黎明

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黎明

 父、早雲庵宗瑞の死より二年、永正十八年を改元し大永元年となった夏。  相模国小田原の城主、伊勢氏綱の元に、下総国は下河辺(しもこうべ)の荘、古河(こが)の地に居を構える公方からの使者が遥々三十里の道程を越えてやって来ていた。  大永元年現在の古河公方は足利高基と名乗り、初代足利成氏から数えて三代目に当たる鎌倉公方の末裔である。  鎌倉公方とは足利幕府初代尊氏が関東統治の為の出先機関として鎌倉府を作り、そこに四男の基氏を置いた事が始まりとされている関東管領かんとうかんれいの事だ。時代を下るにつれてこれを公方と呼ぶようになり、その補佐役であった関東執事を関東管領と呼ぶに到る。  以降次第に中央の室町と疎遠になって行くと、四代目足利持氏の代に籤引き将軍足利義教と将軍後継を巡って対立。のちに永享の乱を巻き起こし関東に戦国の暁光を示すことになるのだが、これが応仁の乱に先駆けた関東の一大戦乱に発展するのである。  その後も持氏の遺児を奉じた結城合戦等の紆余曲折のもと、足利成氏が鎌倉公方五代目に就任するのだが、この成氏も享徳の乱など様々な事変を巻き起こすと云った戦乱の絶えない家系でもあった。  結果、鎌倉を落居して下河辺の荘は古河の地に落ち着くと、古河公方や鎌倉殿と尊称されていた。  また代を重ねた現在も管領家である山内やまのうち上杉家とその分家、扇谷おうぎがやつ上杉家と対立しており、関東を三分して泥沼の戦いを演じている真最中でもある。  その使者一行が小田原城追手門である蓮池門前に到着した。  城の最外廓まで家臣を幾人か従えた家老松田盛秀と大道寺盛昌が、公方からの使者を貴賓の扱いで出迎えていた。  使者一行は引立烏帽子に水干姿の正使と侍烏帽子に大紋姿の副使、及び伴の人数が幾人か居並んでおり、いかにも使者然としたいでたちである。  双方顔を合わせ、松田盛秀からの長旅を労う挨拶が交わされると一行は矢倉の掲げられている蓮池門虎口を潜り三の曲輪客殿に通された。  この使者が客殿に入った事を見計らった盛秀、使者来訪の知らせを家臣を使って主の居る八幡山の主殿に走らせた。  一方、八幡山一の曲輪の主殿では小田原城の主、伊勢氏綱と、今一人の裃を纏った物静かな男と対座していた。  日の光の射し込んで来る打ち開かれた障子窓を二人で眺めている風景はどこか、茶飲み話の風情でもあった。 「先ほど、鎌倉殿よりの使者が参ったようにございますな」  そう話を切り出した小太郎であったが、古河公方、足利高基より使者が参るとの知らせは既に十日は前に氏綱の耳に入れていた事でもあった。  足柄に巣食う風魔の一族筆頭である小太郎は、伊勢家の諜報活動の一切を取り仕切る忍びの頭領なのだ。当然その諜報網を使って高基の動向は捕えており、その知らせはあらかじめ氏綱に知らせていたものである。  いまの言葉は改めて確認を取るものであった。  ちなみにではあるが、風魔の棟梁は代々『小太郎』を襲名しており、宗瑞に臣従した小太郎を初代とすると、いま氏綱の目の前に侍る小太郎は数えて二代目となる。 「そうか、いよいよ参られたか」 「はい。どうやら春様と晴氏様との婚儀の申し入れの使者のようにございます」  春とは氏綱の六人の娘の内の一人の事で、後に芳春院と呼ばれるようになる、唐の楊貴妃か漢の李夫人かとも評された美貌が評判の姫君だった。 「しかし、気の早い公方殿じゃな。我が娘はまだ生まれたばかりではないか」 「さようにございますな。しかし、恐れながらおそらくは布石、ではありますまいか」 「布石、と?」 「はい、いま鎌倉殿は両上杉家との合戦続きで疲弊しております。周りを見ても扇谷は相模の北から武蔵一帯を押さえ、それに甲斐武田と昵懇でございます。また山内は言うに及ばず」 「武蔵の盛り返しとして我が伊勢と結ぶための布石と見るか」 「はい」  障子窓から見える屋敷の方が俄かに騒がしくなってきたようだ。鎌倉殿到着の知らせを持って小姓か供侍が走っているのだろう。  氏綱は障子から小太郎へと視線を移した。 「鎌倉殿の御曹司と、我が娘が祝言を挙げるか」  氏綱は鼻が悪いのだろうか、ふん、と鼻を鳴らした。  この伊勢家二代目氏綱、顔かたちは初代早雲とはあまり似ていない。唯一似ている所は切れ長の目を持ったところだろうか。しかし思慮深そうな面持ちをしている。  子には恵まれたようで、正室と継室との間に氏康、為昌、氏尭、大頂院、浄心院、高源院、芳春院等、九人の子を生していた。 「我が伊勢家の後押しを得て扇谷、山内を押し込め関東を鎮めようとてか。まぁそれも良かろう」 「この婚儀の話し、進めまするので」 「進める。渡りに船じゃ。しかし一度は断りの体を成そう。鎌倉殿から再三の申し入れがあったればこそ関東の豪族達にも公方を調略したと思われずに済む故な」 「いかさま。しかし断った事でこの祝言の話が無くなってしまう事はありませぬか」 「それはあるまい。前公方政氏様と高基様はそれぞれ山内の顕実殿と憲房殿に担がれて争い、それは未だに後を引いておるのだ」 「それに今、政氏様(高基父)は武蔵は久喜の館にて隠居されておるとの事ですが、高基様の御舎弟義明様がその内紛に紛れて謀反を起こし、下総は小弓に御所を建てておりまするな」 「うむ、父宗瑞が小弓の公方様と真里谷武田殿の御味方となり、安房の里見と戦ったは、つい先年の事だったな」  父宗瑞を思い出したのか、氏綱の視線は虚空を見つめ感慨深げであった。 「今は古河の公方家も三つに割れておりまするげな」 「それよ。それに一昔前には友好があった山内とも争いを始めておるのだ。なれば頼る関東の豪族達はそれぞれが小粒で有る故、我が伊勢を拠り所とするは必定か」 「鎌倉殿と縁戚ともなれば伊勢家(北條家)にも良きことがありまするか」 「関東の足がかりにするための管領職を引き出せるかもしれぬ」 「管領職にございまするか、それは重畳にございまする」  この時、主殿の木襖を取り払った板敷きの間の濡れ縁まで松田盛秀の家臣がやって来ると、そこに氏綱が居る事を視界に確認したのか頭を垂れた。 「公方様御使者、後来着にございます」  静かではあるが通る声で報告を受けた氏綱、この使いの者をちらりと一瞥して、ならばと膝を立てた。 「鎌倉殿の使者に会うとするか」  そう言葉を残して小太郎との話を終わらせると、使者の待つ客殿へと向かい使者と対面した。  そして以下のような記録が残る。  これは相州兵乱記の『氏綱公方ヲ婿ニ取ル事』に記載されている。 「氏綱畏テ承リ御返事申ケルハ当家ノ襄祖王氏ヲ出テ年久シ代々衰ヘ匹夫ノ武臣ト成ル無官無位ノ凡下ト成リ将軍高位ヲ婿ニ仕奉ランコト其恐アリト辞退アリ」 --------------  渡良瀬の川水を堀に引き入れた堀が昼の光を反射している午後、下総の古河の御所に小田原から氏綱の娘との婚儀の申し入れをした使者が帰って来た。  乾く道を歩く一行が土埃を上げながら目指す古河の城は渡良瀬の水と森に囲まれた浮城である。  古河の城は先々代、足利成氏の居城として建てられた城閣であり関東、今で言う関東から東北全域の政治的中心でもあった。この城を脅威と見た扇谷上杉氏が今に繋がる江戸城を築いたものだ。のちに江戸幕府中枢の居城となり、明治維新後には皇居となる江戸城は、そもそも古河城に対する扇谷の出城なのである。  さて、派手に舞い上がっていた土埃も湿気る追手門の前までくるとだいぶ治まるようではあるが、目に入る砂埃をしかめっ面で防ぐ門衛もんえい達が往復六十里の道程を無事に戻ってきた使者一行を御所の門で出迎えていた。  ほどなく使者帰着の知らせを受けた梁田高助が自室を出たのは、使者が使いの間に通された頃であった。  使いの間は当時いまだ高級品であった厚畳が敷き詰められており、塵ひとつなく掃き清められている。座敷は板襖も取り払われ、玉砂利の敷かれた庭園にそよぐ風が屋内にも清々しく流れ込んでもいた。  そこに門衛から出迎えられると直ぐに旅埃に汚れた服装を改めた使者が主・副と二人並んでいる。  間もなく、渡り廊下を足音もけたたましく鳴り響かせて梁田高助が使者の間に入って来たところで、改めて使者二人は項垂れた。 「只今戻りまして御座いまする」  上座に着いた高助に対して二人の使者は恭しく礼を執った。 「苦労である、して首尾は」  この梁田高助とは、この時期古河公方家の奏者の地位にあった武将である。  室町御所では公方に拝することのできる各大名家に其々あてがわれた申次衆と言うものが居るが、古河御所ではそれと同等の役職を奏者と言った。  そして高助の祖父を梁田持助と云い初代古河公方成氏の代からの重臣の家である。また父は政助と名乗り、前公方政氏の奏者だった。  祖先は平氏と言われ、下野国足利荘梁田郷の出身とされる。  そしてこの小田原伊勢家と古河公方家の婚儀成立を心待ちにしているのは他ならぬ高助だった。関東での古河公方家の勢力巻き返しを図る為に伊勢家を利用しようとしていたのだ。  使者が平伏していた頭をこころもち持ち上げ気味に先ごろの報告をはじめた。 「まずは、伊勢殿から言伝がございました」 「ほう、どのような」 「我が家は遥か昔に王籍を抜けて、今は凡下の武家となり果てたるにより、高位の公方様に我が娘を仕えさせるには畏れ多い事。との事にございます」 「ほう」  高助は鼻白んだように、ふん、と鼻を鳴らすと、両腕を組んで目を静かに閉じた。 「王籍を抜けて、のう」  その高助、ふと伊勢家が典礼の家である事を思い出した。 「……そうか、流石は儀礼の家と云われた伊勢家、と言ったところか。すぐさま食い付かぬわ」  この高助、父と確執を数年続けたあと武蔵国は久喜に隠居させ、自らが関宿城の城主に納まっているほどの巧者なのだが、しかしこの時期、先の小田原で氏綱が語った通り、古河公方家は再び山内上杉と敵対しており、更に高基の弟で小弓公方と言われる足利義明からの二方面からの圧迫を受け、勢力を著しく削がれている時期であったため伊勢家との婚儀は焦眉の急だった。  ちなみにこの小弓公方が千葉氏の籠る小弓城を真里谷武田氏の支援を受けて攻略した時、千葉氏の家臣に原虎胤と云う者がいたが、今は甲斐武田氏を頼り信虎の家臣となっている。  高助は再び小田原に使者を差し下すことにし、使者に口上を伝える様は噛んで含めるようでもあった。 「よいか、再び小田原に参り、こう口上を申すのだ」  高助は前半に差していた扇を抜き取ると、そのまま顎に当てながら目を瞑って言葉を出した。 「その昔、伊予守頼義公(源氏)が奥州へ下りし時、上野介直方(平氏)の婿になりて後、八幡太郎義家以下の君達が出来賜い、今も源氏が栄えておりまする、また頼朝公(源氏)が流人となり北條時政(平氏)の婿となって御子孫目出度く北條九代まで栄えましたる事、吉例に御座いますれば、とかく宮仕えに参られなさいませ」  古河足利家の源氏と小田原伊勢家の平氏の婚姻は子孫愈々繁栄の吉例であると伝える事が得策と考えていたのである。 ---------  この後、再び氏綱の元に古河公方高基の使者として梁田高助の使者が使わされた。  使者を小田原に送り出してから高助。物の報告にと、使者の間を後にすると、そのまま古河城内の高基の御座所に向かった。  使者の間から御座所までは幾つもの廊下、濡れ縁を通り、左右に庭園の風景を眺める事のできる渡り廊下を進んで行く事になる。古河の館は意外と広い。  左右の庭園に癒されながらするすると歩を進める高助の前方に、ふと人影が見えて来た。  水干姿の簡素な姿ではあったが、それは隠れ無き古河の主、足利高基であった。  公方の姿を目に入れた高助は広く取られた廊下の端に身を避けて高基を迎えた。 「高助か、恙無いか」 「はい。上様には御機嫌麗しゅう存じます」 「うむ、で、その方、使者を小田原に遣わした、と聞いたが、その後どうなっておる」  古河の公方、高基の声は意外と高く、掠れた音を含まないようで耳触りの良い声として聞く者の耳に入って来る。実に聞き取り易い声である。 「先ほど小田原からの使者が立ちかえり、知らせを持ち来たりました」 「ふむ」  高基は目で次の言葉を促した。 「使者が申すには、伊勢殿は我が家は凡下になり果てたる故に公方家との縁組は恐れ多い事と言って参ったとの事にございます」 「ほう、左様か。しかし今は凡下とはいえ備中荏原の伊勢氏といえば桓武平氏、一品葛原親王(いっぽんかずらわらしんのう)よりの出であろう。我が足利の家(源氏)と何ら遜色はあるまいに」 「上様に対してご遠慮なされておいでなのでしょう。それゆえ遠路ではありますが今一度使者を送り申しました」 「それは良い。小田原の伊勢家とは我が父(政氏)や祖父(成氏)の代から昵懇じゃ。儂の代になっても協力を惜しませてはならぬぞ」 「御意にございます」 「それに伊勢の先代である宗瑞には礼も言わなかったが感謝もしておる、と伝えておけ」 「は、何と申されましたか」 「宗瑞は我が古河家の敵、堀越の家を滅ぼしてくれた」 「あぁ、なるほど。それはよろしゅうございます。公方様から感謝すると仰せあれば伊勢殿も感激することでございましょう」 「うむ」 「この高助、公方様の思し召しのまま事を進めまする故、御心安くお待ちくだされ」 「頼むぞ」
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