関東騒乱(九)

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関東騒乱(九)

 永禄十一年になると、新将軍足利義昭からも越後の不識庵謙信を関東管領に任命する沙汰が降りていた。将軍家と深い関わりを持つようになっていた上杉家、この頃から関東ではなく越中に向けての出陣が増えて行く。  また下総の関宿周辺では日差しが弱まり始める秋、再び戦乱の風が吹き荒れる前兆が顕われはじめた。  先の梁田晴助から出された北條氏への帰属の為の条件だが、これに対して相馬氏から求められた履行条件に晴助が異を挟んできたのだ。相馬の条件を認めるのであれば北條家への帰属は無いとして、再び独立の色を鮮明に打ち出して来ていた。  結果、北條家は今まで通りの武力による併呑策に戻り、急ぎ軍を差し向ける事になった。  盛夏とも言える八月も半ば頃には、早くも氏照の元に出陣の下知が届き、滝山から氏照を総大将として北條軍を関宿攻めに出陣させている。  そして八月後半には滝山の手勢を率いて出陣した大石氏照が、河越城、岩付城の城兵を糾合しながら下総の栗橋城を睥睨できる野に現れる事になった。  第二次関宿合戦の始まりである。  前回の関宿攻めで、野伏せりの戦い方を受けて痛い目を見ていた氏照は、今度の関宿攻めには侵攻拠点を確保するために野田氏の籠る栗橋城(現茨城県猿島郡五霞町元栗橋)を第一の攻撃目標としていた。  また最前線となる岩付城を出陣した北條軍を、氏照は江戸期に整備された奥州街道(または奥州道中、現日光街道:国道四号線)の原型である街道筋を通って栗橋の城に向かって行軍させている。  この道は途中から東に逸れれば関宿城や逆井城にも繋がる道である為に、北條軍の侵攻を待つ野田氏、梁田氏にとっては最後までどちらに氏照の軍勢が進んでくるのか分からないようになっていた。  こんな中、行軍中の二万を超える北條勢の中軍に居た氏照の元に馬を寄せてきた者が居る。  大道寺政繁である。この合戦にも従軍している大将の一人であったが、近頃は河越城代として河越の街を発展させるために尽力している人物でもあった。  馬の蹄の音を軽快に響かせながら氏照に近付いて来た大道寺、今回の関宿攻めの原因が知りたかったらしい。 「御大将、此の度の関宿攻めでござるが、梁田は我が方と誼を通じるところであったはず。何故和議が決裂したのでござろうか」  まだ北條方の岩付領地内なので氏照も警戒は薄い。甲冑姿ではあるが眠そうな顔をして馬上ゆらゆらと揺られていた。  ひとつ大欠伸をすると大道寺に顔を向けた。 「よう分からん」  関東各地を転戦している猛将と言われた氏照も、間延びしたような言葉を出すとどこか父親万松軒に似ている。  おっとりしたような雰囲気で言葉を出すのだ。  この癖は家臣からも嫌われてはいないようで、むしろ日頃の果敢な猛将ぶりからの対比として好まれてもいた。 「御屋形様から何も知らされてはおらぬのでござるか」 「うむ、兄上どころか父上からも知らせは来ておらんよ。まぁ最もそれを知った所で戦は止められぬがの」  氏照は背中が痒かったのか軍配を帯に差し込むと、代わりに抜き取った鞭を甲冑の背中に差し入れてぼりぼりとかき始めた。 「まぁ、おそらくは守谷の相馬の事が原因もとであろうな」 「守谷とは、義氏の公方様が入られる約状があった城でござるな」  痒みが治まったのか、鞭を背中から取り出して一息ついた。 「それを中務(梁田晴助)が嫌ったのであろうよ」  大道寺は氏照の言葉に首を捻った。 「自分の腹が痛む訳でもない梁田が何故」 「城を盗られるだけの損な役回りだった相馬治胤が、結局のところ中務の出した条件を逆手にとって己より立場を上げようとしたのが気に食わんのだろう」  八月の後半は残暑が厳しく、うだるような暑さなのだが湿気は無い。  ときおりさっと吹いて来た秋風を懐に入れた氏照は気持ちよさそうな顔をした。汗に濡れた体に吹き付ける風が心地よかったのだろう。 「中務にしてみれば治胤の守谷の地を奪えばそこは水郷の地じゃ、関宿と同じように舟から上がる運上銭で国が潤う。中務は我が北條家を利用して棚から牡丹餅を得ようとした」 「自家保身の為であるのに身内の領地を自領と認めよとは、中務も欲が深いとは思うておりましたが」 「左様、そもそもは中務が我が方に帰属する為の条件として持ち出してきたものじゃ。治胤には何の見返りもない。梁田の配下とは言え普通に考えれば治胤が納得する筈がないであろう」 「確かに。しかし相馬はよくぞその不利な条件を呑んだもの。相馬が逆手に取った事とは一城に値する程のものだったのでござるか」  ここで氏照は呵呵と笑いだした。 「どうされた」 「それがな、治胤も流石に強したたかだったのよ。自らの城をとんだとばっちりで奪われるくらいならばと、自城を公方様御座所とされるならば差し上げよう。と、こう申したのは政繁の知っての通りじゃ」  政繁は氏照の話に惹き込まれて行った。  氏照も話に熱が入って来たのか顔が進行方向を向いていない。馬に勝手に任せているといった風情である。 「しかしな、それだけでは終わらなかった。公方様御座所となった後、自らの所領が無くなる代わりに公方様の直臣となる事を認め、更に小田原で北條家の幕格として取り立てよと申して来おった」  これを始めて聞いた政繁は予想以上の事に驚いた。  公方奉公衆梁田晴助の家臣である相馬治胤を幕格で取り立てるなどと言う事があるのだろうか。身分を見るならば又者(またもの、家臣の家臣:陪臣の意)なのである。 「して、御屋形様は受けられたのでござるか」 「父上が御健在なのじゃ。兄上がその様な事は決められるはずもあるまい」 「なるほど、では大殿様はなんと仰せられました」 「よかろう、と言われたそうじゃ」  政繁は大きく溜息を吐いた。  ずいぶんと思いきった事をするものだと思ったのだ。 「しかしな政繁、これは公方奉公衆を骨抜きにする為の父の策であったと思うのじゃ」 「ほう、それは何故にそう思われまする」 「相馬治胤が北條幕格に取り立てられれば、刃を交えていた奉公衆であっても北條家の中核に入れる前例を作ろうとなされたのだろう。それは北條家の門に馬を繋ぐ事になる梁田家の風上に立つことになる」  政繁はここで成程と気が付いた。  流石に万松軒は深く読んでいる。 「中務は自らの領土欲の為に、相馬治胤に危うく滅ぼされそうになった事に気が付いたのじゃ」  政繁は唸った。最早成程との言葉ばかりが立て続けに出ていた。 「流石は大殿にございますなぁ。梁田と相馬の欲を上手く使われたものじゃ。梁田が北條家に臣従し相馬が北條幕格となれば立場が逆転、行く行くはそれを利用して梁田家の領地をそっくり相馬が召し上げる事も出来る」 「まぁ、後の方は話しの成り行きで父上の腹をそう読んでみただけなのだがな」  再び氏照は呵呵と笑っていた。  結果的に守谷城は改修途中で相馬氏に戻され義氏御座所の予定は立ち消えになったが、相馬治胤はそのまま守谷城に残っており、梁田晴助から独立する為に北條氏に臣従している。  晴助から出た領土欲の為に、梁田氏は北條氏に従属も儘ならなくなり、それどころか公方奉公衆の貴重な協力者とも言える相馬氏を失う事態になっていた。  汗で濡れた体を乾かす心地よい風を受けながら東武蔵を進軍していた氏照一行、梁田晴助の哀れさを思いながら下総の栗橋城付近へと到着した。  城方では北條軍来襲の知らせがあった為か警戒をしていたと見え、城の周りには馬防柵が至る所に打ち立てられていたのだが、それほど人数が詰めていないのだろうか、疎らな哨戒兵が城内の塀際と矢倉から監視しているのみであった。  この栗橋城、公方奉公衆の野田氏が籠る平城で、天文の最後に前公方足利晴氏が幽閉されて生涯を終えた城でもある。意外と北條家とは繋がりの濃い城である。  現在は城址に民家が立ち並び、城域の半分以上は江戸時代に広げられた権現堂川の底に沈んでしまった。城域の東側にある城址看板の出ている民家入口付近から、辛うじて残っている堀が確認できる程度なのだが、ここに城があった当時は広大な城域を誇る一大城閣であったようだ。  しかしそれは北條氏支配になってからの事、今氏照が取り囲んでいる栗橋城は野田氏の築城した、やや規模の小さい城である。  ここを滝山、河越、岩付の軍勢で囲むこと数日、あまり気勢の上がらなかった野田氏はあっさりと氏照に降伏した。  晴助の見せた相馬氏への対処に不満を持っていた事も降伏を早めた要因の一つでもあった。  野田家としては奉公衆筆頭としての梁田家を今まで祭り上げて来たが、北條氏への帰属のどさくさに紛れ、味方の領地ですら奪い去ろうとした晴助に愛想を尽かしたと言った方が正しい。  殆ど抵抗もなく栗橋城を接収した氏照は、この栗橋城を第一の拠点として更に軍勢を関宿方面に進めると、梁田の籠る関宿城から江戸川を挟んで西半里もないところにある山王山に砦を築かせている。  これは現在東昌寺(現茨城県猿島郡五霞町山王山)が建てられている所である。急拵えのこの砦は、山王山の仕寄場と呼ばれたようだ。  また氏照はこの山王山砦の他にも不動山砦を築いており、その両砦を関宿城攻めの拠点としている。  関宿城攻めの態勢が整った今、二つの砦に人数を籠めることができた氏照、前回の野伏せりの攻撃を受けることなく関宿城下に侵攻。  前回焼かれていた関宿城下も再び建て治されていたようで、特徴的な内宿・外宿もそのままに其々大戸張・小戸張・新曲輪までが建て治されていた。 「さあ、永禄八年の恥を雪ぐは今ぞ。まずは城下に火を放て」  夜のうちに山王山砦から兵を繰り出し、沼沢地を越えて船で橋をかけた江戸川を渡った北條勢、北條氏繁、高城胤辰、原虎胤、千葉胤富の兵を城下に向かわせて手当たり次第に火を放った。  永禄八年の轍てつを踏まぬように今回は城下が焼け切るのを待ち、裸城となった関宿城に攻めかかって行った。  またこの時、関宿城の北東方面へ二里程の位置にあった逆井常繁の居城である逆井城(現茨城県坂東市逆井)にも大道寺政繁と伊勢貞運の兵を送り込んでいる。  三方向を飯沼で囲まれた逆井城は、沼から一気にせり上がっている丘の上の大地に城を築き、入り組んだ波打ち際を船着き場とした半島を城域とした城だ。  現在は江戸期の灌漑によって飯沼は水を落とされ地形だけが残っており、昭和に入ってからの河川工事で出来上がった西仁連川が城域北側に流れている。  この飯沼が満々と水を湛えていた当時、これを挟んだ北側対岸が常陸下妻城を居城とする多賀谷氏の領域(現茨城県結城郡八千代町)であり、勢力の境目を押える城閣でもあった。  一説によると幸島口こうじまぐちとも呼ばれたようだ。  しかし幸島とは現在の茨城県古河市三和地区の前身である旧三和町が合併する前の幸島村の事だとすると、飯沼沿いの更に北側に進んだ所にある、結城氏家臣山河氏の領地である志目波村(しめばむら:現結城市七五三場)の対岸にあった、古河公方に仕えたとされる中村豊後守が入っていた諸川城のある現古河市諸川辺りを指すのかもしれない。  ここは古くからの鎌倉街道筋であり、江戸期には日光東街道として整備されているのだ。  さて、北條勢が関宿城に攻め寄せて来たこの日、逆井常繁は梁田氏応援のために兵を連れて関宿城に向かっていた。  ところが関宿到着直前の事、先に放っていた物見の知らせが届いた。  なんでも山王山砦を出た北條勢から別働隊が分かれ、東進して逆井城に向かっているとの事なのだ。  これに驚いた逆井常繁は急ぎ軍勢を纏めて居城逆井城に取って返したのだが、運悪く城から一里程も離れた所に横たわる長井戸沼の畔で、大道寺政繁の手勢と鉢合わせしてしまった。  出会い頭の一戦。  両軍とも戦支度のままで鉢合わせをしたものの、追う者と追われる者の立場が違っている。  急ぎ城に戻ろうとする逆井勢に対して勢いに乗って追いすがり、次々に槍を付けて来る大道寺勢。  僅か一里の退却戦で逆井勢はその殆どを討たれてしまった。  この合戦で逆井常繁も討ち取られると逆井の兵は四散。ここに古河公方奉公衆で関宿梁田氏の盟友である藤原秀郷流小山氏の一族、逆井氏が滅亡することになった。  そして城には悲しい伝説も残る。  城主常繁を討ち取った大道寺勢が、そのままの勢いで城に接近している事を知らされた正室智姫ともひめ、敵勢に城を蹂躙された上に我が身を虜にされるよりはと、先祖伝来の釣鐘を家臣に命じて釣鐘堂から下ろさせた。 何をするのか問うた家臣に、我が身を城の池に沈めた後、その上に釣鐘を沈めよと命じて入水したと語られている。  現在も逆井城址公園の一の曲輪と角馬出しと呼ばれる曲輪の間の堀に、鐘堀池と呼ばれる池がある。  この池はどんなに日照りが続いた年でも枯れる事がなく今もって水を湛えており、当時は城内の貴重な水源であったろうと思われる。  しかし発掘調査の結果、釣鐘も人骨も発見されなかったようで智姫伝説はまさに伝説となった。  しかし筆者が思うに城の中に先祖伝来の釣鐘があったのだろうか。  あくまで憶測であるが、逆井城の西には常繁寺という寺院があり、この寺院敷地も飯沼に囲まれた城郭然としている。  寺の周りを、藪をかき分けながら散策したことがあるが、どう見ても土塁や堀にしか見えない地形があるのだ。  逆井城、後年北條氏の支配となると飯沼城と名を変えたこの城、位置が不明だった時期がある事を考えると、もしかすると旧逆井城とはこの寺院のある場所ではないかと考えた事がある。  寺院を含めた城閣ならば釣鐘堂があっても不思議ではない上に、周りは飯沼に囲まれているので地面を掘ればどこからでも水が沸いたであろう。  さて、この逆井城を攻め落とした大道寺政繁、城を接収した後に手勢として付けられていた風魔衆三百人を残して関宿攻めの応援に向かった。  関宿城の北側から現れた大道寺勢に驚いた城方梁田晴助、倅の持助に兵を持たせて城北側の防衛に向かわせるのだが、南側からの外宿・内宿が焼き払われてしまった今、北と南からの挟み撃ちで絶体絶命に陥った。  氏照としても戻って来た大道寺から逆井城落城の報を受けた為に、後詰が期待できない梁田を攻め落とす絶好の好機とばかりに力攻めを始めていた。  ところが。 「御注進にござる!」  遠方から馬上伝令武者の声が氏照本陣に響いて来た。  城攻めでの曲輪陥落の知らせであればやって来る方向が違う。  何事であろうかと待つ氏照に届いた知らせは驚愕に値するものであった。 「甲斐武田と我が北條家が手切れとなりました。これにより何時武田勢が国境を脅かすかもしれませぬ故急ぎこの陣を解き、押えの人数を各砦に残した後に自城に退却せよとの御屋形様、大殿様からの御連名での下知にございます」 「なんだと!」  氏照は床几から立ちあがり伝令武者を睨み据えていた。手に持った軍配が微かに震えている。  しばらくの間、氏照は瞑目して立ちつくしていた。 「…………やむを得ぬか」  膨れ上がった癇筋を平穏に戻すには、少々の時が必要だったようである。 折角今ひと押しで念願の関宿城を落とせる所まで来ていた無念さは計り知れないものがあったが、相手が武田となれば強敵。氏照は臍を噛む思いで関宿の陣を解いた。  永禄十一年の今年、小田原北條家を取り巻く情勢が突然変わってしまう事件が起こっていた。  甲斐武田家が三国同盟の一であった駿河今川家へ攻め込む気配を見せたのである。  永禄十年頃には嫡男義信を自刃させるなど、今川寄りの人間を排斥していた信玄、愈々駿河・遠江攻めの時期到来であるとしたようだ。  これは武田家と同盟を結んでいた尾張の織田信長が、将軍義昭を奉じて来月九月に上洛する旨を信玄に知らせて来たために、自らの上洛の遅れに焦りを覚えた事も同盟解消の一因でもあった。  またもう一つの要因に、永禄三年に田楽狭間で義元が討たれてから今日まで、今川家は衰退の一途を辿っていた事もある。今川家の弱体化を見た徳栄軒信玄は領土拡大の欲心を起こしていた。  三河徳川家を誘って遠江を分割支配しようと持ちかけ、また万松軒にも共同で駿河侵攻を持ちかけて来たのである。  ここまではまだ信玄も小田原に対する敵対心があった訳ではない。  しかし道義に反する信玄のこの行為、万松軒の父である氏綱からの戒めとして伝えられている五箇条の訓戒状にも合わない。  曰く、  大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。  たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。  である。  また不識庵謙信の関東侵攻の時に、父義元が討たれた直後であったにも拘らずに援軍を差し向けてくれた氏真を攻める事は人としてするべき事ではないと考えた。  ただ、関東経営の為に信玄からも幾度となく協力を得ている。  これには万松軒は悩んだ。  徳栄軒信玄の言動は同盟の裏切りであり、信義に悖もとる事であるとして是を拒否する事は簡単だ。  ただし、今までの武田家に対する恩義もある。  武田家からの使者を向かえた北條家では、客殿で使者を持て成しながら氏政が父と共に別室に入って来る所であった。 「父上、武田家の申し様は誼を通じておる今川家に対する裏切りにございます。それがしは武田の申し様に同意する事は出来ませぬ」  氏政は武田の裏切りを許せないようだった。 「新九郎、ことはそう単純ではないぞ。徳栄軒による同盟の裏切り、これはわかる。しかしな、我が北條家は今川家にも恩があるが武田家にも恩があるのじゃ」 「そのような事は分かっておりまする。しかし信義に悖りまする」 「信義か。新九郎、信義も大事じゃが、家を守り領民を守る事も大事。ことを単純に考えるな」 「しかし」  万松軒はここで掌を氏政に向けた。 「新九郎、武田と手切れになるならば、そちは嫁と離縁せねばならぬぞ」  頭に血を登らせていた氏政だったが、この一言で押し黙ってしまった。  何かを言いたいようでもあったが顔を赤くして悔しがる素振りを見せていた。 「新九郎、儂は少し一人になって考えを纏めたい。しばらくの間は書院に籠る故、その間は武田の使者を懇ろにもてなしておけ」  そう言うと万松軒は一人、枯山水の美しい離れの書院に歩いて行った。  氏政も使者の待つ客殿に戻って行ったのだが、使者をもてなす事三刻余り(約六時間)。  いくら考えを纏めると言っても、何時もの父であればこれほど待たせることはない。使者も待ちくたびれた風情であり、氏政も余りに父の帰りが遅いので気になりだした。  氏政は近くに侍る小姓に耳打ちして父万松軒の様子を見に行かせることにした。だが、書院に様子を見に行かせた小姓も暫く帰らなかった。  何をしておるのかと気を揉みだした頃、ようやく小姓が走り戻って来ると氏政に泣きださんばかりの顔を見せた。  小姓の様子に氏政は、背中に冷や汗が流れ落ちる様な嫌な予感を覚えたが、ここは敢えて冷静に務めて何があったと小姓に声をかけた。 「御屋形様、急ぎの用件が出来致しました。直ぐに書院までお渡り下されませ」  小姓も武田家の使者の前なので、なるべく自然に振舞ったが、これに何かあったかと感じぬ者はいないであろう。 「さようか」  冷静さを保ちながら氏政は使者に向き直った。 「使者殿、こうまでお待たせして置いて申し訳も無いが、今しばらくゆるりと過して行って下され。儂はちと中座するが、直ぐに戻って参る」  何かあった事を感じた使者が顔に不安の色を表したが、氏政自らはさっと立ち上がると、小姓に案内させて書院に向かって小走りで出て行った。  道々小姓から話を聞くと、父万松軒が書院で倒れていたとの事であった。 「父上が倒れたと?」  氏政にとっては驚天動地の大事件であった。  北條家の要であり北條家を囲む大勢力を悉く押し返してきた戦巧者の戦国の雄なのである。  その父を今失えば自らも今川家と同じ道を歩む事になるだろう。 「無事なのか?」  氏政は気が気ではなかった。 「典医(てんい:医者)を呼びましたが、話によると中風ちゅうふうの前触れではないかとの事にございます」  ここで氏政は二度目の衝撃を受けた。  中風とは今で言う脳血管障害の後に起る四肢不随、半身麻痺、言語麻痺等をさす言葉である。  氏政は無事であってくれと願いながら書院に飛び込むと、寝具を運び入れたのだろう、布団に寝かされた父が典医に見守られているのを見た。  全く動かない万松軒。息もしていないと思えるほど静かな呼吸である。 「まさか、身罷られたのか」  白痴のように茫然としてしまった氏政が部屋に入るなり立ち尽くしてしまった。  見下ろす父は弥陀の元に去ってしまったのかとの思いで頭を殴られた様な衝撃を受けた。  だが。 「勝手に殺すな。新九郎」  動かないとばかり思っていた父の口が動いた。 「あっ父上、如何為されました。御無事にございまするか」  寝ている父の脇に添うと、肩を掴むなりいきなり起き上がらせようとした。  これを見た典医が驚き、今動かされてはなりませぬと急ぎ制止した所で漸く我に帰ったのか、典医の声にはっとなって父の枕頭に座りなおした。 「新九郎、慌てるな。どうやら儂も知らず知らずの内に歳を取っていたようじゃ」  横になったまま倅に語りかける父、眠そうな目をしているのは麻痺が現れた事によるものだろうか。 「父上、父上にもしもの事があったらそれがしでは北條家が立ち行きませぬぞ」  倅の声を聞くとすぐ、寝具の中からすっと左手が差し出されて来た。  これを握り返した氏政を見て、万松軒は諭すような言葉を出した。 「まだ腕も動くようじゃ。新九郎、気弱な事は申すでない。儂はまだ死なぬ」  弱いながらも笑い声を出した万松軒は言葉を続けた。 「我が北條家には氏政という棟梁が居る。しかしこの棟梁は儂から見ても一人では心もとないのは確かじゃ」  氏政はこの父の言葉を聞くと、ばつが悪そうに恥ずかしげな表情を作った。 「だがその棟梁には氏照、氏邦、氏規と言った兄思いの優秀な弟達がおる、この兄弟の結束を持ってすれば我が一代を遥かに超える領土を持つ事も夢ではなかろう。弟達を大事にせえよ」  氏政は是を聞いて、万松軒の手を握りながら涙が零れるのを押え切れなかった。 「新九郎、武田家への判断その方に任せる。これからはその方一人で切り盛りせねばならぬぞ。見事乗りきってみせよ」 「畏まりました。これからは父上の後を追えるように見事この難局を乗り切ってみせまする」  万松軒はここで再び静かにほほ笑むと「追うな。越えよ」そういって握る手の力を抜いていた。麻痺が手に回ったのだろうか。  それに合わせて握っていた手を離した氏政、後は小姓と典医に任せて涙を拭きながら使者の待つ客殿へと歩を向けた。  北條の棟梁としての仕事を成す為である。  そこで待つ武田の使者に遅れた事を詫びた後、氏政が伝えた言葉は以下のようであった。  武田家、今川家にも恩義がある北條家である。此の度の武田殿の言葉は敵国攻めの為ならば共に力を合わせ、兵も送れるだけ送ろうとも思う。しかし攻め込む相手は誼のある今川家である。これを裏切る事はできぬ。よって武田殿の話は呑めぬ。また武田家が今川家に攻め入るならば、我が北條家も不本意ではあるが今川家に味方せねばならぬ事になり申そう。短慮だけはせぬで下され。  氏政からそう申し聞かされた使者が躑躅ケ崎館に戻り信玄に報告すると、利害が北條家と一致しなくなった武田家、北條家を尻目に駿河・遠江攻めを独自に始めることにした。  信玄、上洛作戦の前哨戦としての領土拡大欲が最大に膨らんだ時期でもある。  共闘申し込みが物別れに終わった直後、躑躅ケ崎館では信玄が駿河攻めの為の号令をかけていた。  武田家家臣が一同に会した評定の間では駿河攻めを目前にした熱気が籠っている。 「今川家では氏真が当主になってからは衰弱の一途である。ならば外縁である我が武田家が今川の後見となって駿河の立て直しを図ろうと思う」 「しかし北條殿は共に攻め入る事を拒まれたのでござりましょう。今ここで我らが駿河に攻め入らば今川、北條の両面から挟み撃ちにされるのではありますまいか」  と、これは信玄の弟、武田信廉である。 「万松軒が倒れたそうじゃ。まだ死ぬる訳ではないが、氏政如きが棟梁となる北條などは軽く一当りをして小田原に押し込める事ができる」  ここでも信玄の足長入道ぶりが発揮されていた。 「中風らしいぞ」  万松軒が倒れた情報を掴んでいたのだ。  上洛戦を見据えていた武田家では上洛前準備として国力を増強させなければならない事も課題の一つ。この為脆弱化した駿河・遠江を切り取る事は又とない機会でもあった。  それを第一の理由としてまずは海を取る為に駿河侵攻の兵を送り込む事にした。  だが、この武田家の軍事行為を嘲笑うかのように翌月の永禄十一年九月、織田信長が信玄へ伝えていた通りに新将軍足利義昭を奉じて上洛を果たしていた。
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