時とは、離反していた勝浦の正木時忠の甥である。  救援の使者を遣わして来た三舟山在番の藤沢播磨守の求めに応じて、氏政は丁度小田原に出向いて来た岩付の太田源五郎氏資を引き連れ江戸湾を渡海、海上から佐貫城攻撃に向かった。  また瀧山の弟、源三氏照を別働隊として陸路市原方面から進軍させている。これには臼井城の原上野介胤貞を加え、小櫃川おびつがわに沿わせて久留里城攻撃に差し向けた。  久留里城には義弘の父、義堯が籠っているので三舟山陣場攻めの里見勢本隊を牽制するためであった。  北條勢が三舟山陣場の応援に到着したころ、里見勢も先に敷いた虚空蔵山と八幡の森の陣所に本隊が到着。両陣営の睨み合いとなった。  頃合いを見て両陣槍衾を敷いての合戦が始まるのだが、初めは里見勢が氏政の陣取る三舟山に攻め寄せて攻勢を強めていた。しかし数日間、合戦を続けても流石に小田原の強敵の守る陣場は堅かった。  事実この合戦は里見方の家運を掛けた一戦であり、国力の違う北條家に対したこの戦、敗れる事があれば滅亡の憂き目をみるのは明らか。  しかし兵数の違いは如何ともしがたい。  正攻法の城攻めでは勝てぬと判断した里見義弘は、八月二十三日の昼過ぎに一度陣を払って退却のそぶりを見せた。  これを里見勢の総引き揚げと見た氏政は、三舟山から全軍を持って追撃を開始。  追われる立場となった里見勢、三舟山麓にある相野谷と呼ばれた村落付近から東へ走り、障子谷と呼ばれた深田が一面に並ぶ狭隘地に逃げ込んで行った。  これは里見勢の巧みな戦略だったようだ。  大人数の北條勢が狭隘地に造られている満面の水が張られた夏の深田に足を取られ、身動きが取れなくなっていた。  この状況を見た義弘、にやりと笑うと同時に軍勢をくるりと回して引き返し、次々に矢を射掛け槍を付けてくる。  罠と知った北條勢も既に時遅く、退却するにも不案内な土地柄である。  逃げても深田に足を取られ、身動き出来ぬ間に討ち取られてしまう。  一方の里見方は勝手知ったる我が領地だ、縦横無尽に走り回り面白いように北條方を討取って行った。  最早身の置場も無くなった北條勢は退却を始めるのだが、この時殿を買って出たのは岩付の三楽斎の倅、太田氏資であった。しかし奮戦空しくここで討ち死にを遂げてしまう。  北條に靡いた倅の討ち死に。父三楽斎はこの報に接してどう思ったのだろうか。  また海上に逃れた北條勢であったが、里見方の水軍も大挙して押し寄せて来たために陸・海両方からの攻撃を避けて相模に退却していった。  この合戦が後に、氏政が大敗北し、里見家の復活を誘った三舟山合戦と言われるようになったのである。  敗因の一つに、氏政には既に安房一国に押し込めた里見勢は小勢であるとの思いが強く、自軍有利との慢心があった。  後里の事ではあるが、見義弘は上総下総から勢力を失った北條勢を追うように両国を切り取って行き、離反していた土岐氏、真里谷氏、正木氏等を里見氏に帰参させる事に成功。  再び北條家が侵攻を始める天正三年頃までは里見氏の隆盛を誇る事となるのである。  この三舟山合戦、危ういところで勝ちを拾う事に成功した里見氏の復活をかけた戦いでもあった。
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