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「あーあ、もう終わりか。美術の時間は気が楽で良かったんだけどな」
自身の画板を手に、本条が光希に笑いかける。
「戻ろうか」
「あ……僕、トイレに寄ってくから、本条君は先に戻りなよ」
「ふーん。じゃ、また」
腹を立てた様子も見せず、本条はさっさと歩き出す。綺麗に背中の筋を伸ばして。
しかし、少し歩いただけですぐ振り返った。
「思い出した。あったよ」
「え? 何が?」
「鈴原、さっき俺に読んだことあるか訊いただろ? 例の宮沢賢治の作品」
歳の割りに艶めかしい笑顔の上を、色濃い翳りが一瞬だけ通り過ぎる。
「もうほとんど覚えてないけど。確か、『クラムボンは死んだよ』……ってやつだよな」
抑揚なく呟かれた、作品の中の一文。
他に何も言い残すことはなく、本条は、今度こそ軽やかに立ち去っていった。
近くからでも遠くからでもない、不思議な距離感を持って接してきたクラスメート。彼の姿が見えなくなると、言い知れない緊張感が一斉に霧散する。光希は肩を撫で下ろした。
心の一部を打ち明ける。そんな個人的な会話を誰かと交わすのは、もうこれっきりにしなければならない。自分に強く言い聞かせ、虚無感だけを抱え、光希も教室を目指した。
クラムボンは死んだよ────本条の声になぞられたその一文が、ずっと耳の奥でこだました。
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