同盟決裂

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同盟決裂

 尾張の織田信長が上杉輝虎に遅れながらも、足利義昭を奉じて上洛を果たした永禄十一年、小田原北條家では関東を室町支配から独立させる構想が出来上がっていた。  鎌倉府三代目足利満兼からの悲願であった関東以北の支配体制を、氏康の甥である古河公方足利義氏に置き換えての関東・東北圏独立構想である。  万松軒の若い頃、婚儀の時に正室瑞渓院に京に登ると語った事があったが、現在は上洛の目的を改め自らを京洛から離れた位置に置いた独立勢力として存立することが目標となった。  この為にどの大名家が上洛しようとも独立を勝ち取ろうとした北條家は、上洛を果たして飛ぶ鳥を落とす勢いのあった織田家に誼を通じる事になる。  だが、一方の甲斐の国。  自らが上洛を目指していた徳栄軒信玄にしてみれば未だ手の届かない上洛戦である。  肥沃な信濃を手に入れたとはいえ、上洛軍の目標である凡そ三万の軍勢を賄うには少々米の取れ高が足りなかった。  このため北條家に共闘を断られてから凡そ半年後の永禄十一年十二月六日、遠江割譲を約束していた三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始する事になった。  駿河・遠江両面からの侵攻に対して今川氏真は兵を起こし、薩垂峠で武田勢を迎え撃とうとしたのだが、興津の清見寺(現静岡県清水区興津清見寺町)まで出陣したところで同陣していた駿河の有力国人である葛山氏元、瀬名信輝、朝比奈政貞を筆頭とした二十一人が離反する事件が発生。  甲州方へと走った為に翌日十三日には武田勢の攻勢に歯止めをかける事が出来ずに潰走する事になってしまった。  信玄が得意とする調略の真骨頂でもあった。  これを見た甲州勢は追い打ちをかけると駿府屋形まで兵を進めて是を占領。氏真は家臣の朝比奈泰朝の籠る掛川城へと逃亡して行った。  この時の氏真一行は正室早川殿(万松軒娘)の輿すら用意出来ぬ程に危急混乱となっていたと伝えられている。  他方甲斐武田と侵攻同盟を結んでいた家康が軍勢を率いて遠江に侵攻したが、こちらは抵抗らしい抵抗も受けずに大半の制圧を完了する。  そして十二月二十七日に入ると、三河から侵攻してきた徳川勢に掛川城を包囲された氏真だったが、勢力を著しく削がれた為にこの時から半年に亘る籠城を余儀なくされた。  これに対して、氏真の舅にして妻早川殿の実父である万松軒は、半身の動かぬ体に鞭打って北條家の指揮を執った。  倅氏政に相模の軍勢を預け、氏真救援の兵として差し向けさせたのだ。 そして駿河国に入っている武田勢を駆逐するために薩垂峠(さったとうげ、菩堆峠とも:現静岡県静岡市清水区)に布陣させた。  しかし人数では勝る北條勢ではあったが、広大な平野での騎馬合戦を得意とする北條勢は、山間狭隘地での山岳戦には不慣れであったために、武田勢との戦闘は膠着状態に陥ってしまった。  ところが、信玄がここで家康との約状を破棄したとの知らせが舞い込んできた。  生来の欲が出たのか、密約をしていた三河徳川家との約状を破り、徳川家が押えていた遠江領へ侵攻したのだ。  これに家康が不信感を覚えたらしい。  そしてその知らせを受けた小田原城では、褥に伏せる万松軒が家老松田憲秀を近くに寄せていた。  万松軒の頬はこけ、病が進行した状態にも見えたが、その眼光だけはぎょろりと光り、健在のころよりも凄みを増している。 「……憲秀」  枕頭に座る評定衆筆頭、松田憲秀に万松軒は声をかけた。 「大殿様、如何なされました」  寝たきりの万松軒の耳元で囁くように返事をする憲秀、今は万松軒の脇に控えて各国への送受の伝令役を担っていた。 「その知らせだが、新九郎にな、三河の家康が武田を離れる事、伝えて参れ」 「畏まりました、では早速に。して、家康殿に働きかけて挟撃の密約を結ばれるよう指示されまするので?」  一度目を瞑った万松軒は暫く考えるような風情であった。 「それは新九郎に任せよう。憲秀、その方も新九郎の力量を確かめ、不足があったら助けてやってくれ」  憲政は枕頭に平伏すると、使者の間へと歩いて行った。  この万松軒からの使者を薩垂峠の陣で受けた氏政、自立心を芽生えさせたのか考えが強かになっていたようだ。  伝えられなかった徳川との挟撃を即座に判断したのである。  父の危篤に向かいあった子の成長がここに見られた。  返答の知らせが届くと直ぐに万松軒の枕頭に憲秀が座っていた。 「大殿様、御屋形様は家康殿との挟撃を直ぐに決定されましたぞ」  憲秀の報告に満足したのか、万松軒は笑みを湛えている。  一方の氏政は、遠江で徳川家と武田家との不穏な空気が流れた今、これを好機として密使を徳川勢に送ると、進退定かならぬ武田家を信用すべからずと申し送り、遠江の覇権は徳川家に認める代わりに、我が北條と前後して駿河の武田勢を挟撃する事と、駿河から武田家を放逐した後は国主を再び今川氏真とする密約を取り交わした。  家康はそれに乗り武田勢への駿河挟撃の陣を整えている。  信玄はそれを逸早く察し、脅威とは思うのだが上洛戦を控える今、ここで無理攻めをしてでも駿河が欲しかった。  まずは駿河の橋頭保としての城である富士山本宮浅間社の大宮司で、今川家の家臣である富士兵部少輔信忠の籠る大宮城(現静岡県富士宮市)を攻めれば先ずは当座が凌げる。  そう考えて薩垂峠の陣から一部兵を割いて送り込んだ所、地の利を得ない敵地での戦闘に加えて兵数が少なかった為、大敗を喫してしまった。  この戦闘が契機となり、橋頭保も得られずに徳川・北條の両面から挟撃される位置に入る事になった信玄、駿河を退転して甲斐へと退却して行くことになった。  これに対して左京大夫氏政は兵を進め、興国寺城(現静岡県沼津市寝小屋)、葛山城(現静岡県裾野市葛山)、深沢城(現静岡県御殿場市深沢)など、一時期今川家との対立の地であった河東一群の諸城を接収、これで武田家との同盟は決裂する事となる。  しかし、北條家は西に武田、北に上杉、房総には里見、常陸からは佐竹と、脅威となる大名四家に囲まれる状況に陥ってしまう事にもなるのだ。 「新九郎を呼ぶように」  そう自らの寝所となっていた書院で、万松軒は枕頭に侍る松田憲秀に命じた。  このとき氏政は、河東一群の仕置きを済ませて丁度小田原に帰陣していた所だった。  馬上に揺られながら城門を潜った辺りで父に呼ばれている事を知った氏政は、馬を降りて急ぎ轡取りに手綱を渡すと、走りながら具足を脱ぎ捨てて書院まで走って行った。  途中で旅埃に汚れた自分に気が付いたが、今更戻って衣装を改めることもできないので、書院で横になっている父の枕頭にそのまま入る事を憚り、書院濡れ縁までやって来た所でべたりと着座した。 「父上、河東の仕置き、滞りなく終わりましてございます」  帰陣の挨拶と作戦終了を合わせて報告する氏政に対して、万松軒は松田憲秀に支えられながらも半身を起して待っていた。 「此度の駿河の仕置き、苦労であったな。あとは氏真がどこまで持つかだが、今川は国主としての力を失っておる故、おそらく氏真は我が北條を頼って参ろう。その時は新九郎、しっかりと保護するのだぞ」 「畏まりましてございます」 「ところでこれからの事だが、この駿河救援で北條家は四面楚歌になってしもうた」 「同盟を守る義戦で御座います故、致し方ありますまい」  万松軒は声も無く片方の口角を上げて表情だけ笑ってみせた。 「新九郎、義の戦などは越後の不識庵の得意とする所ぞ」 「確かに。父上のおっしゃる通りにございます。しかしこの氏政、その四面楚歌を考えて越後の不識庵と同盟を考えております。これを父上は如何お考えにあそばしましょうか」  氏政のこの言葉で片方の口角を上げていた万松軒は真剣な顔に戻った。 「如何されました」  倅が深く物事を考え、其々の力の均衡を図れるまでに成長したかと思うと嬉しくもあった。 「うむ、よくぞ気が付いた。今まで関東の地を巡り争いあって来た両家ではあるが、武田が同盟を裏切り三国同盟が破棄された今、上杉・武田・佐竹・里見に囲まれるは我が家の不利。ここで旧怨を捨てて越後と誼を通じる事が最大の良策」  武田を敵に回した事で四方を囲まれた北條家だが、佐竹・里見は上杉の影響力が大きい。  またこの時点で常陸の佐竹氏は、東北方面、及び関東侵攻で謙信と対立が始まっていた時期でもある。さらに謙信が軍勢を越中に進めたい時期と重なっていた。  他にも上野では、箕輪城を中心に西上野を支配下に治めていた武田家に対して、沼田・厩橋方面を中心に東上野を押えている上杉家としては力の均衡を図る事は急務となっている。  北條家にとっては越後上杉家と和睦をする為の、願っても無い好機であった。  この越相和睦を進める為、氏政を筆頭として宿老・評定衆を湯本の早雲寺へと参集させ、また富田の大中寺(栃木県栃木市:旧大平町)の長老である虎渓和尚も招いている。  この評定では粗全員一致で同盟案が採択されて実行に移されることになった。  後日、虎渓和尚は上野の由良成繁にも計り仲介役とさせている。  北條家と上杉家の仲介役として抜擢された太田金山城に拠る由良成繁だが、この由良氏の領地は上杉家と北條家の境にあり、過去をみてもどちらにも帰参した事があって顔を知られていた事も理由の一つかもしれない。  また以後の上杉家との交渉は、三男源三氏照、四男新太郎氏邦を同盟事業の中核として進めさせている。  是に合わせて遠江でも、徳川家康の軍勢に掛川城へと押し込まれていた今川氏真が越後に使者を送っており、相模北條との同盟の後押しを始めた。  謙信としては、関東の騒乱を続けて来た遺恨の残る両家だけに同盟には後ろ向きだったようだが、関東攻めを敬遠しだした家臣からの説得と、それに対して以前から直江景綱に指摘されていた事も考え、北條家と越相同盟を結ぶ事を渋々ながら了承したようだ。  この同盟が成立したのは永禄十一年も明けて永禄十二年一月に入ってからの事。  両家の同盟の条件として審議された事は、現在上杉家が関東で保有する上野東部と武蔵羽生領を上杉家の領地として認める事、及び関東管領職である事を認める事であり、北條家からの条件は、古河公方として最後の直系である足利義氏を認め、また今までの越後勢関東入りの原因であった相模、武蔵領を北條家の領有である事を認めさせるものであった。  このとき初めて自らが擁立していた足利藤氏が没していた事を正式に知らされた謙信であったが、しかし藤氏が死亡している事が事実であれば義氏を公方と推戴する事に異を唱える理由もない。  これを相互に認めた両家は、その同盟を確かなものとする為に、互いに人質の交換を行う事を取り決めた。  閑話休題であるが、越相同盟が実現された丁度この頃、甲斐武田家に対して有名な塩止めが行われたとされている。  だがこれは、武田家が織田家と同盟を結んで対抗したために有効的な効果は上げられなかったようだ。  また、この塩止めに対する謙信の塩送りなのだが、是は残念ながら軍記物にありがちな美談であり、その実質は物産の流通に支えられていた越後軍の軍費調達の観点から禁止させなかっただけであるとされている。  さて、この越相同盟を聞いて驚いたのは常陸の佐竹であるが、これに更に輪をかけて驚いたのが関宿の梁田晴助であった。  佐竹は越後上杉家と手切れになっても東北・関東を切り取る野望を持っていたために現状維持の方向だったのだが、関宿梁田氏はそうはいかない。  さきの関宿合戦の折りに和平交渉が決裂しており、一度帰属しかけた北條家とは再び敵対関係になっていたのだ。  後詰となってくれていた上杉家が北條家と同盟を結ぶとなると、関東平野の真ん中で完全に孤立する事になる。  背筋が凍る思いの梁田晴助だったが、北條家では関宿梁田氏を上杉方と目していた為に越相同盟締結後、関宿攻めの兵を解いて山王山砦を破却。合わせて軍勢を小田原に退却させて行ったのを見て胸をなでおろした。  しかしこの同盟を聞いて北條も上杉も信用できなくなった晴助、甲斐の武田晴信と盟約を結ぶ事になった。  藤氏が死んだ事を聞いて義氏擁立を認めた謙信に不信感を抱き、その弟の藤政を擁立し第三の勢力と結ぶ事を強く望んだのだ。  ただし、梁田氏は明確に上杉家との決裂を宣言した訳ではない。自家保存の為にどちらの手も離さずに置く事が小領主の生きる道なのだ。  しかし、梁田氏が甲斐武田家と誼を通じた結果、佐竹氏をはじめとする反北條方の勢力も甲斐武田氏と誼を通じる端緒となっている。  こんな中、越相同盟での人質交換では実子の居ない謙信から北條家に送られて来たのは、有力家臣である柿崎和泉守景家の実子晴家であり、北條家から送られる予定だったのは氏政の次男である国増丸であった。  しかし氏政、子を憐れんだのか突然上杉家に我が子を差し出す事を拒んだ為に、急遽万松軒の実子であり氏政の弟、今は幻庵の養子となっていた北條三郎、後の上杉景虎を永禄十三年までに送り出すと申し送る事になった。  そしてその約束通りに、北條三郎は第二次国府台合戦で命を落とした江戸城二の曲輪詰だった遠山綱景の弟、遠山康光・直次親子が付き人となって越後に入る事となった。  永禄十三年四月二十五日の事である。  氏政は人一倍家族を大事にしたと言われているが、この時もそれが原因で人質を送りだす事が遅れたのであろう。  氏政の家族思いの逸話としてもう一つ。武田家と北條家が不和となった後、自らの正室である信玄の娘、黄梅院と離縁することになったのだが、後年武田家と再び同盟を結んだ時、真っ先に行ったのが、甲斐の国で露と消えていた愛妻黄梅院の遺骨を武田家から譲り受ける事だったそうだ。  さて、話を元に戻そう。  永禄十二年九月二十四日、甲府を発した徳栄軒信玄は碓氷峠から武田勢を引き連れて北條領武蔵に侵攻を始めた。  最終目的である小田原城攻めを画策しての挙兵である。  信玄は躑躅ケ崎館での軍評定を終了させると直ぐに、家宝である御旗・楯無に誓いを立てて出陣。  誓いを立てた御旗とは、武田家の家祖、新羅三郎義光から受け継ぐ日章旗であり、楯無とは御旗と対になった鎧とされる。堅牢な作りから楯さえいらぬ鎧と言う意味らしい。  武田家では是に誓いを立てた場合は何があってもその誓いを守らねばならぬとした家法があったようだ。  電光石火の勢いで武州男衾郡までやって来た武田軍、先ずは藤田氏邦の籠る武州鉢形城を攻めようと荒川を挟んで兵を止めた。  このとき藤田氏邦は鉢形衆を城に籠め置き、信玄が攻め寄せればいつでも迎撃できる備えを作っている。  氏邦の備えとこの鉢形城の造りを一見した信玄、荒川と深沢川を天然の堀としたこの城を、攻め辛き天然の要害であると看破した。  また、この鉢形の城を無理に攻めた所で、後背にある支城花園城から攻撃を受けてしまう位置に軍勢を置く事になるのは明々白々の事。  攻め辛い城を無理攻めして兵を失えば、目的の小田原に到着する前に全滅の憂き目に遭うのは確実である。  一応は陣触れとして『敵が現れたらこれを受け、城下に火をかけて速やかに後退すべし。あるいは城の様子によっては手を出さず、ただ睨みつけるだけで押し通っても良い』としたが、結局、あっさりと鉢形城攻めを諦めた信玄は、そのまま軍勢を南下させてから大石源三氏照の籠る滝山城に向かって行った。  一方の滝山城。 「徳栄軒の軍勢が鉢形を越えて早くもこちらに侵攻して居るとの事にございます」  三田氏攻めの折り、勝沼城の城代として氏照の臣下に置いていた師岡将景が滝山城の主殿に走り込んできた。 「武田の乱破と思しき者共が夥しく城下に入り、斥候も幾人か放たれている様子」  既に鉢形の弟氏邦から知らせを受けていた氏照、家臣を集めて戦支度はできている。  居並ぶ家臣は横地監物、布施出羽守、中山勘解由を筆頭に幾人も甲冑姿で評定に出ていた。  報告を終わらせた師岡将景も自らの席に着くと、氏照が渋い顔つきながらも諸将の配置を命じ始めている。  在地の百姓達を城の北端にある山の神曲輪に避難させ、二千余の城兵を手分けして一の曲輪を囲むように配置された中の曲輪、二の曲輪を始め、十程に設えてある各曲輪に人数を潜めて武田勢を迎え撃つ事になった。  氏照が放った物見の報告も次々に知らされるようになり、小山田信有と言う者が手勢二百騎に雑兵九百余を引き連れて進軍、また信玄の本隊も多摩川を渡河している最中であるらしい事がわかった。  そして十月一日の朝、武田軍の先陣であった小山田信有が城攻めの先鋒となっていた。  手勢二百を四十づつ五隊に分け、そのうちの一隊に鉄砲を持たせて山影に隠れさせると、残りの四隊を城門際まで進ませている。  これに合わせて城方の兵三百程が土塁際まで寄せて来るのが見えた。  軍配をさっと振り上げた信有。 「今ぞ、放て!」  二十人の鉄砲隊からの轟音に気を取られた城方が一斉に信有の潜む山影まで走り寄って来たのに合わせ、城門際の四隊を迂回させて城方の居なくなった曲輪の逆茂木を越えさせた。  これで先ずは一つ目の曲輪を落とした武田勢、ここを橋頭保として、信玄本隊とは別に信濃方面から参集してきた馬場美濃守信房を差し向け、次は川中島で死んだ典厩信繁の次男、典厩信豊を四郎勝頼の介添えとして差し向けた。  二万の武田勢に対して二千余の人数で必死に堪える源三氏照であったが、滝山城の要害に頼りながらも一つ々々曲輪を剥がされる様に押されて行く。  この時はまだ武田勢本隊が城を遠巻きにしており、実質一万ほどで城攻めをしているのだ。  こんな中で南西と南東にある外曲輪群を三つまでも破られ、馬場信房の隊に、遂に三の曲輪を奪われた。 「我らの運も最早これまでか。譜代の家人共、城を枕に討ち死にの覚悟をせよ」  城主氏照の決死の覚悟を見た横地監物、今生の御暇乞い仕ると叫んで郎党を引き連れ二の曲輪に打ち出でた。  また中山勘解由も家人を引き連れて来た。 「御大将、某もここで御暇乞い仕りますぞ」  そう言って呵呵と笑うと横地監物の後を追うように二の曲輪に出て行った。  中山勘解由が出て行ったのを床几に座って送りだした氏照、すっくと立ち上がって近習に向かって最後の下知をした。 「残り少なになった我ら、生涯の忠節これまでと思い、討ち出だすは今。皆々、儂に付いて参れ」  中の曲輪から二の曲輪に人数を押し出してきた氏照、まずは二の曲輪の二階矢倉で北條甍の旗を押し立て、十文字槍を隆々と扱いて駆け下りて来た。  この時、城の外曲輪南東から二の曲輪に侵入してきた武田勢の一隊がいた。  信玄の倅、四郎勝頼の隊である。  先に出ていた横地と中山の部隊は、氏照と反対側の南西側にある千畳敷き曲輪に向かっており、馬場と小山田の一隊と凌ぎを削っていた為に此方に気が付かない。  このために北條方氏照隊と武田方勝頼隊が二の曲輪での激闘を始めることになった。 「皆々死力を尽くせ、ここを破られてはならぬぞ!」  そう自軍城兵に叱咤する氏照、攻め寄せる武田勢を突き伏せ薙ぎ伏せ、獅子奮迅の働きを見せる隣で、同じく十文字槍を振り回す師岡将景、偶然にも手合わせをしていたのが四郎勝頼であった。  寄せる武田勢が多すぎて師岡の助けに行けない氏照であったが、師岡も剛勇の士である。四郎勝頼と槍を合わせてどちらも打ち負けるという事が無かった。  どれほどの時が経ったのだろう、急に隣の千畳敷き曲輪から横地監物と中山勘解由の一隊が馬場美濃守に押され始め、雪崩を打って二の曲輪に退却してきた。  この混乱で氏照、師岡が四郎勝頼と逸れると、嵩に掛かって寄せて来た武田の人数に押された所で二の曲輪を放棄。中の曲輪に退いて行った。  残すは中の曲輪と一の曲輪のみである。  ところが、滝山城もこれで落城かと思われた時、なぜか武田勢の動きが止まったのだ。  これを訝しんだ氏照が、中の曲輪の矢倉に登って二の曲輪、外曲輪を見たとき、思いもかけぬ光景を目にした。  俄かに武田勢が引き揚げを始めているのだ。 「ここまで攻め寄せた武田、何故に退く道理がある」  合戦の興奮冷めやらぬ氏照、一緒に矢倉に登ってきた師岡に声をかけた。 「分かりませぬ、武田の後方に後詰が現れたのでしょうか」 「何処からも後詰の知らせは受けて居らぬ。もしや武田の罠かもしれぬ故、外曲輪まで人数を出して、そこを押える事が出来たら木戸を固めよ」  武田勢の理解し難い動きではあったが、この時の氏照の不安は杞憂に終わったようだ。  信玄はこのとき、功に焦った四郎勝頼と典厩信豊が討ち死にでもしたら困ると云う理由で兵を退いていたのだ。  この後には小田原攻めが控えている。大事の前の小事であるこの滝山城を無理攻めし、兵を徒に失う事を避けたとも云えた。 「信玄入道、滝山の城を二の曲輪まで落としながらも兵を退き、只今小田原に進軍中にございます。また滝山城は危うく難を逃れて落城してはおりませぬ」  滝山城敗戦の報告を伝馬で受けた氏政、万松軒にもこの事を伝えると急ぎ軍評定を開いた。  信玄動くの報に接して小田原方では、玉縄の北條綱成・氏繁親子、松田尾張守憲秀、遠山綱景三男で武州小倉城主の遠山政景、松山城代上田暗礫斎、北條綱房(福島勝弘)、原上野介、大道寺政繁、幻庵宗哲などが一同に会している。  また男衾の氏邦と、危機を脱した瀧山の氏照も一手を率いて参陣中でもあった。  小田原の評定では、先の謙信小田原攻めと同じく敢えて信玄と戦わず、籠城に徹して甲斐兵を疲れさせ、兵糧が尽きるのを待てば自ずと甲斐に引き上げる。この時を狙って信玄入道を討取ろうと結審したために、再び小田原籠城戦が始まろうとしていた。  また、信玄による小田原攻めまでに再び自らの足で歩けるまでになっていた万松軒、氏政と共に信玄の動向を注意深く探らせている。  すると滝山城を出た武田勢、府中(現東京都府中市)、高井戸、瀬田谷(世田谷)、目黒、池上(現東京都大田区池上)、小机、帷子(現神奈川県横浜市保土ヶ谷区天王町)辺りの家や寺を思う様に乱暴し尽くし、藤沢、大磯と押し通り、十月の初旬までには前川、国府津、酒匂駅までやって来た事が分かった。  武田勢が小田原城近くまで寄せて来た知らせを書院で受けた万松軒、やっと歩けるようになった自らの足で、小田原城追手門である蓮池門矢倉まで歩いて行こうと立ちあがった。  若干ふらつき足元が覚束ない父を見た氏政は、幻庵と共に抱きかかえるようにして介添えすると、北條綱成と松田憲秀も共に行くと付いて来た。 「新九郎、なにやら不識庵がやって来た時を思い出すなぁ」  そろりそろりと歩きながら肩を貸す倅に話しかける万松軒、急な矢倉門への階きざはしを一歩一歩踏みしめて登って行く。  この足取りを見ていた綱成は、万松軒氏康の人生を如実に表しているように見えて、なぜか目頭が熱くなってくるのを覚えた。  大永元年から共に兄弟の様に育ってきた綱成、主であり気心の知れた友としても過ごした時期のある万松軒が弱って行くのを見るのは忍びないものである。  倅氏政の肩を頼りながらも矢倉へと登る姿を、どことなく遠い世界の風景でも見るように眺めていた。  このまま、伊豆千代丸と呼んだ事もある氏康が、自分達を置いてどこか遠くへ行ってしまうような、そんな切なさが過るのだ。 「どうされた」  動かなくなった綱成を不思議に思った憲秀が声をかけて来た。 「いやなに、儂と歳が同じ大殿を見ていたらな、儂はこれほど達者でおるのに、身が不自由になりながらも北條家を担がねばならぬ大殿の不憫さを思うと」  懐紙を取り出した綱成、涙を拭きながら鼻をかんだ。  自らの老いと重なった感傷でもあったのだろうか。 「なに、氏政の御屋形様も既に一人前にござる。北條家を背負う器量を備えて居られます故、不憫とは申せますまい」 「そうじゃな、儂とした事が。御屋形様に無礼な申し様をしてしまった」  二人が遅れて矢倉に入ると、先に入っていた万松軒、氏政、幻庵宗哲の三人が、布陣している武田勢を矢狭間から見ていた。 「これは、少ないのぅ」  はははと万松軒は渇いた笑いを響かせている。  確かに謙信が引き連れた関東勢十万の軍勢に比較すれば、いま目の前に布陣する武田勢二万は少なく見えるのだろう。  信玄もまさかこれだけの人数で小田原を落とそうとは思ってはいないだろうが、やはり大軍勢と度々対峙してきた万松軒の目には、なにやら小手先の遊びをしているように映ってしまうのは止むを得ない事なのかもしれない。  一方の武田勢、酒匂川が増水していた為に中々川を渡れず難儀しているようだった。  ここに武田勢が至るまでには幾日も雨が続いていた為にかなりの水量が流れていたのだ。  軍勢の止まった酒匂の川岸まで信玄自ら駒を進めてくると、轟々と音を立てて流れている酒匂川があった。  周りを見渡すと、何とか渡れそうな浅瀬もあるように見えるが、濁った水面下はどうなっているか知る由もない。うっかり足を入れると濁流に飲まれるために立ち往生することになった。  しかし目の前には小田原城があるのだ。 「誰ぞ瀬踏みをして、この酒匂川を渡る先導をするものはいないか」  と、信玄が不意に叫んだ。  余程先を急ぎたかったのだろう。  そんな時に、将棋の駒の香車の陣羽織を羽織った騎馬がいるのが目に入ってきた。  初鹿野伝右衛門昌次である。  元々は源五郎と名乗っており信玄秘蔵の小姓でもあったのだが、先の川中島で討ち死にした初鹿野源五郎忠次の名跡を継がせて原虎胤の女婿にもしていた人物でもある。 「伝右衛門ではないか」  信玄の声に馬上から挨拶をした伝右衛門だったが、信玄は陣羽織の方に興味を持ったようだ。 「伝右衛門、その方の陣羽織、香車とあるが、まっすぐ進むその駒でこの川を渡る事ができるか」  妙なことを聞くものであるが、当時は主人にこのような事を聞かれると云う事は、それを完遂させねば笑い物になるといった風潮もあった。  もちろん自らの背負う印にも自負心を持つ戦国武者である。 「承りましょう」  そう大声で信玄に返すと、赤地に黒く染められた百足の指物を背に括りつけ、ざっと音を立てて酒匂川に馬で乗り込んで行った。  しばし見ていると、器用に馬の手綱を裁きながら浅瀬を渡り、踏み外すことなくするすると急流を渡りきっていた。  ほぅ、と感嘆の声を漏らした信玄であったが、ふと悪戯心が出て来た。  背中の香車がどうしても気になったのだ。 「その方の瀬踏み、見事である。したが香車の様に行ったきりでは武功は上げられまい」  そう叫ばれると、伝右衛門、対岸でなぜか陣羽織を脱ぐと、くるりと逆さに着込み、先ほどと同じように浅瀬を渡って戻って来た。  何をしているのかと驚く信玄の前に進み出て背中を見せた伝右衛門。 「敵陣に打ち入らば金になり申す」  そう言って逆さに着込んだ陣羽織を披露した。  そこには香車の裏側に予てから書き込んであったのだろう、金の文字が浮んでいた。  一部始終を見ていた武田勢はこれをどっと褒めそやし、信玄はぐうの音も出なかったのだとか。
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